22.胸に刻まれた傷痕
不安げにこちらを見つめる公爵様から逃れるように、私は顔を逸らして背を向ける。
なんだか自分が情けなくて……惨めに思えた。
「本当に大した傷じゃないんだ。君に心配させたくなくて言えなかっただけで……もう傷も塞がっているし痛くもないんだ。だから君が気にする事は何もなくて……」
私の背後で、公爵様が急いた声で弁明している。
だけど、私の心は冷え固まったまま。
私は、公爵様から信頼されていると思っていたけれど……そうではなかったのかもしれない。
「どうして、嘘をつかれるのですか……?」
もう、呑み込む事すら叶わない本音が私の口から吐露されていく
「そうやって、これからもずっと、私には何も教えてくださらないのですか……?」
「……」
公爵様からは何の返答もない。
「私は、そんなに信用できませんか……?」
「違う! そうじゃない! これは僕の問題で……」
「私には関係ない、という事ですか⁉」
「……!」
焦燥に駆られ、思わず声を張り上げた。
途端、バササッと鳥が飛び立つ音が辺りに響き渡り、再び静けさに包まれる。
ふと我に返り、少しだけ冷静になった私は、震える手で口元を覆った。
――……私……なんてことを……。
冷静さを欠いて、感情のままに言葉を吐き出してしまった事に、今更ながら後悔する。
公爵様を責めるつもりなんてなかった。
それなのに、ついカッとなって……自分の気持ちを抑えられず、公爵様に辛く当たってしまった。
今までは、そんな気持ちもちゃんと呑み込めていたのに……。
――……ああ……それがそもそもの間違いだったんだ……。
こんな風に、気持ちが抑えきれなくなる前に……話をするべきだった。
本当の夫婦になれたのに、どうして一緒に寝てくれないのか。
新婚旅行なのに、なぜお部屋を分ける必要があるのか。
昨日も、馬で移動していた時に、どうしてあんなに切なげな顔をしていたのか……。
心のしこりが大きくなる前に……訊けば良かった。
それができなかった私も、本当の意味で公爵様を信頼できていなかったのかもしれない。
言葉を交わせる事の大切さを、私たちは誰よりも知っていたはずなのに――。
その時、ゆらっと水面が大きく揺らぎ、後ろから伸びてきた手が私の体をぎゅっと抱きしめた。
「すまない……マリエーヌ……。僕はまた、君を傷付けてしまった……」
憂いを帯びた公爵様の声が、耳元で聞こえた。
辛そうに告げるその言葉に、尚更胸が締め付けられる。
――……ちがう。今、体も心も、一番傷ついているのは公爵様のはず。
それなのに私は……その傷を抉るような事を言ってしまって……。
「僕が全て悪いんだ。だから……どうか自分を責めないでほしい」
「……っ」
その言葉に再び声が詰まった。
どんな時でも、公爵様が一番に気にするのは私の事ばかり。
きっと自分が傷付くよりも、私が傷付く事の方が、公爵様にとっては耐え難い事なのだろう。
だからこそ余計に、自分が吐き出してしまった言葉に後悔がのしかかる。
――私は関係ないなんて……公爵様が思うはずがないのに……。
公爵様の腕の中に収まったまま、私はゆっくりと振り返り、公爵様を見上げる。
「……ごめんなさい。取り乱してしまって……」
「いや、君は何も悪くない。僕が何も言わなかったのが悪いんだ。それに君が僕を心配してくれたのも分かっているから、大丈夫だ」
私を安心させるような、穏やかな声と、優しい笑顔。
今度こそ平静を取り戻した私は、視線を左胸へと移す。
改めて目にすると、その傷の異様さが伺える。
刃物で切りつけられたとか、刺されたというような傷ではなくて……まるで刃物を突き立てえぐられたかのような不自然な傷痕。
「本当に、もう痛くはないのですか?」
「ああ、もうなんともない。心配させてすまない」
その言葉に、きっと嘘はないのだろう。
だけどこの傷を負った時は、相当な苦痛を伴ったはず。
その痛みを隠しながら、私の前で笑顔を見せていた公爵様は、一体どんな気持ちだったのだろう……。
その心境を想像するだけで、再び涙が込み上げるのをグッと堪えた。
ここで私が涙を流せば、また公爵様は自分を責めるはずだから……。
「……マリエーヌ?」
黙り込む私を気にしたのか、頭上から公爵様の声が聞こえた。
けれどそれに応える事も無く、私は右手で公爵様の胸の傷にそっと触れた。
――本当に、私に癒しの力があったなら良かったのに……。
もしそんな力があったのなら……この傷痕も、公爵様の心も全て癒してあげられたのに。
そう考えた私は、そっと公爵様の左胸の前まで顔を寄せ――その傷痕に自らの唇を押し当てた。
「…………⁉」
触れた瞬間、ビクッと公爵様の体が大きく跳ね上がり、その反動で唇が離れた。
「あ……」
と、自分の口から漏れた声は、一体何に対してだったのか、自分でもよく分からない。
ただ……無意識のうちに体が動いていた。
今もまだ、触れた感触が残る唇にそっと触れ……恐る恐る見上げる。
そこには、顔も体も真っ赤に染め上げ、大きく目を見開いたままパクパクと口を開閉させる公爵様のお姿が。
私も自分の大胆すぎる行動を思い返し、ボッと火が出るように顔が熱くなる。
咄嗟に両手を前に掲げ、笑顔を繕い口早に弁明を述べる。
「えっと、前に公爵様が私には癒しの力があるとおっしゃっていたので、本当にそんな力があればいいのになと思いまして……つい……。勝手な事をして申し訳ありません……」
最後に改めて謝罪をするも、公爵様は今もまだ左胸を押さえたままワナワナと震え――やがて、その傷痕を慈しむような眼差しでジッと見つめだした。
それから私へと視線を移し、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、マリエーヌ……。この傷は僕にとって恥ずべきものだったが……君のおかげで意味が変わった。この傷を見るたびに、君への愛しさが溢れ出しそうだ」
その言葉と、心底穏やかな笑みを浮かべる姿に、私も公爵様への愛おしさが込み上げる。
何よりも、公爵様が笑顔を見せてくれた事が嬉しい。
すると、公爵様は僅かに目を伏せ、再び見開いた瞳からは、何か強い意志が感じられた。
私も笑みを消し、公爵様と向き合うと、その口が開かれた。
「今はまだ、君に話せない事があるんだ。だが、いつか必ず君に全てを打ち明ける。だから……それまで僕を信じて待っていてほしい」
真っすぐ私を見据える眼差しは真剣そのもので。
真摯に伝えられたその言葉からも、公爵様の誠意が伝わってくる。
それならば……今こそ、私はその信頼に応えるべきなのだろう。
私は公爵様が触れている左胸の手の上に、自らの手を重ねた。
「はい。アレクシア様を信じて、お待ちしています」
「ありがとう、マリエーヌ」
安堵するように眉尻を下げて、公爵様は嬉しそうに目を細める。
それから、公爵様はジッと私を見つめ……やがてその顔がゆっくりとこちらに近付いてくる。
「マリエーヌ……愛している」
その囁きから間もなくして、私たちの唇は静かに重なった。
ぽつんっと水滴が落ちる音が反響し……静寂に包まれる。
まるで時が止まったかのような静けさの中で、私たちは長い口づけを交わした。
両肩に添えられていた手が肌を伝い、私の体を力強く抱きしめる。
私たちを隔てるものは体に巻き付けたタオル一枚のみ。
濡れたタオル越しに伝わる公爵様の体温は、水温よりも熱い。
激しさを増す心音と、時折交わる互いの吐息。
恥じらいも忘れて、ただなされるがままに、甘く痺れるような感覚に身を委ねる。
それまでの憂いも、不安も……今、この瞬間は全てを忘れて――満ち足りた感覚に酔いしれるように、公爵様の愛に溺れてしまいそう――と、その時――。
ガララララピシャンッ! と勢いよく扉が開き、
「マリエーヌさん!」
そう叫ぶジニー君の声が響き渡った。
「⁉」
突然の事態に、すぐさま唇を引き離した私はお湯の中に体を沈めた。
そぉっと振り返ると、入口の扉の所にジニー君が佇んでいた。
深刻そうな顔で私と目が合うと、すぅっと大きく息を吸い込み、
「母さんが――」
それを言い終えるよりも先に、ザバァッと水しぶきをあげて温泉から飛び出した公爵様が、目にも止まらぬ速さでジニー君に迫り、その喉元を掴み上げた。
「公爵様⁉」
思わずその言葉が口をついて出てしまうも、公爵様はそのままジニー君の体を持ち上げる。
「うぐ……っ」
苦痛に顔を歪ませるジニー君は、公爵様の手をどうにか離そうと、必死にもがいている。
けれど公爵様の手はびくともしない。
「貴様……何をしに来た? マリエーヌが今、どういう状態なのか……分かっていてここへ来たのか?」
怒りを孕んだ低い声で、公爵様がジニー君に凄みをきかせるも、喉元を掴み上げられたままのジニー君はその問いには答えられない。
代わりに赤みを帯びていたその顔が、だんだんと青ざめていき、目も虚ろなものへと変わっていく。
「アレクシア様! ジニー君が死んでしまいます!」
「死にはしない。気絶させてここでの記憶を飛ばすだけだ」
「そんな……危険すぎます!」
怒りで我を失っているのか、公爵様はジニー君の喉元から手を放そうとしない。
――こうなったら、無理やりにでも公爵様を止めないと……!
立ち上がり温泉から出ようとした時、ジニー君の手が力を失ったように、だらんと垂れ下がった。
「あ……」
――間に合わなかった……。
そう思った直後、突然ジニー君の両手が勢いよく動き、公爵様の手を掴んだ。
そのまま自力で公爵様の手をこじ開け、大きく息を吸い込み――。
「母さんが倒れた! 俺が医者を呼びに行くから、それまで母さんを看ていてくれ!」
ジニー君とは思えないほどの気迫と大きな声に、しばし圧倒される。
けれどその言葉の深刻さは、それまでの私たちの熱を冷ますには十分すぎるものだった。




