32.疑惑の万年筆
「公爵様! それはやりすぎです!」
さすがにこのまま見ている訳にはいかず、公爵様に訴えかける。
公爵様はピタッと手を止めるも、こちらに振り返ろうとはしない。
男の腕を縛る腰紐を握りしめたまま、静かな声が聞こえてきた。
「マリエーヌ……すまない。だが……この男はこの世の禁忌に触れた。だからそれ相応の報いを受けるのもまたこの世の摂理。君に不快な思いはさせたくない。だからしばらくの間、目と耳を塞いでいてほしい」
禁忌とか摂理とか、不慣れな言葉でよく分からないけれど、公爵様が本気だというのはよく分かった。
男の腕を何重にも縛り終えると、公爵様は立て掛けていた斧を手に取った。
「あの人、完全にキレてるみたいですね」
呑気な声で言うジニー君に、咄嗟に呼びかける。
「ジ二―君! 公爵様を止めないと!」
「別にいいんじゃないです? 母さんをババア呼ばわりした奴の腕が失くなったところで自業自得だし」
言いながら、だんだんと低くなっていくジニー君の声には、静かな怒りが滲んでいる。
――……ジニー君……? なんだかまた、人格が変わってない……?
再び公爵様に視線を移すと、斧を持つ手を振りかぶり、今まさに振り下ろそうとしている。
――駄目……!
思わず瞑りそうになる瞼を、必死に抗い見開いた。それから大きく息を吸い込み――。
「アレクシア! 待て!」
渾身の力を振り絞り、言い放つ。
途端、公爵様の動きがピタッ……と急停止した。
男の腕に振り下ろされた刃は、あと数ミリというところで止まっている。
「マリエーヌ……今……僕をアレクシアと……?」
斧を握る手と体を震わせながら、公爵様は瞳キラキラと輝かせながらこちらを見つめる。
その足元では、男が白目を剥いて倒れている。
どうやら恐怖のあまり気を失ったらしい。
とりあえず最悪の事態を免れた事にホッと胸を撫でおろす。
一方で、公爵様は未だに同じ体勢のまま動こうとしない。
ただ期待に満ちた瞳でこちらを見つめ続けている。
どうやら私の『待て』の命令を忠実にやってみせているらしい。
しばし戸惑いながらも、
「……よし」
控えめに呟くと、途端に公爵様は動き出し、私の許へと駆け寄った。
まるで褒めてと言わんばかりのその表情を前に、
「よくできました……」
と、控えめに言いながらナデナデと頭を撫でる。
私に撫でられて嬉しそうに目尻を下げる公爵様の姿は、本当に――。
「……犬みたい」
背後に佇むジニー君がぼそりと呟く。
けれどさすがに今回は否定できない……。
すると公爵様は急にしゅん……と小さく項垂れた。
「マリエーヌ……すまない……。つい我を忘れてしまって……また君に怖い思いをさせてしまったな」
「いえ……ちゃんと止めてくれましたから。あと、助けに来てくれてありがとうございます」
お礼を告げると、公爵様は安堵するように柔らかく笑った。
「ああ、当然だ。君の事は必ず僕が守ってみせる」
真っすぐな眼差しを私に向けて、公爵様は凛とした表情で告げた。
私も、知らない男の人たちに囲まれて怖かったけれど、きっと公爵様が助けに来てくれると信じていた。
「あー……いい雰囲気のところを悪いんだけどさ」
そう声を掛けてきたのは――。
「アキさん!」
奥の方から出てきたアキさんは、いつものように髪をお団子にまとめ、服も着替え終えていた。
私にニッコリと笑いかけた後、その視線は鋭く尖り公爵様へと向かう。
「なかなか派手に暴れてくれたじゃないか」
その言葉にハッとして、現状を確認する。
引き戸となっていた玄関の扉は二枚ともなくなってしまっている。
外から強い風が吹き込む中、足の踏み場がないほど折り重なって倒れている大柄な男たち。
外れた二枚の扉も、強い衝撃を受けたせいで真っ二つに折れてしまっている。
「も……申し訳ありません……。あの……扉も弁償させていただきますので……」
「いや、いいんだよ。悪いのはあいつらだからね。途中から見ていたけど、いい気味だったよ」
くつくつと笑うアキさんは、本当にその言葉どおり清々しい顔をしている。
その姿に安心するも、扉の修理はあとで公爵様と相談してきちんとしよう、と心に置き止める。
「しかしすごいねぇ……。ペンが壁に突き刺さってるのなんて初めて見たよ」
言いながら、アキさんは壁に突き刺さった万年筆に手を伸ばし――。
「母さん‼」
突然、ジニー君の張り上げた声が耳に突き抜けた。
ビクッと肩を跳ねさせ手を引っ込めたアキさんは、驚きに目を見張る。
「なんだい……そんな大声上げて……。びっくりしたじゃないか」
「それに触らない方がいい」
「え……?」
いつになく真剣な声で、ジニー君が忠告する。
アキさんは目を瞬かせると、壁の万年筆に視線を向け神妙な面持ちでジッと見つめる。
「これがなんだってんだい? ただの万年筆じゃないか」
「ああ、そうだ。それはただの万年筆だ」
そう口を挟んだのは公爵様だった。
公爵様は万年筆が突き刺さる壁の前まで歩くと、それを片手で掴んで引き抜いた。
それを見て、ジニー君の体が強張るように硬くなる。
グッと口元を引き結び、握りしめる両手は微かに震えている。
その表情は分からずとも、公爵様を警戒しているのが伝わってくる。
公爵様は右手でクルクルと万年筆を器用に回しながら、ジニー君に冷ややかな視線を送る。
「随分と大袈裟な反応をするんだな……。万年筆に毒が仕込まれているとでも思ったのか?」
「――!」
何かを探るような公爵様の問いに、ジニー君は少しだけ口を開くも、そのまま言葉を詰まらせた。
対峙する二人からは、ただならない緊張感を感じられる。
「……以前……万年筆のインクに毒が仕込まれていたという記事を見たので……」
「ほう……それは実に興味深いな」
――……いくらそんな記事を見たからって……そんな過剰反応するものなのかしら……?
その時、何かを思い出すようにアキさんが顔を上げた。
「そういえば記事で思い出したよ。ジニー、私の部屋に新聞があるから、あとで取りにおいでよ」
アキさんの明るい声により、物思いに耽っていた私もハッと思い出す。
私がジニー君のところに新聞を持って行くと言っていたのに……。
「ごめんなさい。アキさんのお部屋に置いてきてしまって……」
「いいんだよ。それよりも、旦那さんはこの男たちを適当に捨ててきてくれるかい。こんなところで寝られたら邪魔で仕方ないよ」
「ああ、そうしよう」
「ジニーは扉の代わりに風避けになりそうな物を倉庫から持ってきておくれ」
「……うん。分かった」
テキパキとしたアキさんの指示により、公爵様とジニー君はそれぞれ動き出す。
それからアキさんは私の傍に来ると、申し訳なさそうに笑った。
「マリエーヌちゃん。うちらの事情に巻き込んじまって悪かったね……。怖かっただろう。部屋の掃除はいいから、少し休むといいよ」
優しい声で話しかけられて、気が緩んだのか少し泣きそうになった。
途端、長らく続いていた緊張感から解放されて、ドッと体が重くなる。
確かに、少し休ませてもらった方がよさそう。
「ありがとうございます……」
素直に応じると、アキさんはニッコリと笑って「お茶を入れてくるよ」と、食堂の方へと向かった。
――やっぱり、アキさんは頼りになる。
いつも笑顔を絶やさず、温情に溢れていて、厳しい言葉にも確かな愛情を感じられる。
アキさんはまさに、理想を詰め込んだような母親像だった。
そんなアキさんを、自分の母親の姿に重ねながら、幼い頃に失ってしまった母親の愛情に少しばかり浸っていたのだと思う。
だから……私には見えていなかったのかもしれない。
アキさんの笑顔の裏側に隠されていた、もう一つの顔に――。




