33.最後の夜に
あれから私は、アキさんの言葉に甘えて部屋で少し休ませてもらった。
その後、壊れてしまった玄関の扉が気になり様子を伺ってみると、扉の代わりに大きな布を引っ掛けて代用していた。
あの状況で、扉を壊してまで駆け付けた公爵様を責める気持ちは無いけれど、やっぱり申し訳なく思っていると、ニコニコと機嫌良くアキさんが声を掛けてきた。
「建て付けが悪くなってたからちょうど良かったよ。マリエーヌちゃんの旦那さんが修理費も出してくれるって言うから、お言葉に甘えさせてもらったよ」
そう言って、したり顔を決めるアキさんのおかげで、気持ちが少し楽になった。
それからは、アキさんの体調もすっかり良くなったようで、食事の準備は二人で分担して行った。
互いに作った料理を味見し合ったり、アキさんの故郷の料理を教えてもらったり……。
それは胸がぽかぽかとするような、温かくて心地の良い時間だった。
そして夕食。
皆で食卓を囲むのも今日で最後だと思うと、やっぱり少し寂しくて。
「またいつでも遊びにおいで」と言うアキさんの言葉にも、思わず涙ぐんでしまった。
――もう少し、ここに居たかったな……。
そう思ってしまうほど、この場所はとても居心地が良かった。
それもきっと、大らかで人を惹き付ける魅力のあるアキさんが居るからなのだろう。
ジニー君とは、まだ少し心の壁はあるけれど、出会った当初と比べたら少しは肩の力が抜けたようにも見える。
とはいえ、公爵様とは相変わらず、目も合わそうとしないけれど。
最後まで反発し合ってばかりの二人だったけれど、大きな喧嘩にまで至らなくて良かったと、内心ホッとしていた。
食事を終えて、食器の片付けに取り掛かろうとした時、外からロキ君が忙しく吠える声が聞こえてきた。
ジニー君が様子を見に向かうと……すぐにバタバタと走りながら戻ってきた。
乱れた前髪から青い瞳を覗かせ、深刻な顔で告げた。
「山が燃えてる。すぐにここから離れた方がいい」――と。
◇◇◇
外へ出ると、夜に満ちた山の奥で、朱色の炎が揺らめいているのが見えた。
風に乗って、微かに煙の臭いが漂ってくる。
少し遅れて宿から出て来たアキさんが、訝しげに首を傾げた。
「なんであんなとこで……あの辺は誰も住んでいないはずなんだけど……」
「……あの人たちじゃない? 今日やって来た人……なんだか執念深そうだったし……」
淡々とした口調で、ジニー君が見解を述べる。
「まさか……逆恨みで火を付けたって事ですか……?」
それにしては、やけに距離が離れている気がするけれど。
「ねえ、旦那さん。あんた、あの人たちをどこへ捨てて来たんだい?」
「……ちょうどあの辺りだな」
さらっと答えながら公爵様が指差した方角は、今まさに火が立ち昇っている場所。
アキさんは、呆れと感心が交じり合うような顔でその先を見据えた。
「えらい遠くへ捨てて来たんだねぇ……。あの辺は誰も管理してないし、木々が生い茂るだけの荒れ地だよ。迷い込んだら最後、方向感覚を失って二度と戻れない。ここに住む人間でも、誰も近寄ろうとしない場所だよ」
「そうだったのか。ゴミを捨てるのにちょうど良い場所を見つけたと思ったんだが」
全く悪びれる様子もなく、公爵様は感情のない声で言う。
荒れ果てた山中で目覚めた彼らの心中を察すると、ちょっとだけ気の毒に思えた。
「じゃあ、その人たちが躍起になって火をつけた可能性もあるね。いっそ身ぐるみも全部剥がしてしまえば良かったのに……」
ボソッと付け足した言葉から、ジニー君の彼らに対する恨みの根深さが滲んで見えた。
「そうだな。ついでに木に縛り付けて野生動物の餌にでもするべきだったな」
そんなところで意気投合する二人を尻目に、私はアキさんに話しかける。
「えっと……ひとまず、ここを離れた方がよさそうですね」
「……そうだね。とりあえず工房の所まで下れば安全だろう。近くに大きな河川があるから、対処もしやすいだろうし」
「では、すぐに向かいましょう!」
そう声を上げたものの、アキさんはまるで私の声が聞こえなかったかのように、急に黙り込んだ。
「アキさん……?」
呼び掛けるも、アキさんは何かを考え込むように視線を伏せ……やがてぽつりと告げた。
「……あんたたちは、先に行っててくれるかい」
「え……?」
アキさんとは思えないほどのか細い声に、胸がざわついた。
寂しげな笑顔を浮かべて、アキさんは続ける。
「いくつか持って行きたい物があるんだ」
「あ……そうですよね……。でしたら私もお手伝いします!」
「いや、先に行っておくれ。そんな大した持ち物じゃないんだ」
「でも……」
「……旦那にも別れを言いたくてね。二人だけで……」
「……!」
その言葉に、ハッと息を呑んだ。
――そうだ……この宿は……旦那様がアキさんに託した、とても大切な場所で……。
旦那様との思い出も、ここにはたくさん残っている。
当然、失いたくない物だっていっぱいあるはず。
それなのに、私は急かすような事ばかりを……。
自分の無神経さを恥じていると、アキさんが申し訳なさそうに笑いながら声を掛けてきた。
「大丈夫だから、そんな顔をしないでくれよ。私も後で追いかけるからさ。こんな老いぼれの泣きっ面なんて見せたくないんだよ。だから、早く行ってくれるかい? 別れの時間がなくなっちまうじゃないか」
こんな時にも、私たちに心配かけまいと明るく振舞うアキさんには、感服するしかない。
「……行こう。僕らが早く行かないと、母さんも動けないから」
意外にも、ジニー君が一番に声を上げた。
それを聞いて、アキさんはニコッと朗らかに笑う。
「よく分かってるじゃないか。さあ、マリエーヌちゃんも、早く行っとくれよ」
「……分かりました。アキさんも……あとで必ず来てください」
「ああ、分かったよ」
言いながら深く頷いたアキさんは、その場から動こうとしない。
私たちがこの場を離れるのを待っているのだろう。
「マリエーヌ、行こう」
「はい!」
公爵様に差し伸べられた手を取り、駆け出して間もなく――「ありがとうね」と、微かにアキさんの声が聞こえた。
咄嗟に振り返ると、そこではジニー君とアキさんが見つめ合うように佇んでいた。
言葉を交わさずとも、互いに何を言わんとしているかを分かっているかのように……二人だけの世界がそこにあるような気がした。
そんな二人の妨げにはなりたくなくて、私と公爵様はすぐにその場から離れた。




