35.アキさんの真意
「アキさん!」
宿に戻るなり、靴を脱ぎ捨て中へ上がった私は、食堂のすぐ隣にあるアキさんの部屋へと向かった。
コンコンッと扉をノックしてみるも、返事は返ってこず。
慎重に扉を開け、中の様子を伺ってみたけれど、そこにアキさんの姿はなかった。
ふと、アキさんが口にしていた言葉を思い出す。
――そういえば、旦那様に別れを告げるって……。
すぐさまダリスさんの部屋へと駆けつけた私は、勢いのままに扉を開け放った。
その先には、ダリスさんが使っていたであろう木製の机。
そして、それに手を添えるようにして佇むアキさんの姿があった。
「おや……どうかしたのかい?」
ゆっくりと顔を上げたアキさんは、感情の起伏の無い声で私に問う。
対して私は、山道を駆け上がって戻って来たため、完全に息が上がってしまった。
今は声を発する余裕もなく、ハァハァと呼吸を繰り返すのみ。
そんな私を見て、アキさんは穏やかな笑みを浮かべると、呆れ気味に告げた。
「やれやれ……。まだ若いのに、情けないねぇ」
特に急ぐ様子もなく、むしろいつもよりのんびりとしているアキさんは、やはりここから逃げようとは思っていないのだろう。
まだ少し息苦しいけれど、乱れた呼吸のまま、一際大きく息を吸い込んだ。
「アキさんは……ここに残るおつもりなのですか?」
率直に訊ねた言葉に、アキさんは何の反応も示さない。
けれど一泊置いた後、閉ざしていた口から小さく息を吐き出した。
「ああ、そうだよ。この宿は私の命も同じだからね。最後まで見放したりはしないさ」
「そんな……命を落としてまでこの宿を守るだなんて……旦那様はそんな事望んでいません!」
「おや……本人に会った事もないのに、よくそんな事が言えるねぇ」
嘲笑を交えながらの鋭い指摘は、アキさんの言葉とは思えないほど冷たく感じた。
これまでは、強気な発言も全て、アキさん独特の温かみを感じられていたのに……。
「関係のない人間が、知った口を叩くんじゃないよ」
あからさまに突き放す言い方をされ、思わず足がすくみそうになる。
だけど私も、ここで気圧される訳にはいかない。
ジニー君と公爵様は今、宿にまで火が回らないよう食い止めようとしてくれている。
それでも、木々が密集しているこの場所で風の流れが変わったりでもしたら、火は一気に燃え広がるだろう。
――今は一刻も早く、アキさんの説得を試みないと……。
グッと両手の拳に力を込め、しっかりと顔を上げた私は、反論を述べる。
「確かに、私はアキさんの旦那様をよく知りません。ですが、この部屋に居ると分かります。旦那様が……どんなにアキさんを愛していたかが……」
壁のあちこちに掛けられた昔のアキさんの肖像画。
その中には、本人の許可を得ず描いたであろう寝顔や、料理をする後ろ姿など、自然体のアキさんの姿がいくつもある。
旦那様はきっと、隙あらばアキさんを見ていたのだろう。
ここの絵画を見ていると、アキさんが好きで好きで堪らないのだという旦那様の想いがひしひしと伝わってくる。
「そうだねぇ……。確かに、うんざりするほど私にべったりだったよ。そういうところはマリエーヌちゃんの旦那さんにそっくりだ」
「それなら尚更、旦那様はきっと、アキさんの幸せを願っていたと思います。命が尽きるその時まで、アキさんの事が頭から離れなかったはずです」
言いながら、頭を過ったのは前世での記憶。
ぐっと喉が詰まりそうになるのをなんとか堪え、言葉を続けた。
「愛する人を残してこの世を去らなければならなかった人の気持ち……なんとなく分かるので……」
「ふっ……まるで死んだ事があるかのような言い方だね」
鼻先で笑い飛ばすように、アキさんは言う。
だけど事実、私は前世で一度死を経験している。
あの時、もう自分は助からないのだと悟った私は、せめて公爵様だけでも生き延びてほしいと……願わずにはいられなかった。
あの状況で、それが絶望的だと分かってはいたのに。
それでも、生きてほしかった……。
公爵様に、幸せになってほしかったから……。
アキさんの旦那様だって、きっと同じ思いだったはず。
「だからこそ、旦那様はこの宿をアキさんに託す事で、アキさんが生きていくための理由を残したのではないでしょうか。たとえ自分が帰って来れずとも、アキさんがしっかりと前を向いて生きていけるようにと思って……」
旦那様の死を嘆き、悲しみに暮れたアキさんが、自ら命を絶つ事がないようにと――。
「旦那様が本当に守りたかったのは、宿じゃなくてアキさんです。だからこの宿を守るため、アキさんが死を選ぶというのは旦那様の意に反しています」
そう言い切ってみせたものの、私が二人にとって赤の他人なのに変わりはない。
そんな私の言葉が、アキさんの気持ちを動かせるのか……自信なんてない。
だけど……一度死を経験した私だからこそ、旦那様の気持ちには確信が持てる。
「……」
アキさんは旦那様の机に視線を落としたまま、何も言わない。
私も沈黙を守りながら、アキさんの反応を静かに待った。
アキさん自身が、自分の気持ちに折り合いをつけなければ意味はない。
たとえ、この場所を失ったとしても……アキさんがこの先の人生を、前を向いて歩いていけるように。
それができて初めて、本当の意味でアキさんを救えたと言えるのだろうから――。
時が止まったように、沈黙に包まれた空間。
その中で、カチッカチッと、壁に架かった振り子時計の音響が、確かな時の流れを刻み続けている。
やがて、フッ……と、小さく笑う声が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げたアキさんは、まるで肩の荷が下りたかのように穏やかな顔をしていた。
「アキさん……」
その様子を見て、ホッと胸を撫でおろす。
――分かってくれた……旦那様の想いを……。
「知っていたさ」
ぽつりと呟かれた言葉に、思わず息が詰まった。
その声の冷淡さ。
笑みを浮かべているのにも関わらず、感情を失ったように虚ろな眼差し。
違和感だらけのその姿を前にして、ざわりとした胸騒ぎと共に、嫌な汗が頬を伝った。
「……知っていた……?」
唖然としたまま、その言葉を復唱していた。
アキさんは張り付けたような笑顔のまま、遠くを見つめるように語りだした。
「あの人が私を生かすために、この宿を託したのは知っていたよ。私が悲しみに暮れて、後を追う事がないようにと……あの人なりに考えての言葉だったんだろう」
――アキさん……ちゃんと分かって……。
冷静になって考えれば、それも当然だった。
旦那様の傍で、長い時間を共にしてきたのは他でもない、アキさんなのだから……。
その想いは、誰よりも理解していたはず。
「じゃあ――」
「だから私は死ねなかったんだよ。その言葉のせいで」
私の言葉を遮るように、アキさんは強い口調でそれを言い切った。
その語気には、恨みでも込められているかのような強い感情が読み取れた。
「え……?」
――それは……どういう事……?
「あの人もせこい男だよ……。私が責任感の強い人間だって分かっていて、そんな言葉を残したんだから……。残される側の気持ちも考えないで……唯一の退路まで絶ってさ……」
一定のトーンで、ぽつりぽつりと告げられる恨み節。
やがて深い溜息を吐き出したアキさんは、ゆっくりとした動作で天を仰いだ。
「ほんと……残酷な男だよ」
――……あ……。
その瞬間、気付いた。
私が大きな勘違いをしていたこと。
アキさんがここに残った、本当の目的に……。
「あの言葉から解き放たれて、ようやく死ねる時が来たんだ。だから――邪魔しないでおくれよ」
アキさんは宿を守るためではなく、自分が死ぬためにここに残ったのだと――。




