25.旦那様のお部屋
ジニー君の後を付いて訪れたお部屋は、鼻をツンと刺激するような独特の香りが充満していた。
窓際には、よく使い込まれた木製の机が一つ置かれている。
絵の具が飛散したような汚れがあちこちに見られ、その上には大小様々な筆が入った小瓶がいくつも並んでいる。
他にも画材と思わしき道具が置かれ、足元には大量のキャンバスがそこらかしこに立て掛けられていた。
その様子からして、この部屋を誰が使っていたかは一目瞭然だった。
ここは、絵を描くのが趣味であったアキさんの旦那様――ダリスさんのお部屋なのだと。
壁には黒髪の若い女性を描いた絵画がいくつも掛けられている。
それらは全て、同一の人物が描かれているようで。
ほっそりとした体を真っすぐ伸ばし、凛とした佇まいを鉛筆で立体的に描いたものや、気品のあるお淑やかな笑みを柔らかい筆のタッチで表現したもの。
どれも目を見張るほど素晴らしいものばかりで、あまり絵に関心の無かった私ですらも魅了されるものだった。
それに描かれている女性も、しなやかな体は指の先まで優美さを感じられ、こちらに向けて優しく微笑む姿は同性の私から見てもドキリとするほど魅力的。
この女性は本当に実在したのかと疑ってしまうほど。
「その女性、母さんです」
「あ、そうですよね。アキさんの旦那様が描いたのなら当然………………え?」
あっさりと告げられたジニー君の言葉に、頭では納得するものの思わず聞き返してしまった。
それがとても失礼な反応だと自分でも思うけれど、酒瓶片手に豪快に笑っていたアキさんの姿と、目の前に描かれている淑女の鏡と言わんばかりの慎ましげな女性の姿がどうしても結びつかない。
未だ信じられないまま言葉を失っていると、ジニー君が小さく笑った。
「信じられないですよね。あんなに気が強くて口も悪い人が、こんなに美人で淑女の鏡みたいな女性だったなんて」
まるで私の心を覗かれたかのようなジニー君の言葉に、改めて自分の失礼さを恥じてしまう。
私が反応に困っていると、ふいにジニー君の口元から笑みが消えた。
「でも、こんな山奥に一人で生きていくためには、必要な事だったんでしょうね」
「え……?」
途端、ゴォーン! と、私の声をかき消すように、壁に掛かっている振り子時計から音が鳴った。
反射的にそちらへ顔を向け、時計を確認する。
しかしまだ昼前だというのに、時計は六時を示している。
「この時計、よく止まるので時間がズレているんです。特に悪い部分はないみたいなのですが……」
「そうなんですね……」
私が時計を気にしているのを見て、ジニー君が教えてくれた。
それから足元に落ちていたハタキを拾い上げ、私に差し出した。
「はい。これが必要だったんですよね」
「あ……ありがとう」
ハタキを受け取ると、ジニー君はすぐに部屋から出て行った。
一人残った私は、部屋の中をぐるっと見渡してみる。
ダリスさんが亡くなったのは、もう三十五年も前の事。
それなのに、この部屋は旦那様が使っていたであろう物がそのまま置かれている。
それでいて、特に目立った埃もなく綺麗な状態が保たれている。
ジニー君は何も言わなかったけれど、ここにハタキが落ちていたという事は、アキさんはこの場所で倒れていたのだろう。
恐らく、この部屋の掃除をしている時に……。
部屋の主は、もう帰ってくる事はないと分かっているはずなのに……いつまでもこの場所を大切に残しているアキさんは、今でも旦那様を愛しているのだろう。
絵画の中でこちらに視線を向け、愛おしげに微笑む女性。
その笑みは、旦那様へ向けられたものなのだと思うと、鼻の奥がツンとした。
それから私は物の配置が変わらないようにと、慎重にハタキを滑らせ、アキさんの旦那様のお部屋から掃除を始めた。
カチッカチッと、振り子時計が奏でる規則的な音を聞きながらも、なんだかこの場所だけ時が止まっているようにも思えた。
まるで、いつまでも部屋の主が戻ってくるのを待ち続けているかのように――。
◇◇◇
各所の掃除を終えた私は、自室のベッドで少しだけ横になった。
客室は全部で十六室あり、中には大勢の人が泊まれるほど広いお部屋もあった。
それらも全て一人で掃除をするのはさすがに疲れてしまった。
だけどこの大仕事を、いつもアキさんが一人でやっているのだと思うと、いつまでもへばってはいられない。
気合を入れ直し、勢いよく起き上がった私は、夕食の仕込みをするため厨房へと向かった。
お昼は朝食の残り物を頂いたので、私がここの厨房で料理をするのはこれが初めてになる。
何を作ろうかと思考を巡らせているうちに、厨房へ辿り着いた。
そこには、腕まくりをして料理の仕込みをしているアキさんの姿が。
「アキさん⁉ まだ寝ていないと……」
慌てて駆け寄ると、アキさんは何事もなかったかのようにあっけらかんと笑った。
「ああ、大丈夫だよ。薬を飲んでひと眠りしたらすっかり良くなったから」
その言葉どおり、確かに顔色は良くなり、すっきりとした顔つきになっている。
とはいえ、倒れたのはつい今朝の事。まだ油断はできない。
「それでも駄目です。食事は私が作りますので、アキさんはまだ安静にしていてください」
今朝、アキさんの不調に気付けなかった悔しさもあり、少し強めに申し出る。
それでもアキさんは全くお構いなしとばかりに明るい口ぶりで続けた。
「心配いらないって。ジニーもマリエーヌちゃんも、大袈裟に騒ぎすぎだよ」
そう言いながら、籠から取り出した玉ねぎの根っこ部分の端を切り落とし、赤みがかった皮を剥いでいく。
「病は気からって言うし、こうやって忙しくしている方が気も紛れるってもんだよ」
アキさんは、玉ねぎにこびりついた皮の破片を丁寧に取り除くと、尖った先端を包丁で切り落とした。それをまな板の端に置き、次の玉ねぎに手を伸ばす。
その光景を、私は口を引き結んだままジッと見つめ――しばらくして、ぽつりぽつりと胸の内を語った。
「私には……ジニー君がアキさんを心配する気持ちがよく分かります……。私の母も……亡くなる前日まで、いつもと変わりない様子だったので……」
ピクッと肩を揺らし、アキさんは動きを止めた。
手にしていた包丁を静かに置くと、控えめな笑みを携え、私をジッと見つめた。
「……そうかい。マリエーヌちゃんの母親も……」
「……はい。私が十歳の時でした」
そう口にした途端、胸の奥から込み上げてくる何かを、必死に呑み込んだ。
小刻みに震えている両手をギュッと握りしめ、感情を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出す。
母を思い出し、こんな風に気持ちが乱れる事なんてほとんどなかったのに……。
アキさんとジニー君の親子愛に感化されてなのか……今はただ切なさに胸が苦しくなる。
それに、体の無理を押して働こうとするアキさんの姿も、かつての母親の姿を連想させた。
私は、お母様が休んでいるところをあまり見た事がなかった。
お母様とお祖母様と三人で暮らしていた頃、お母様はどんなに体調が悪くても、お祖母様のお世話に手を抜いた事はなかった。
体が不自由なお祖母様は、お母様の介助を常に必要としていたから。
私も、自分なりに出来る事を手伝ってはいたけれど、幼い私にできる事は限られていた。
やがてお祖母様が亡くなり、義父と再婚してからは、傾きかけていたレストラン経営を立て直すため、夜遅くまで自室で一人机に向かっていた。
それでも、お母様は疲れた様子を見せる事も無く、常に笑顔を絶やさなかった。
だから――急な別れがくるなんて、思いもしなかった。




