19.アキさんと旦那様
朝を迎え、部屋の窓から外の景色を眺めていると、アキさんが部屋にやって来た。
「おはよう、マリエーヌちゃん。昨日はよく眠れたかい?」
「おはようございます。おかげさまでよく眠れました」
「そうかい。それは良かった。寒くはなかったかい? 女の子が体を冷やしちゃいけないからね。新婚の奥さんなら尚更だよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。これがとても温かいので」
肩に掛けているショールをアキさんに見せるよう、少しだけ持ち上げる。
昨日、工房で修繕されたショールは、手入れまでしてくれたおかげで以前よりもふかふかとしていて一層温かい。
「だけどマリエーヌちゃんの住んでる所に比べたら、やっぱりここは寒いだろう。まずは温泉に浸かってゆっくりと体を温めて――と言いたいところだけど」
すると、アキさんは近くにあった椅子によいしょと腰掛け、含みのある笑みを浮かべた。
「マリエーヌちゃん。あの旦那の事で、何か悩みがあるんじゃないのかい?」
「……え?」
あまりにも唐突な質問に、思わず声がうわずった。
咄嗟に否定しようにも、声が詰まってパクパクと口だけが不自然に動く。
それを見て、アキさんがしししと笑った。
「どうやら図星のようだねぇ。どれ……私でよければ話を聞こうじゃないか」
足と腕を組み、どっしりと鎮座するアキさんからは「なんでも言ってみな」と言わんばかりの大物感が漂ってくる。
「あ……いえ……。正直、自分でもよく分からなくて……。おっしゃる通り、少し気になっている事もあるのですが……それを言葉で言い表すのが難しくて……」
まとまらない言葉を躊躇しながら告げると、アキさんは納得するよう深く頷いた。
「ふぅん……なるほどね。まだ互いに本当の自分を見せられていない……ってとこかね。ふふっ……初々しくていいじゃないか。私にもそんな頃があったよ……遠い昔の話だけどね」
落ち着いた物腰でそう語ると、アキさんは何かを思い出すように、クスクスと笑った。
その姿がとても無邪気に思えて、今も旦那様を想うアキさんの気持ちが垣間見えた。
――アキさんと旦那様はどんなご夫婦だったのかしら……?
ふと気になったけれど、亡くなった旦那様との事を訊くのはさすがに気が引けてしまう。
「気になるかい?」
「え……」
まるで私の心を見透かしたかのような問いに、思わず聞き返す。
「いいよ。時間もまだあるし、少し私の話をしてあげようじゃないか。――と言っても、私が話したいだけなんだけどね。年寄りは昔話が好きなのさ」
それから、アキさんは昔を懐かしむように遠い目をすると、旦那様との馴れ初めをゆっくりと語り始めた。
アキさんはもともと、この土地の人間ではなく、更に海を渡った先にある小さい島国の生まれらしい。
良家の子女だったアキさんには、親同士で決められた婚約者がいたけれど、いざ結納という時に相手は現れず。
後日、別の女性と駆け落ちしたという連絡が届いた。
当然、アキさんのご両親はこれに激怒し、相手側の親に賠償責任を求めるなどして揉めに揉めたという。
そんな最中、アキさんは傷心を理由に、しばらく旅に出たいのだと親に申し出た。
――と言っても、よく知りもしない婚約者に逃げられたところでアキさんは全く傷つきもせず、むしろ両手を上げて喜んでいたらしい。
「だってさ、好きでもない男との結婚がなくなったところで別に何とも思わないだろう。でもいい機会だから、これを口実に窮屈な家から一時的にでも離れてやろうと思ってね」
それをしたり顔で言うアキさんの姿は、とても勇ましく思えた。
アキさんが旅先にこの土地を選んだ理由は、温泉に浸かってのんびりしたかったから。
都会の喧騒を忘れてゆっくりできる場所を探し、アキさんが目を付けたのが人里から離れた山奥にあるこの温泉宿。
そして、当時ここで温泉宿を経営していた旦那様――ダリスさんと出会った。
「旦那は私を一目見た瞬間に惚れたらしくてね……。開口一番に『絵のモデルになってください!』て。あまりにも必死な形相なもんだから、おっかなくて思わず頷いちまったよ」
そう語るアキさんは、嬉しそうに顔を綻ばせていた。
それからアキさんはここで羽を伸ばしながら、時折、絵を描くのが趣味だったという旦那様の絵のモデルをしながら過ごしたという。
旦那様は、普段は少し抜けてて、おちゃらける事も多かったけれど、絵を描く時だけは真剣そのもので。
そのひたむきな眼差しにアキさんも心を射止められてしまったらしい。
互いに惹かれ合っているのは分かっていたものの、直接的な告白までには至らず。
それでも、二週間の滞在期間を終え、帰国する日の前夜。
アキさんの部屋を訪れた旦那様が、ついに愛の告白をしてくれたのだ。
「告白は嬉しかったよ。でも、帰国したら私は親が新たに決めた相手と一緒にならないといけなかったからね。それを泣きながら説明して断ったんだ。そしたら、あの人はうんともすんとも言わないまま部屋を出て行ってさ……。そんなあっさり引き下がるくらいの気持ちだったんだってガッカリしちゃってね。私も不貞寝してやったよ。だけど次の日、ここを出る時に手紙を渡されたのさ」
「手紙……それってもしかして……」
――恋文……!
と、私が目を輝かせると、アキさんはフフンッと自慢げに笑った。
「好きな人からの手紙なんて、嬉しいに決まってるじゃないか。何が書いてあるんだろうと思ってドキドキしながら開けようとしたら、『帰国してから読んでほしい』って言われてね。それからはあっさりとしたお別れだったよ。だけど帰りの船に乗りながら、手紙が気になってずっとソワソワしてさ……それでも約束は守らないといけないから、ちゃんと家まで我慢したんだよ。――で……帰って自分の部屋に入るなり手紙を取り出して中身を見たらさ……読めなかったんだよ」
「読めなかった……?」
「ああ。私はこの国の言葉を少しは話せたけど、文字は全く読めなかったんだよ。だからこの国の文字で書かれた手紙を、私は読む事が出来なかったんだ。よく考えたら当たり前の事なんだけど、旦那は私の故郷の言葉を知っていたから……文字も分かるんだろうって勝手に思ってしまったのさ」
「そんな……」
「しかもさ、八枚も長々と文字が連ねられてるんだよ。そんなのさすがに気になるじゃないか」
「それは……気になりますね……」
八枚にも渡る手紙にはきっと、アキさんへの並々ならぬ深い愛が込められていたに違いない。
それなのに……。
「だからもう一度、会いに行ったのさ」
さらっと告げられたアキさんの言葉に、思わず顔を上げた。
そんな私の反応を楽しそうに見ながら、アキさんは続けた。
「もちろん、手紙の内容を知りたかったのもあるけどね。帰国してから、毎日のようにあの人の事を考えるようになってね。ああ、あの日私を捨てて駆け落ちした婚約者も、きっと同じ気持ちだったんだろうな……て。だから私も、両親に向けての謝罪と、これまでお世話になったお礼の手紙を残してここに戻って来たんだよ。鞄一つに詰め込めるだけの荷物を詰め込んでさ。若気の至りってやつだね」
「それでもすごいです……。私だったら、きっと諦めていたと思います……」
ただ別れを嘆くだけでなく、現状を打開しようとするアキさんの行動力に、思わず感服する。
「あの時は私も必死だったからね。だけど当然、不安もあったんだよ。勝手に家を飛び出した私を受け入れてくれるのか……もう、あの人には新たに好きな人がいるじゃないかとか……あの手紙は恋文ではなくて、ただのなんでもない気まぐれに書いた手紙だったんじゃないかって……。そんな気持ちもあったから、ここへ着いた途端に足が動かなくなってね。しばらく立ち尽くしてたんだよ。そこへ山菜取りに行ってた旦那が帰ってきたんだよ」
途端に、アキさんは噴き出すように笑った。
「そしたらさ、私の顔を見るなり目を輝かせながら駆け寄ってきて、『手紙を読んでくれたんだね!』て大喜びするもんだから、一気に気が抜けちゃったよ。それが読めなくて気になったから戻って来たんだってのに……ふふふっ……」
笑いながら語るアキさんの目尻には、微かに涙が滲んでいた。
今は亡き大切な人との記憶は、たとえ楽しいものであったとしても……思い出すのが辛いとさえ思う事もある。
だけどそれを、自ら語ってくれたアキさんは、旦那様との思い出をとても大切にしているのだろう。
それから、アキさんは寂しげに視線を落とし、その先についても語り始めた。
再会を果たした旦那様とアキさんはすぐに結婚し、数名の従業員と共に慌ただしくも幸せな日々を過ごしていた。
けれど二人の結婚から三年後――旦那様に徴兵命令が下った。
当時、この大陸では紛争があちこちで勃発しており、戦力となる若い男性が戦地に駆り出されるのは珍しくはなかった。
けれど、旦那様のような新兵が生きて帰れる可能性は極めて低く、たとえ生き延びたとしても、新たな戦地へと駆り出された。
まるで使い捨ての駒のように……。
そして旦那様が戦地へと発ってから一年後――戦死したという通告が届いた。
「旦那は戦地に向かう前から、ずっと言ってたんだよ。この宿は自分の命と同じくらい……いや、それ以上に大事なものだから、自分が居ない間、ここを私に守ってもらいたいって……。自分の身を案ずるよりも、この宿の心配をしていたんだよ……。結局、それが旦那の遺言になっちまったってわけだ」
時代の流れと共に客足はどんどん減り、今は年に数名程度しか泊まりに来なくなってしまったけれど、いつお客さんが来ても良いようにと、一日も準備を怠ったことはないらしい。
「まあ、ご先祖様の代から貯め込んでた遺産があるから、生活には困ってないんだけどね。だからといって、ここを畳むわけにもいかないのさ」
「そうだったのですね……」
旦那様が亡くなって、アキさんもどれだけ辛かった事か……。
それなのに、旦那様の遺言どおり、ずっと宿を守り続けてきたアキさんは、本当に強い女性だと思った。
「つい長々と話しちゃったけどさ……人の恋愛なんて十人十色だよ。同じものなんて一つもないのさ。もちろん、悩む事も大事だけど、時には大胆に行動してみるのもいいんじゃないのかい? 待ってるだけじゃ解決しないものだってあるからね」
アキさんの話を聞いた今だからこそ、その言葉には確かな説得力を感じられる。
「それにあの旦那……呆れるほどマリエーヌちゃんにベタ惚れだしねぇ。昨日の食事中もずーっとマリエーヌちゃんの事しか見ていなかったじゃないか。ああいうタイプは好きな子に我儘を言われるほど喜ぶもんだよ。だからマリエーヌちゃんは、遠慮せず本音をぶちまけちまえばいいんだよ」
「本音を……ですか」
――私の本音……公爵様にぶつけたい事……。
「そう難しく考えなくてさ、ありのままの自分をさらけ出せばいいんだよ」
「ありのままの自分……」
そうは言っても、ありのままの自分とは……いったい何を見せればいいのだろう。
本音を伝えるにしても……この胸の内をどう言葉にすればよいのか……。
「……さて、そろそろいい頃合いかな」
「え?」
意味深に呟くと、アキさんはガタッと音を立てて勢い良く立ち上がった。




