23.これからのこと
温泉から上がり、速やかに着替えを終えた私はすぐにアキさんの部屋へと向かった。
アキさんはすでに意識を取り戻しており、ベッドに横たわったまま顔をこちらに向けると、弱々しく笑った。
「マリエーヌちゃんまで来てくれたのかい。本当に世話ないねえ。こんな情けないところを見せちまうなんて……」
掠れた声でそう言うと、アキさんは疲れたように息を吐き出した。
腫れぼったい瞼と赤く染まった頬。呼吸も少し荒い。
つい先ほどまで元気そうにしていたのに、あまりにも様変わりした姿にショックを受ける。
廊下でアキさんがふらついたのは、やはり体の具合が良くなかったからなのだろう。
――あの時に私が気付いて休んでもらっていたら、倒れる事は防げたはずなのに……。
そんな自分の浅はかさが、ただただ悔しかった。
「マリエーヌ。君が気にする事は何もない」
気落ちする私の肩に手を添え、公爵様が励ましの声を掛けてくれる。
私より先に温泉から上がった公爵様は、一足先にアキさんの様子を見に来てくれていたのだ。
「旦那さんの言う通りだよ。ついさっきまでは本当になんともなかったんだ。だからそんな顔をしないでおくれ」
アキさんも私が気にしているのを察したらしく、優しく諭してくれた。
「それよりも、私の事は気にしないで、新婚旅行の続きを楽しんでおくれよ。朝ごはんはもう用意してあるから、それだけ食べたらここを出るといいよ。迷惑料として宿代もいらないからさ」
こんな時にも、アキさんは私たちの事を優先して気遣ってくれる。
その気持ちは嬉しいけれど、今はアキさんの体調を一番に考えるべき。
「ありがとうございます。……ですが、もうしばらくはここに居させてもらおうと思います」
「でも、連れの人が心配してるんだろう?」
「大丈夫です。私の旦那様がとても頼もしい人だというのは、誰もが承知の事実ですから」
「ああ、当然だ」
すかさず公爵様が力強く同意する。
それでもアキさんは納得いかないように眉を顰める。
「そうは言ってもだねぇ……」
「母さん!」
その叫びと同時に、心配顔のジニー君が部屋に飛び込んできた。
その背中には、小柄で白髪のお爺さんがちょこんと乗っかっている。
ジニー君はしゃがんでお爺さんを床に降ろすと、すぐにアキさんの傍へと駆け寄った。
よほど急いで来たのだろう。
長い前髪が真ん中で分かれたまま汗で滲む額に張り付いており、青い瞳がはっきりと姿を現している。
ジニー君はアキさんが意識を取り戻しているのを見て、力が抜けるようにしゃがみ込んだ。
「ったく……倒れたくらいで大袈裟な子だねぇ。ただの二日酔いじゃないか」
呆れ気味にアキさんが言うと、ジニー君はつぶらな瞳を地に伏せ、ぽつりと呟く。
「そんなの……分からないじゃないか……」
今にも泣き出してしまいそうな、切なげな声。
途端にアキさんの表情が柔らかくなった。
「分かるさ。自分の体のことくらい」
「……分からないよ。誰も……いつ死ぬかなんて……」
「あら、いやだねぇこの子は。縁起でもない事を言うんじゃないよ」
そんなやり取りを交わす二人は、やはり互いを想い合う本当の親子のように見える。
ジニー君が連れて来たお爺さんは、この山に住む唯一のお医者様らしい。
アキさんの診察が始まる前、私と公爵様は部屋から退室した。
部屋から少し離れた場所で、壁を背にしてアキさんの診察が終わるのを待つ。
――アキさん、しんどそうだったな……。
今日は仕事の事は忘れて、ゆっくり休んでほしい。
だけどアキさんがこのまま休んでくれるとは思えない。
旦那様が大事にしていたこの宿を守るために、無理を押してでも働こうとする気がする。
客の入りは少ないとは言っていたけれど、いつでも迎え入れられるよう、準備は怠らないだろうから。
それに、また体調が悪化しないとは限らない。
――やっぱり……アキさんをこのままにしてはおけない。
アキさんは、帰る事もできず泊まる場所がなくて困っていた私たちを、快く迎え入れてくれた。
客だから当然だといえばそうなのかもしれないけれど。
一緒に食卓を囲み、沢山話をしてくれて、アキさんの温情溢れる人となりを知ったからこそ今度は私がアキさんの力になりたい。
せめて、アキさんの体調が良くなるまでは……。
しばらくの思考の末、意を決した私は公爵様に切り出した。
「アレクシア様。あの――」
私の提案を静かに聞いていた公爵様は、深く頷き「君ならそう言うと思っていた」と、どこか懐かしむような笑みを浮かべていた。
◇◇◇
診察の結果、他に異常は見られず、過労によるものだろうと診断された。
あと、お酒の飲みすぎについても指摘されたらしい。
しばらくは安静にし、お酒を控えるようにと、きっぱり言い渡されたアキさんはがっくりと落ち込んでいた。
ジニー君はお医者様を家まで送り届けるため、再びお医者様を背負って部屋を出た。
「お騒がせしたね。もう大丈夫だから、あんたたちも早く行きなよ」
言いながら、アキさんは笑顔を見せるけれど、体が小刻みに震えている。熱がまた上がってきたのかもしれない。
私は先ほど公爵様に申し出た内容を、アキさんにも告げた。
「あの……もしお邪魔でなければ、私たちにこの宿のお手伝いをさせてもらえませんか?」
「……え?」
アキさんは驚いたように目を見開くも、すぐにフルフルと首を振った。
「いいや。さすがにお客様の手を煩わせる訳にはいかないよ。その気持ちだけで十分だから、もうさっさと行きな」
そう言うと、アキさんは素っ気なく寝返り私たちに背を向ける。
だけどその行動も、私たちに気を遣わせないためというのはこれまでのアキさんを見ればよく分かる。
やはりそう簡単には承諾してくれないのだろう。
でも、それも想定の内。
アキさんには悪いけれど、今の私にもう一歩踏み込む度胸を教えてくれたのも、アキさんだから。
こちらも、そう易々と引き下がりはしない。
「ですが、アキさんは昨日、何泊でもしてよいとおっしゃってくださいましたよね。なのでもう一泊……いえ、二泊ほどさせていただきたいのです。ここの温泉が本当に気持ち良くて、すっかり虜になってしまいました」
「ふっ……当たり前だよ。あの温泉は古来から続いてる名泉だからね……そこらの温泉とは歴史が違うんだよ。この宿と共に、何代にも渡って受け継がれてきたんだから……」
自慢の温泉を称賛されたことで、アキさんは少し機嫌を取り戻してくれたよう。
この流れを利用して、私は次の提案を口にする。
「ただ、泊まるだけというのも少々手持ち無沙汰なので……せっかくですから、ここでのお仕事の見学と体験をさせていただきたいのです」
一泊の沈黙を置いた後、アキさんはのっそりと寝返りを打ってこちらへと顔を向ける。
その顔は完全に呆れ果てていた。
「見学と体験って……そんなのタダ働きみたいなもんじゃないか」
「そうでしょうか? でも、私たちにとっては全て貴重な学びになるはずです。昨日も織物工房で刺繍体験をさせていただいて、とても有意義な時間を過ごせましたから」
「ああ。本当に有意義な時間だったな……」
間髪入れず、公爵様がしみじみと頷きながら同意する。
私たちの思い描いている有意義な時間は、少し違う気もするけれど……。
「……あんたはそれでいいのかい?」
アキさんの視線は公爵様へと注がれている。
「ああ、構わない。マリエーヌがそうしたいと言うなら、僕もそれに賛同する」
それを聞いて、ようやくアキさんは観念したように深い溜息を吐き出した。
「やれやれ……呆れるほどお人好しな夫婦だねえ」
再びアキさんはごろんと転がり背を向ける。
「そこまで言うなら好きにしな。ここの事はジニーに聞いてくれれば大丈夫だから。接客と料理以外は、ほとんどあの子がやってくれてるからね」
「ありがとうございます。では、もうしばらくだけお世話になります」
無事に了承を得られたようで、ほっと胸を撫でおろす。
「じゃあ、私は少し疲れたから……お言葉に甘えて休ませてもらうよ」
「はい。ゆっくり休んでください。私たちもこれで失礼いたします」
アキさんの背中にぺこりと一礼し、公爵様と共に部屋から退室した。
廊下を少し歩いた先で一度立ち止まり、隣にいる公爵様を見上げる。
「アレクシア様。ありがとうございました。あと……」
せっかくの新婚旅行なのに、勝手な事を言ってごめんなさい……。
そう謝ろうとしたけれど、公爵様はそれを遮るように、ぴんと立てた人差し指を私の口元に添えた。
「マリエーヌ。その先を言う必要はない。君は自分のしたいようにすればいい。僕はいつだって、君の行動を支持するから」
なんて嬉しい言葉を掛けてくれるのだろう……と、胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとうございます。でも、もし私が間違えていたら、その時はちゃんと止めてくださいね」
公爵様に甘やかされるばかりではいけない。
そう思っての言葉だったけれど、尚も公爵様は私を愛おしげに見つめ、
「僕は一度も、君の行動が間違いだと思った事はない」
淀みなく告げられた真っすぐな言葉は、私を更に甘やかすものだった。




