26.もうひとつのジニー君の姿
「マリエーヌちゃん、大丈夫かい?」
アキさんに声を掛けられ、ハッと我に返る。
気付けば、私の頬を一筋の涙が伝っていた。
「あ……ご、ごめんなさい……」
戸惑いながらも、濡れた頬をゴシゴシと手の甲で拭う。
「すまないねぇ。亡くなった母親の事を思い出させちまったかね」
「いえ……もうだいぶ昔の事なので……」
申し訳なさそうに眉尻を下げるアキさんに、私は何度も首を横に振る。
――涙まで流すなんて……本当に、どうしちゃったのかしら……。
見苦しい姿を見せてしまったと、肩をすぼめて反省していると、アキさんは何かに納得するように「なるほどね……」と呟いた。
「だからマリエーヌちゃんは、自分が働いてまで私を休ませようとしてくれたんだねぇ」
核心を突かれて、ドキッとする。
「……はい。あの時の私はまだ幼くて、お母様の力になれなかったので……満足に休ませてあげる事もできなかったから……」
もちろん、ここに残った一番の理由は、アキさんを心配してなのには変わりないのだけど……ここでアキさんの代わりに働く事で、あの時にどうする事もできなかった自分の気持ちを満たそうとしていたのかもしれない。
――押し付けがましいと思われても仕方ないわよね……。
すると、アキさんはやれやれと言わんばかりに溜息を吐き出した。
「仕方ないねぇ……。そういう事なら、休まないわけにはいかないよ」
明るい口調でそう言うと、アキさんはエプロンを外し、椅子の背もたれに引っ掛けた。
それから嬉しそうに笑い出し、弾んだ声で告げた。
「ふふふっ……。嬉しいねぇ。世話焼きの娘までできた気分だよ」
それを聞いて、抱えていた憂いも不安も全て消え去り、アキさんの優しさに胸が熱くなる。
『世話焼きの娘』と言われた事も、ただただ嬉しかった。
その時、コンコンコンッと玄関の方からノック音が聞こえてきた。
「おや……誰だろねぇ」
「あっ……私が出ますから! アキさんはここで待っていてください!」
玄関へ向かおうとしたアキさんを呼び止め、代わりに私が玄関へと向かった。
着いた途端、ガラガラガラと引き戸が開き、姿を現したのは――。
「ルドラさん!」
昨日、織物工房でお世話になり、この宿を紹介してくれたルドラさんだった。
ルドラさんも私を見るなり、目尻に皺を寄せて頭を下げた。
「ああ、これはこれは……。昨日は誠にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ大変お世話になりました。あと、急に予定を変えてしまって申し訳ありません」
「とんでもございません。事情はお伺いしておりますから。馬はいつでもお貸しできるようにしておきますので、いつでもお声を掛けてください」
当初の話では、今日の朝、工房で馬をお借りして下山する予定になっていた。
けれども予定が変わって、もうしばらくここに留まる事になったのを公爵様が伝えに行ってくれていた。
「ところで、アキさんの具合はどうですかね?」
そこへパタパタと足音を立てながらアキさんがやってきた。
やっぱり私が心配で見に来たようで。
「あら……ルドラさんじゃないか。久しぶりだねえ。ここに来るなんて珍しいじゃないか」
目を見張るアキさんと顔を見合わせるなり、ルドラさんは柔らかく微笑んだ。
「やあ、アキさん。君は相変わらず美人さんだな」
「ふんっ……もういい年だってのに、あんたも変わらないねえ。口説くんならもっと若い時にしてほしかったよ」
「はっはっは。できる事ならそうしたかったんだが、なんせ君の旦那の守りが堅かったからねぇ」
「ふふっ……そんな意気地なしじゃ、どのみち私は落とせないよ」
気兼ねなく交わされる会話から、二人は旧知の仲であるのがうかがえる。
だけどルドラさんがアキさんを見つめるその視線はまるで……。
――ルドラさんって、もしかしてアキさんの事を……?
そんな考えが過ったけれど、そっと胸の奥に押し込めた。
「君が倒れたと聞いて心配したが、元気そうで安心したよ」
「ほんと……みんな心配性だねぇ。ただの二日酔いだってのに」
「……そうかい。お酒もほどほどにしておくんだよ」
「はいはい。もう耳が痛いよ」
耳を塞ぎながら口を尖らせるアキさんに、ルドラさんは優しい眼差しを向ける。
すると、ルドラさんは何か思い出すように「あ……」と目を見開き、
「ついでに薪を少々もらってもいいかな?」
「ああ、構わないよ。今日はやけに薪を割る音が聞こえていたからね。好きなだけ持っていきな」
「いつもすまないね。うちにもジニー君みたいな若い子が居てくれると助かるんだがね」
――……あれ? ルドラさん、薪割りをしたのがジニー君だと思っているのかしら……?
「そりゃぁ羨ましいだろう。うちの自慢の息子だからね。だけど、今日の薪割りはマリエーヌちゃんの旦那さんがやってくれたみたいだよ」
「おや……それはそれは……ありがとうございます。少しお裾分けさせてもらいます」
「いえ……」
私にお礼を告げるルドラさんに手を振りつつ、先ほどから引っかかっている事を尋ねる。
「ルドラさんは、いつもこちらで薪をもらっているのですか?」
「ええ。以前、腰をやってしまったもので、それ以来ここで薪を分けてもらっているんです。この周辺には力仕事を頼める若者が少ないもので……。だからジニー君が居てくれて本当に助かってます」
「そうなのですね……」
とは言うものの、薪割りの時に見た危なっかしいジニー君の姿を思い出し、今一つ腑に落ちない。
「まあ、せっかくだから茶でも飲んでいきなよ。私はまだ安静にしないといけないようだから部屋に戻るけど、代わりに若くて美人な奥さんがもてなしてくれるからさ」
言いながら、アキさんは私に目配せする。
それを見て、ルドラさんは軽快に笑い出した。
「はっはっは! それはまた寿命が縮まりそうだなぁ。もう斧持って追いかけまわされるのはごめんだよ」
――……その男性って、ルドラさんだったのね……。
つまり、アキさんに言い寄っていた男性はルドラさんという事。
当時のアキさんを巡る三角関係を想像すると、とても興味を引かれた。
人の恋愛は十人十色だと言ったアキさんの言葉に、改めて納得してしまった。
その後、アキさんは自室へと戻り、ルドラさんは私が淹れたお茶を一杯だけ飲んだ。
それから薪が保管されている小屋へ一緒に向かうと、そこにはジニー君の姿が。
どうやら収まりきらないほど量産された薪をどうしようかと、途方に暮れていたらしい。
溢れた分はルドラさんが引き取ると聞いて、ジニー君は安堵の表情を見せていた。
その後、大量の薪を乗せたルドラさんの荷馬車をジニー君と見送りながら、私はルドラさんとの会話を思い出していた。
お茶を飲みながら交わした会話のほとんどは、ジニー君についての話だった。
『ジニー君が割った薪は形が綺麗で使いやすくてですね……』
『先日は畑を荒らす猪を狩ってくれたんですよ』
『今度、大きくなりすぎた大木を伐採してくれるらしくて……』
と、まるで我が子を自慢するかのように、口滑らかに語っていた。
だけどそれは、私が思うジニー君のイメージとは大きくかけ離れていて……違和感を覚えずにはいられなかった。
――本当に、ジニー君の話をしているの……?
そう疑ってしまうほどに。
とはいえ、私たちは昨日出会ったばかり。
気心の知れた相手だからこそ、見せられる姿もあるのかもしれない。
やがて馬車が見えなくなり、私はジニー君に声を掛けた。
「それでは、私は夕食の支度をしてきますね」
「はい。ありがとうございます」
やっぱり、私と話をするジニー君の言葉はまだ硬い。
――気を許せるように、とまでは言わないけれど……もう少し仲良くなれたらいいな……。
そんな淡い期待を抱きながら、私は再び厨房へと向かった。




