28.滲み出る違和感
翌日、アキさんの熱は下がったものの、まだ病み上がりというのもあり、引き続き安静に過ごしてもらう事にした。
私と公爵様も、もう一日だけここに泊まり、明日の朝に下山しようという話になった。
という事で、今日も私と公爵様はジニー君の指示を受け、割り当てられた仕事に励んでいる。
玄関を出てしばらく歩いた先で、この宿の看板犬でもあるロキ君が、パタパタと尻尾を懸命に振って私を歓迎してくれた。
「ロキ君、おはよう」
声を掛けると、ロキ君は一層嬉しそうにそわそわと忙しく動き回る。
だけどその視線は、私……というよりも、私の手元にあるお皿に向けられている。
ロキ君の期待通り、このお皿の中身はジニー君お手製のロキ君用の朝食。
お肉や潰した豆、あとは見覚えのある料理が一緒に混ぜ込まれていて、見栄えは良いとは言えないけれど、ロキ君にとっては何よりのご馳走なのには違いない。
私が傍までやってくると、ロキ君は前足を上げて立ち上がり、私の持つお皿を奪わんとばかりに鼻先で突っつく。
「あっ……待って待って……」
お皿を奪われまいと持ち上げるも、もはや目の前のご馳走にしか意識が向いていないロキ君には、私の声は届いていないようで。
気持ちは分かるけれど、決められた手順は守らなければならない。
昨日、ジニー君に見せてもらったお手本を思い出しながら、気持ちを引き締め、「んんっ……」と咳払いして喉を整える。
そして大きく息を吸い込み――。
「待て!」
一気に吐き出すよう、ぴしゃりと言ってみせると、ロキ君はビクッと反応した。
すぐに上げていた前足をストンっと降ろし、お手本のように綺麗な〝お座り〟をしてみせた。
緩みきっていた口元もグッと引き結び、凛々しい佇まいを見せてくれている。
その見違えるほどの逞しい姿に、思わず感動してしまいそうになるも、ここで気を緩めてはいけない。
こちらも表情を引き締めたままロキ君と向かい合い、その足元にお皿をそっと置いた。
目の前に念願のご馳走が置かれたにも関わらず、ロキ君の視線は私へと向いたまま、姿勢は少しも崩さない。
そのまましばし見つめ合い――。
「よし!」
の合図と同時に、ロキくんが勢いよくお皿に顔を突っ込んだ。
頭を上下に動かしながら、ガツガツと一気に食事を頬張っていく。
その光景を見ながら、私は再び感動を覚えていた。
――なんてお利口さんなの……!
じーんと胸を熱くさせながら、ロキ君の後頭部をジッと見つめているうちに、お皿の中はあっという間に空になった。
ペロペロと皿を隅から隅まで舐め取り、ピカピカになったお皿だけをそのままに、今度は水をガブガブと勢いよく飲み始めた。
再び顔を上げたロキくんは、口の周りをベロンと舐め取り、ハッハッとご満悦な様子を見せる。
「綺麗に食べてくれたのね。ありがとう。それにとってもお利口だわ!」
頭を撫でると、ロキくんは嬉しそうに目を細め、「もっと撫でて!」と言わんばかりに私の体へと擦り寄ってくる。
――なんて可愛いの……!
その愛らしさに思わず両手で顔を覆い悶絶した後、その体をわしゃわしゃと存分に撫でると、ロキ君は私の頬をペロペロと舐めだした。
ざらっとした舌の感触や吐息が頬や耳元に触れるたび、こそばゆい感覚に襲われる。
「ふふっ……くすぐったいわ!」
その時、急にビクゥッと体を大きく跳ね上げたロキ君は、瞬時に私の体からすり抜け後ろに飛び退いた。
体をぐっと低くして身構え、私に向かって「ウウッ……」と低い声で唸る。
――え……? 急にどうしたのかしら……?
さっきまであんなになついてくれていたのに、急に敵意を剥き出しにされ、さすがにショックを受ける。
だけどよく見ると、ロキ君の視線は私の頭上へと向いている。
そして私の後ろからは、身震いするような冷気が。
――あ……まさか……。
瞬時にその理由を察したのと同時に、
「マリエーヌ」
と、背後から、たった今思い浮かべていた人物の声が聞こえてきた。
そぉっと振り返ると、予想していたとおり、いつもと変わらない笑みを浮かべる公爵様が佇んでいた。
……いや……いつもと変わらなくはない。
笑ってはいるのだけど……なんとなく淀んだオーラみたいなものが体から滲み出ている気がする。
「あ……アレクシア様は、今からお医者様の所へ薪を持っていかれるのですよね」
とりあえず、場の空気を和ませるためにも、先手を打って話を切り出すと、
「ああ、今から行こうと思う」
ニコッと爽やかに笑いながら、公爵様が答えた。
というのも昨日、アキさんを診てくれたお医者様からも、薪を分けてほしいと頼まれていたようで。
ここを離れられないジニー君の代わりに公爵様が持っていく事になった。
「それにしても……」
ゾッとするような声色に、再び空気が張り詰める。
笑みを浮かべる公爵様の視線は下方へとゆっくり動き――その眼差しから光が消失する。
「犬の分際でマリエーヌに撫でてもらうとは……いい度胸をしているな」
地を這うような低い声で、それは呟かれた。
――公爵様……。それは相手が犬だからこそのコミュニケーションだと思うのですが……。
一方でロキくんはというと、唸り声を上げながら尖った牙を剥き出しにして、今にも公爵様に飛び掛かりそうな状態。
まさに一触即発といった雰囲気が漂う中、若干わざとらしく思えるほど明るく振る舞い公爵様に話しかけた。
「アレクシア様! ロキくんってとってもお利口さんなんですよ!」
「そうだな……。客人相手に牙を向けるとは……なかなかに利口な犬のようだ」
そう言いながら、感情の無い笑みを浮かべる公爵様に、私は負けじと続けた。
「……えっと、ちゃんと『待て』も出来ますし、お行儀もとても良くてですね……」
「ああ。己の欲求のままに汚らしい雄の裸体を君に擦り付けるほどには行儀が良さそうだ」
――……あの、公爵様。その言い方は、お行儀があまりよろしくないかと……。
もはや何を言っても、状況は良くならないだろうと、静かに察した。
「あ……もう行かないといけないですよね! お気を付けていってらっしゃいませ!」
と、少しばかり強引に公爵様の背中を押して送り出す。
けれど公爵様の足は地に張り付いたように動かない。
「……あの、アレクシア様……?」
後ろから公爵様の顔を覗き込むと、神妙な面持ちで視線を地に落としている。
その表情には少しも笑みは見られない。
――もしかして、強引に送り出そうとしたのが気に障ったのかしら……?
すると、公爵様が俯いたままボソボソッと呟いた。
「…………てない」
「え……?」
上手く聞き取れずに聞き返すと、公爵様はくるっとこちらに体を向けた。
眉根を寄せた公爵様は、ぐっと口を引き結び、何かを訴えるような眼差しを私に向けている。
やがてその口が開き、言葉を丁寧に紡いでいく。
「僕は昨日、あんなに薪割りを頑張ったというのに、マリエーヌにまだ撫でられていない」
「……………え?」
今度はちゃんと聞こえたのにも関わらず、再び聞き返してしまった。
――撫でられていない……って……まさか……それで公爵様は拗ねているというの……⁉
改めて公爵様の表情を伺うと、ムスッと不貞腐れたようなお顔をしている。
それは先日、ジニー君にヤキモチを焼いていた時と同じような表情で、再び胸がきゅぅぅっと締め付けられる。
すぐにでも抱きしめて撫でまわしたい衝動に駆られるも、震える両手を持ち上げたところでギリギリ踏み留まった。
――いや、踏み留まる必要があるだろうか……?
公爵様は私に撫でられるのを待っていて、私は公爵様を存分に撫でてみたい。
これ以上ないというほど、互いの気持ちは合致している。
それなのに、なぜだろう……。いざそれを実行しようと思うと、言いようのない背徳感に駆られるというか……なんだか悪い事をするような後ろめたい気持ちになる。
それでも……さっきから切なげにかつ期待するようにチラッと見てくる、公爵様のつぶらな瞳には抗えない……!
ひとまず周囲を見渡し、誰も居ない事を確認する。
ロキ君は相変わらず、唸り声を上げたまま公爵様に対して警戒心を剥き出しにしているけれど、ギリギリのところで『待て』ができている。
やっぱりロキ君はお利口さんだ。
「では……失礼します……」
一言添えて、公爵様の頭の上に向けてそぉっと手を伸ばす。
すると、期待に瞳を輝かせた公爵様は、私が撫でやすいように身を屈めて背を低くしてくれた。
漆黒に染まった髪は、日光を反射し光沢を帯びている。
慎重に手を乗せると、自然と滑り落ちるほど滑らかな質感だった。
もう一度手を持ち上げて、なでなでと公爵様の頭を何度も往復し、囁いた。
「アレクシア様、とても……お利口さんでしたね」
――…………こ……このセリフはちょっと違う気がするわ……!
思わず口にしてしまった言葉の恥ずかしさに、カァッと顔が熱くなる。
一方で公爵様は、嬉しそうに頬を赤く染め、照れるようなあどけない笑顔を綻ばせている。
――……か……っっ‼
心臓を貫かれるような衝撃的な可愛さに、思わず悶絶してしまう。
そのあまりの愛らしさに、ふにゃりと破顔しそうになるのを、表情筋を必死に引き締めながらプルプルと堪える。
感情を抑え込む苦しみと、公爵様のあどけない笑顔に心を射貫かれ、自然と涙が滲んでくる。
「あの……やっぱり、僕が薪を持っていきましょうか?」
いつの間に来ていたのか、背後からジニー君の気まずげな声が聞こえてきた。
すぐさま振り返ると、ジニー君は相変わらず前髪で表情は分からないものの、居心地悪そうに佇んでいる。
「あっ……こ……公爵様! 早く出発しませんと‼」
瞬時に手を引っ込め、公爵様の背後に回り込み、ぐいぐいと両手で思いきり背中を押し出す。
「抱きしめてはくれないのか……」
ぽつりと呟かれた言葉は、聞こえなかったふりをした。
その後、若干しぶしぶとしながらも公爵様は大量の薪を背負い、宿を出発した。
公爵様の背中を見送っていると、ロキ君とじゃれ合っていたジニー君が、急に噴き出すように笑った。
「ふふっ……あの人、マリエーヌさんの前だと別人のように人が変わるんですね」
「あ……やっぱり……そう思いますよね」
苦々しく笑いながらも、先ほどのやり取りを見られていたのかと思うと、いたたまれない気持ちになる。
「よほどマリエーヌさんになついているんだね」
「そんな……なついてるだなんて……」
なぜか少し棘のある言い方をされ、妙な違和感を覚える。
その時――ふいに気付いた。
今しがた、ジニー君と嬉しそうに戯れていたはずのロキ君が、なぜか警戒するように歯を剝き出しにして、唸り声を上げている事に。
刹那、ザアアァァッと強い風が吹き荒れ、木々が大きく揺らぎ、棚引く雲が日を陰らせる。
その風に乗って、ぼそっと低い声が聞こえてきた。
「ほんと……犬みたい」
――……え?
神経を逆撫でするかのような、不快を催す語気。
その言葉からは、明らかな悪意と軽蔑のようなものを感じた。
そよぐ風により、ジニー君の長い髪が大きく靡く。
けれど前髪に隠れてその表情はよく分からない。
ただ、その口元は微かに笑みを浮かべていた。
「それって――」
どういう意味……? そう問おうとした時、
「ワゥッ‼」
「うわっ⁉」
唐突に、ロキ君がジニー君に飛び掛かり、勢いのままに後ろへ倒れる。
「ジニー君⁉」
慌てて二人の傍へ駆け寄ると、ロキ君はペロペロとジニー君の顔を舐めまわしていた。
その様子からは、さっきまでジニー君に敵意を向けていたとは思えない。
ジニー君も、前髪の隙間から青い瞳を覗かせながら、ロキ君と楽しそうに戯れている。
一変して和やかな空気となるものの、訊かずにはいられなかった。
「ジニー君……さっき、何か言ったかしら?」
「え……?」
まるで何も分からないというように、ジニー君はきょとんとする。
それからしばらく沈黙した後、
「ごめんなさい……。もしかして僕、何か言ってましたか……?」
まるで親に怒られた子供のように、沈んだ声で問いかけられた。
「……いえ……気のせいだったみたい……」
そんなはずはない――と、頭では分かっているものの、どこか落ち込んでいるようなジニー君を前にして、それ以上は追求する気になれなかった。
まるで私だけが、幻か何かを見ていたような――煮え切らない気持ちを抱えながら、おぼつかない足取りで宿へと戻った。




