29.アキさんとジニー君の出会い
お部屋の掃除を始めてしばらくすると、宿に一人の来客があった。
その方は街からやって来た配達員さんで、三日に一度、この山中に住む人々に手紙や注文した品などを届けに来るらしい。
配達員さんは、宿から見知らぬ私が出てきたので少し驚いていたものの、事情を説明すると、アキさんの身を案じてくれた。
それから三日分の新聞を私に手渡し、すぐに去って行った。
折り重なった新聞の束を手に、私はアキさんの部屋を訪ねた。
アキさんは、ベッドに腰掛け長い髪を櫛で梳かしていた。
「アキさん、調子はどうですか?」
そう声を掛けると、アキさんは血色の良い顔をこちらに向け、朗らかに笑った。
「ああ。見てのとおり、もうすっかり良くなったよ。だけど悪かったねえ。今日も色々とやってもらっちゃって」
「いえ……私の方も、とても貴重な経験をさせて頂いているので」
「そうかい? やってる事は使用人と同じだってのに……相変わらずのお人好しだねぇ」
呆れながらも、その表情は少し嬉しそうに見える。
「おかげで昨日は一日中、休ませてもらったからね。今日は少しぐらい動いても構わないだろう? ずっと寝とくのも腰が痛くて敵わないよ」
言いながら、アキさんは櫛を持つ手を下ろすと、腰を丸めて反対側の手でトントンと腰を叩いた。
「確かにそうですね……。ですが、無理はなさらないでください。掃除は私がしますので」
「ああ、分かったよ。ありがとうね。……あ、そうだ。マリエーヌちゃん、ちょっとこっちへおいで」
「あ……はい」
指先で手招きされ、アキさんの傍まで歩み寄る。
すると、アキさんは私の髪先をジッと見つめ、
「やっぱり少し痛んでるねぇ。温泉の湯は髪にはあまりよくないからさ」
「そうなのですね……」
言われてみれば、確かに髪を結ぶ時に少し違和感があった気がする。
「髪の手入れをしてあげるから、ここに座ってくれるかい」
「はい、ありがとうございます」
アキさんが座るように促したのは、ベッドの半分ほどの高さの椅子。
そこへアキさんに背を向けるようにして座った。
一括りに結んでいた髪を解くと、アキさんは手にしていた櫛で私の髪を梳かし始めた。
最初は髪の引っかりが多くてなかなか櫛が通らなかったけれど、何度も梳かすうちに櫛の通りは段違いに良くなった。
髪を梳かし終えると、小瓶に入った椿油を手に取り、髪全体に馴染ませてくれた。
「そうだ。いい物があるよ」
そう言うと、アキさんはサイドテーブルに置かれている木箱から、棒状の何かを取り出し私に見せるように差し出した。
先端がツンと尖っており、その反対側には綺麗なガラス玉らしき飾りが付いている。
「かんざしって言ってね、私の故郷で造られた髪飾りなのさ。マリエーヌちゃんにこれをあげるよ」
「え……いいのですか? とても高価な物に思えるのですが……」
「ああ。もう使ってないからね。私のお古で悪いけど」
「そんな……嬉しいです。ありがとうございます。でも、これはどうやって使うのでしょう?」
「簡単だよ。今つけてあげるから」
するとアキさんは再び私の髪を櫛で梳かし、一束にまとめていく。
「髪でお団子を作って、これを挿し込むんだよ」
説明しながら、アキさんは慣れた手つきで私の髪を括ると、そこにかんざしを挿し込んだ。
「ほら、できたよ」
アキさんから手鏡を差し出されたので、それを受け取り目の前に掲げる。
少し横を向いて髪の状態を確認すると、頭部よりやや低めのところでお団子に纏められた髪には、かんざしに付いていた綺麗なガラス玉がちょこんとくっついている。
「わぁ……可愛いです。ありがとうございます!」
「ふふ……よく似合ってるよ。他にも欲しいのがあれば持って行っていいからね」
そう言うと、アキさんは木箱を持ち上げ膝の上に乗せた。
その中には、お化粧道具や髪留め、ブローチやペンなどの雑貨まで……とにかくいろんな物が収められていた。
私が興味津々にそれを覗き込んでいると、アキさんが苦々しく笑った。
「ずぼらな性格だからさ、なんでもかんでもひとまとめにしちゃうのさ」
「でも、可愛い物ばかりで宝箱みたいです。あ……これ、すごく綺麗ですね。それに不思議な形をしています」
私が気になったのは、私の髪のお団子のようにふっくらと丸いガラス細工。それにはステンドグラスのように色鮮やかな模様が描かれており、その中央には長細い筒状のガラスがくっついている。
「ああ、それは〝ビードロ〟って言ってね。このガラスの管に息を吹き込むと音が鳴るんだよ」
アキさんはそれを摘まみ上げると、筒状のガラスの先端を指さした。
「へぇ……初めて見ました。こんな綺麗なガラス細工から、どんな音が出るのか気になります」
「そうだねぇ。できる事なら聞かせてあげたかったんだけど、これはとっくの昔に壊れてしまってね。もう音が出ないんだよ。小さい頃に親が買ってくれて、この音色が好きでずっと吹いてたんだけどね。今はもう、どんな音だったのかもほとんど思い出せなくなっちまったよ」
するとアキさんは切なげに視線を伏せ、声のトーンを落として続けた。
「それが壊れたと分かって落ち込んでいた時、旦那が私の誕生日に新しいビードロを贈るって言ってくれたんだよ。だけど結局、その日が来る前に帰らぬ人になっちまったけどね」
「……そうだったんですね……」
まさかこのガラス細工からそんな話に繋がるとは思わず……アキさんにとって辛い記憶を思い出させてしまった事に、心苦しさでいっぱいになる。
すると、アキさんはパッとにこやかな表情へと切り替え、明るく声をかけてきた。
「それよりも、マリエーヌちゃんは私に用事があってここへ来たんじゃないのかい?」
「あっ……はい!」
手にしている物の存在をすっかり忘れていた私は、慌ててそれを差し出した。
「先ほど配達員の方がこれを届けに来てくださったので」
しかしアキさんはそれを受け取ろうとはせず、
「ああ、それはジニーに渡しておくれ。私は読めないからね」
そう言われて、ハッとした。
アキさんはこの国の文字が分からなかったため、旦那様の恋文を読めなかったのを思い出したから。
私はすぐに新聞を引っ込めた。
「では、これはジニー君に渡しておきますね」
だけど、ふと思った。
――ジニー君が、新聞を……?
まだ十六になったばかりと言っていたけれど……外の情勢に興味があるのかしら……?
やっぱりジニー君も、いずれは都会に出たいと考えているとか……?
口元に手を当てながら、うんうんと考えていると、アキさんがクスッと笑った。
「あの子が新聞を読むなんて、意外だと思っているんだろう?」
「え……? あ……はい……」
思っていた事を直に言い当てられ、正直に頷く。
すると、アキさんは何かを思い出すように遠い目をしながら、静かに語り始めた。
「もう六年も前になるのか……。私が街に買い出しへ出掛けた時、やたらと瘦せ細っている男の子を見かけたんだ」
話の流れから、その男の子がジニー君というのは想像できる。
「なんだかやけにその子が気になってね。こっそり様子を伺っていたんだ。するとその子ったら、人混みにまぎれて市場で売られてるリンゴを盗んでったんだよ」
「え……」
それは、あまりにも衝撃的な事だった。
――あの真面目そうなジニー君が、盗みをするなんて……。
アキさんはフッと切なげに笑い、先を続けた。
「どうしたもんかと、私も判断をあぐねてね。もちろん盗みは悪い事だけど、あの子が孤児だというのは目に見えて分かったからさ。捕まれば酷い目に合うのが分かってはいても、生きるためには、そうせざるを得ない現実があるんだよ。あんな小さな体で、リンゴ一つを大事に抱えて走る姿も、見ていてなんとも痛ましくてね」
言いながら、アキさんは瞳に涙を滲ませる。
私も、幼いジニー君のそんな姿を想像し、胸が締め付けられるように苦しくなった。
「だけどね……悪い事を正してやるのも大人の役割ってもんだからさ……。とりあえず、その子が路地裏に逃げ込んだのを見て、私も追いかけて行ったんだ。そしたらしゃがみ込んだまま盗んだリンゴを両手で持って、ジッとそれを見つめていてね。お腹はぐーぐー鳴り続けてるのに、いつまで経っても食べようとしなかったんだよ」
それからアキさんはふぅ……と息を吐き出し、湿っぽい声で続けた。
「そしたらその子、急に泣き出してね……。震える手でリンゴを握りしめながら、『ごめんなさい、ごめんなさい』って何度も謝るんだよ。それから嗚咽を漏らしながら、涙で濡れたリンゴを躊躇しながら食べだしたんだ。一口一口噛みしめるように……辛そうに顔を歪めながらね……。あの子は罪悪感に押しつぶされそうになりながら、必死に生きていたんだ。助けてくれる人もいない中、たった一人で……そう思うと、なんだかやるせなくてね……」
ズズッと鼻をすすって一呼吸つき、アキさんはニカッといつもの明るい笑顔を見せた。
「だからつい、連れて帰っちまったんだよ、あの子を。拾ったからにはもう私の子だからね。私が責任を持って、この子を幸せにしようと思ったのさ。まあ、ずいぶんと生意気な子に育っちまったけどね」
そう言うと、アキさんは嬉しそうに笑いながら涙の溜まった目尻を指先で拭った。
私も途中から込み上げる涙を堪えきれず、ハンカチを握りしめながら聞いていた。
「そうだったのですね……」
話を聞いて、血の繋がりはなくとも、二人の間にある絆の深さの核心に触れた気がした。
「だけどあの子は本当に欲がなくてねぇ。何か欲しい物はないかって聞いても、何もいらないって答えるんだよ。私も十歳の子が欲しい物なんてよく分からなかったから、欲しい物ができたら何でも言ってみなって伝えたのさ。そしたらある日、急に『新聞が欲しい』ってはっきり言ったんだ。十歳の子供がだよ」
「新聞を……?」
新聞なんて、私でも読んでいない。それなのに……十歳の子供が……新聞を……。
――……私も読んだ方がいいかしら……。
新婚旅行を終えたら、公爵様に相談してみようと密かに思った。
「だからその日から、新聞を届けてもらうようにしたのさ。そもそも文字が読めるのかも疑問だったけど、ちゃんと読めているみたいだし内容も理解しているんだ。何が書いてあるのか、私が教えてもらうくらいだからねぇ」
ジニー君の意外な一面を知り、思わず感心してしまう。
だけどこれまでにも、ジニー君の意外な姿というのは何度も耳にしてきた。
薪割りをするジニー君の姿は、まるで斧の使い方もよく分かっていないようだったのに、ルドラさんはジニー君の薪割りを絶賛していたし……更には大人でも困難な大木の伐採もするだなんて……。
それに、さっきも……一瞬だけ、ジニー君が別人のように思えた。
ジニー君の事を知れば知るほど、ジニー君が本当はどんな人物なのかがよく分からなくなる。
――アキさんに訊いたら、何か分かるのかしら……?
「あの……アキさん。ジニー君って――」
その時、ドンドンドン! と、玄関の扉を強く叩くような音がした。
それからすぐにガラガラッと扉が開く音も。
それに反応して私とアキさんは同時に顔を上げる。
「あら……また誰か来たのかね」
「あ……私が出ます! 何かあればまた呼びに来るので、アキさんはゆっくり身支度をしていてください」
立ち上がろうとしたアキさんを引き止め、私は足早に玄関へと向かった。




