21.二人きりの温泉
体から真っ白な湯気を立ち昇らせながら、公爵様はスタスタと足早にこちらへと向かってくる。
近付くにつれ、鍛え抜かれた上半身の肉体美が湯気の隙間から見え隠れする。
濡れた肌がまたとてつもない色気を放っており、これ以上は目の毒だと、咄嗟に顔を手で覆った。
途端、ひょいっと持ち上げられる感覚と共に、熱を帯びた生肌の感触に包まれる。
「⁉」
咄嗟に顔を覆っていた手を解き、目を見張った。
案の定、私の体は逞しい腕によりしっかりと抱きかかえられ、目の前には深刻そうに眉を顰める公爵様のお顔が。
「マリエーヌ。体が冷えている」
ぽつりと告げると、公爵様は私を抱きかかえたまま再び温泉へと向かう。
それから公爵様は温泉の中に足を下ろすと、私の足先をゆっくりとお湯に浸け、その熱に慣らすよう、手で掬ったお湯を何度も私の体にかけながら、慎重にお湯の中へと浸からせてくれた。
私の体を気遣う公爵様の繊細な優しさに胸を打たれ、じーんと感激してしまう。
公爵様は私の体を隣へと降ろすと、再び私から顔を逸らした。
「返事が遅くなってすまない。僕も……君と温泉に浸かりたい」
耳から首筋まで真っ赤に染め上げて、冷静さを装うような口ぶりで公爵様は静かに告げた。
さっきまでは思わず見惚れるほどの凛々しい姿を見せていたのに、一転して真っ赤になって恥じらう姿とのギャップに、思わず笑いが零れた。
そんな公爵様の姿に癒されたのか、それとも温泉の効能なのか……緊張で固くなっていた体も心も、次第に解れていく。
少し熱いくらいの水温だけど、外気との絶妙な温度差加減がなんとも気持ち良い。
髪の毛は頭部でお団子を作るように一括りにしているから、肩まで浸かっても濡れはしない。
これも温泉でのマナーの一つとして学んでいた。
――体が温まったら髪を洗わないと……。
そういえば……と、ふと気になり公爵様に声を掛けた。
「公爵様の髪は黒いままなのですね」
髪がしっとりと濡れているから、すでに髪を洗い終えているはず。
それなのに、公爵様の髪色は今も変わらず黒いまま。
それどころか、髪先から滴る透明な水滴にも、染料の色が少しも滲んでいない。
「ああ。特殊な染料で染めているから、除去液を使わないと色は落ちないんだ」
「へえ……そうなのですね」
髪の色を変えられるのにも驚いたけれど、洗っても色が落ちないなんて不思議。
水滴が滴る漆黒の髪は、いつもよりも艶やかで……その美しさに目を奪われていると、公爵様が小さく笑った。
「マリエーヌは、こっちの髪色の方が好きなのか?」
「あ……今の髪色も好きですけど、元の髪色も好きです。きっと帰る頃には、いつもの髪色が恋しくなっていると思います」
「そうか。ならばその時が来たら、元の髪色に戻すとしよう」
言いながら、公爵様が前髪を手でかき上げると、ルビーの如く煌めく真紅の瞳が姿を現わした。
神秘的な輝きは吸い込まれそうなほど魅力的で、まさに目を奪われるという言葉どおりに、私の視線は公爵様の瞳に釘付けになる。
――やっぱり、公爵様の瞳も凄く綺麗だわ。
その煌めきに魅了されていると、ふいにジニー君の瞳を思い出した。
公爵様の赤い瞳とジニー君の蒼い瞳。
相反する二つの色彩なのに、どことなく雰囲気が似ているような気がして……。
「しかし、マリエーヌの行動力にはいつも驚かされるな。君は時々、大胆な行動に出るから……」
「え?」
唐突に言われて、他に何かやらかしたかしら……と、記憶を辿り――あった。思い出した。
半年ほど前……夫婦共有の寝室で、私が下着姿で公爵様を待ち受けていた事を。
「お……お恥ずかしい限りです……」
「いや……そんな君も、僕には愛しくて仕方がないんだ」
フフッと楽しそうに公爵様が笑う。
思い返すと、あの時も結局、公爵様とは一緒に添い寝をしただけだった。
私がまだ、公爵様を好きだと伝えられていなかったから……。
だけど、今は違う。
私たちはもう、愛し合う夫婦となったのだから……その先の事だって……。
――それを望んでいるのは、私だけなのかしら……?
二度目の初夜以来、一人で夜を迎えるたびに、そんな思いを巡らせていた。
一人で悩んでも仕方ないのも分かっている。
分かっているけれど……「どうして私を抱いてくれないのですか?」なんて……恥ずかしすぎて訊けないわ……!
それを想像しカァーッと頭に熱が昇る中、バシャバシャと大袈裟に顔を洗って気を紛らわす。
だけどアキさんが私に言いたかったのは、そんな自分も全てさらけ出してしまえという事なのだろう。
恥ずかしいとか、どう思われてしまうのだろうとか、余計な事は気にせずに。
ありのままの自分で、正面からぶつかればいいのだと。
ゆらゆらと絶え間なく揺らいでいた水面が、やがて鎮まり私の顔を映しだす。
――女は度胸よ……!
水面の私に心の中で呼びかけ、意を決した私は真正面から公爵様と向き合った。
少しぽかんとしていた公爵様も、何かを察したように真剣な面持ちとなり、体をこちらに向けた。
ザァッと木々が揺れる音と共に風が吹き抜け、私たちを包んでいた湯気が取り除かれていく。
ぼやけていた公爵様の姿が露わになると同時に、空気をめいっぱい吸い込み、いざ思いの丈を――と、目を見開いた時――私の視線は、それを捕らえた。
「公爵様……その傷は……?」
言おうとしていた言葉が全て抜け落ちたかのように、唖然としたまま問いかけていた。
公爵様の左胸……人間の急所とも呼べる場所に、私の拳大ほどの大きな傷痕があったのだ。
途端、公爵様はハッと息を呑むと、それを隠すように素早く背を向けた。
「ああ、これは……昔の古傷が少し開いてしまったんだ」
左胸に手を当てながら、公爵様はなんでもないように明るい口調で告げる。
それが嘘だというのはすぐに分かった。
だって私は、前世では毎日のように公爵様の体を拭いていたのだから。
そこに古傷がないというのは当然知っている。
公爵様だってそれは分かっているはずなのに……。
そんな苦し紛れの嘘を言わなければならないほど、その傷の真相を私に知られたくない、という事なのだろうか。
「それよりも、僕に何か言おうとしていたんじゃないか?」
公爵様は傷が見えないくらいにこちらへ体を向け、遠慮がちに笑いながら問いかけてくる。
だけど今の私にとって、そんな事よりもこちらの方が重要に決まっている。
――いつ……そんな傷を……?
一ヶ月前、私が公爵様の分厚い胸板に目を奪われていた時、まだその傷はなかった。
つまり、ここ一ヶ月以内の間に、公爵様の身に危機的な何かが起きていたという事。
それなのに……私は今まで何も知らされていなかった。
公爵様の妻なのにも関わらず……。
――どうして何も教えてくれなかったの……?
その疑問の答えは、なんとなく想像できた。
きっと私に心配させたくなかったのだろうと……。
二度目の結婚式を挙げ、まさに幸せの絶頂とも言える日々に、水を差したくなかったというのも、理解できる。
だけど……だとしても……じゃあ、これからもずっと、私は何も知らされないままなの……?
公爵様が一人苦しんでいる事に気付くことなく、私だけ笑って過ごしていくの……?
――そんな関係が、本当の夫婦のかたちなの……?
「……マリエーヌ……?」
公爵様の乾いた声が、物思いに更けていた私の意識を呼び戻す。
気付けば、私の頬を伝って零れ落ちる雫が、水面に波紋を描いていた。




