34.背中を押されて……
遠方にたゆたう炎が、徐々に側面へとゆっくり燃え広がっていくのが見える。
前世での最期を思い起こさせるそれは、胸の内の不安を掻き立てていく。
少し息苦しくなり、私の足の動きが鈍くなったのに気付いた公爵様がゆっくりと足を止めた。
「マリエーヌ。大丈夫か?」
「……はい……」
そう返事をしながら、後ろを振り返る。
そこにジニー君の姿はない。
当然、アキさんの姿も。
「……アキさん、本当に来てくれるでしょうか……」
「……」
何も言葉を返さない公爵様も、きっと私と同じ事を考えているのだろう。
『自分が居ない間、ここを守ってもらいたい』
旦那様がアキさんに託した遺言。
その遺言を胸に、アキさんは今まであの宿を守ってきた。
三十五年間。
私が生まれるよりもずっと前から……。
旦那様が、『自分の命よりも大事』と称したあの宿は……もしかしたら、今のアキさんにとっても、同じくらい価値のあるものなのかもしれない。
それほど大切な宿を失うかもしれないという時に――アキさんは笑っていた。
強がっていたとか、そういうのとは違う。
どこか吹っ切れたような笑顔だった。
――……アキさんは……最期まであの場所に留まるつもり……?
拭いきれなかった懸念が、現実味を帯びる。
「アレクシア様……私……やっぱり戻ります!」
「……やはり、あの女将が気がかりなんだな」
まるで私がそう言うのを分かっていたかのように、公爵様は眉尻を下げ、小さく笑う。
「はい。アキさんはきっと、あの宿を見放さないと思います。あの宿を守ってほしいという、旦那様の遺言を貫き通すつもりです」
たとえ全てが炎に呑み込まれようとも……きっと最期の瞬間まで……。
ぐっと拳を握り、顔を上げる。
「だけど……そんな事をアキさんの旦那様は望んでいなかったはずです! だから……私がアキさんを説得して、あの宿から連れ出します!」
「無理ですよ」
「え……?」
熱く滾る想いに冷や水を浴びせるような、冷たい声。
気付けば、公爵様の後方にジニー君が佇んでいた。
その足元に寄り添うように、心なしか少し元気がないロキ君の姿もあった。
「無理って……どういう事……?」
「母さんを説得するの……無理だと思う」
再度、はっきりと告げられて、胸の内に冷ややかな風が吹き抜ける。
「どうして……そう思うの?」
「……ずっと見てきたから」
どこかばつが悪そうにしながら、ジニー君はぼそりと答える。
見てきたから……説得は無理だと、断言できるのだろうか……。
「じゃあ……ジニー君は、アキさんをあのままにしておくの……?」
「……もう少ししたら、僕が無理やりにでも母さんを連れ出します。あなたたちは先に行っていてください」
落ち着いた口調でそう言うと、ジニー君は近くの木に寄りかかるようにして体を預けた。
だけど……無理やりにでも――その言葉が、引っかかった。
確かに、それでアキさんの身の安全は確保できる。
でも、宿を失ったアキさんの心はどうなるの……?
旦那様を失ったアキさんにとって、あの宿は生きる希望でもあったはず。
それなのに、それさえも失ってしまったら……。
それを想像するだけでも、アキさんの心の悲鳴が聞こえてきそうで……胸が締め付けられる。
悲しみに圧し潰されてしまった後では、もう何を言っても言葉は届かないかもしれない。
だからこそ、今のアキさんに伝えたい。
一度死を経験した私だからこそ、伝えられる言葉があるはずだから……!
「やっぱり私が行きます! アキさんを説得して、あの宿から連れ出します!」
「できなかったらどうするの? あなたも母さんと一緒に死ぬの?」
「……! それは……」
「それとも、母さんを置いてあなただけ逃げるの?」
時間の猶予も無い中で、八つ当たりするような煽り文句を連ねられ、さすがにカチンとくる。
「私は……絶対に見放したりしません! 私も、アキさんも……二人で必ず、生きて戻ってみせるわ!」
思いのままに一気に言葉を吐き出す。
すると、ジニー君は飽き飽きとするような溜息を吐き出した。
「マリエーヌさんって……綺麗ごとが好きだよね」
「……え?」
「正しく行動すれば、全てが上手くいくとでも思ってるの? 善い行いをすれば、神様が守ってくれるとか? 自分の選択が間違っていないと、本当に言い切れるの?」
「……」
心を抉り取るような辛辣な言葉。
それでいて、図星を突く鋭い問いかけ。
「たまたまその人を篭絡できたくらいで、何もかもが自分の思い通りになるとでも――」
次の瞬間、風を切るような音と共にジニー君の前に迫った公爵様が、その首元に手を添えた。
「黙れ。今度こそ、喉を潰して二度と戯言を吐けなくさせてやろうか?」
「……」
公爵様に凄まれ、ジニー君は顔を逸らし沈黙する。
しん……と、静まり返る空間に、パチッ……と、遠方から火花の弾ける音が聞こえてくる。
私は茫然と立ち尽くしたまま、言葉を失ってしまった。
全てがジニー君の言う通りだったわけではない。
だけど、そう思う気持ちも少なからずあったのかもしれない。
誰かのためを思って行動すれば、それはきっと実を結ぶはずだと。
事実、私と公爵様は、今こうして生きているから――。
だけど、もし失敗したら……?
説得できないまま時間だけが過ぎ、逃げ遅れたとしたら……。
もう一度、奇跡が起きる保証なんてない。
私が説得を試みるなんて言ったばかりに、救えた命が犠牲になるかもしれないのだ。
今まさに踏み出そうとしていた足が、思うように動かない。
自分の選択が、誰かの生死を左右させる。
その重責に、今ようやく気付いた。
「マリエーヌ」
私の迷いを察したのか、公爵様の優しい声が私の名前を呼んだ。
顔を上げると、いつの間にか公爵様が私の前に佇んでいた。
いつもと同じ、淡い笑みを携えて。
「君ならできる」
迷いのない、耳によく通る声ではっきりと告げられた。
「アレクシア様……」
それは、私にとって意外な言葉だった。
私の安全を一番に考える公爵様だからこそ……宿に引き返すと言えば、引き止められるだろうと思っていたから。
だけど今、公爵様は私の背中を押してくれている。
私ならできると、信じてくれた。
こんなに心強い事があるだろうか――。
「あの炎は僕が食い止める。絶対に君を危険に晒したりはしない。だから、君も僕を信じて行くといい」
私を真っすぐ見据える瞳は穏やかで、私への揺るがぬ信頼が伺える。
私も、公爵様の言葉は信じられる。
「……好きにしなよ。無理だと分かったら、僕が母さんを連れ出すから」
投げやりに言うと、ジニー君はプイッとそっぽを向く。
すると、公爵様はどこから取り出したのか、手にした斧をジニー君へと差し出した。
「お前はこっちだ」
「……斧?」
ジニー君は腕を組んだまま、訝しげに首を傾げる。
「これで木を切り倒し、防火線を作って炎の延焼を防ぐ」
「は? そんなの無理に決まってるでしょう」
「無理でもやるんだ」
「それならあなた一人でやってください。僕が斧を上手く扱えないのは知っているでしょう」
その言葉が、やっぱり引っかかる。
ルドラさんの証言で、本当はジニー君が、斧を上手く扱えるというのは知っている。
それなのに、どうしてそんな嘘をつく必要があるのだろう……?
「確かに、お前では無理だろうな」
それを言い出したはずの公爵様まで、呆気なく納得する。
けれど次の瞬間、その眼光が鋭く尖り、ジニー君を睨みつけた。
「だが、お前ならできるだろう?」
含みのある言い方に、ジニー君は微かに肩を揺らした。
――……どういう事?
「……」
ジニー君はぐぐっと口を引き結び……やがて観念するように深い溜息を洩らした。
「あーもー……やりゃあいいんだろうが!」
ガシガシと頭を掻きむしりながら乱暴に言い捨てると、ジニー君は公爵様の手から斧を奪い取った。
それを肩に掛け、炎が立ち昇る方向へと歩き出した。
そのやり取りを呆然と見ていた私は、ジニー君の後ろ姿に妙な違和感を覚えながらも、瞬時に我に返った。
「では、私はアキさんの所へ向かいます!」
公爵様に声を掛け、走り出そうとした時――。
「マリエーヌ」
その声に振り返ると、すぐ傍で公爵様が愛おしげに私を見つめていた。
そして次の瞬間――公爵様の手が私の肩に回され公爵様へと引き寄せられた。
瞬きする間もなく私たちの唇が一瞬だけ重なり、耳元で囁かれた。
「また後で会おう」
「……はい。アレクシア様も……お気をつけて」
束の間の抱擁。
ひと時の別れを惜しみながら、私と公爵様は別々の道を駆け出した。




