17.アキさんの手料理
温泉宿の女将――アキさんは、私たちを大いに歓迎してくれた。
宿に入ると、まるで我が家に帰って来たような温かみのある空間が広がっていた。
公爵邸の玄関ホールに比べると、こじんまりとした広さではあるけれど、むしろそれが良いとさえ思った。
玄関の一角に佇む棚には、手招きするような猫の置物や、木彫りの可愛らしいお人形が私たちを出迎えるように並べられている。
「ここからは土足禁止だからね。こっちに履き替えておくれ。段差に気を付けるんだよ」
そう言って、アキさんは底上げされた床板の上に履物を二人分並べた。
言われた通りに靴を脱ぎ、それに足をとおす。
艶々とした革製の履物は無地でとてもシンプルなもの。
だけど硬い靴で長時間歩いた足には、この柔らかい履き心地が嬉しい。
それからアキさんは食事の支度をするからと言って、ジニー君に案内を託し奥へと引っ込んた。
「どうぞ。こちらへ……」
呟くような声でジニー君に案内され、私たちは廊下の先へと向かった。
歩くたび、ギシギシと木がきしむ音が鳴り、床板には擦り減って塗料が剥げた箇所がいくつもある。
相当年季の入った建物のようだけど、目立った塵や埃は見られず、掃除が行き届いているのがよく分かる。
廊下をまっすぐ進み、暖炉の灯る食堂に案内された私たちは、促されるままにテーブルに着いた。
「はい、お茶をどうぞ」
そこにやって来たアキさんが、湯気が立つコップを私と公爵様の前に置き、「おかわりも好きに飲んでいいからね」と、お茶の入ったポットをテーブルの中央に置いた。
陶器のコップもポットも、私たちがいつも使用しているものとは形も素材も違うけれど、これも異国の文化の一つだと思うと、そんな茶器にすらワクワクしてしまう。
「料理もすぐに持ってくるからね」
「ありがとうございます」
ニコニコと上機嫌な様子のアキさんは、軽やかな足取りで再び奥へと引っ込んでいった。
私は目の前にあるコップを両手で慎重に持ち上げ、それを一口口にする。
紅茶とはまた違う渋みのある温かいお茶。
香りも良く、体の芯から温まるような飲み心地に、ほぅっと安堵の溜息が零れた。
公爵邸を出発して今日で三日目。
緊張感から解き放たれたかのように、肩の力が抜けていく。
暖炉の柔らかな灯りと、ふわっと漂う温かい空気。
パチパチッと聞こえる音も耳に心地よく、眠気を催しそうなほどの安らぎで満たされる。
私の隣に座る公爵様も、ついさっきまでは気が立っていたけれど、今はとても穏やかな顔をしている。
アキさんが淹れてくれたお茶もお気に召したらしく、空っぽになった互いのコップに二杯目のお茶を注ぎ合った。
しばらくすると、ジニー君が大皿に盛られた料理を次々と運んできたので、あっという間にテーブルの上は料理でいっぱいに。
それを眺めていると、忘れていた空腹感を思い出した。
「食べたいものを食べる分だけ、このお皿にとってください。全部食べる必要はないので」
そう言うと、ジニー君は空の平皿を私と公爵様の前に置いた。
大きなじゃがいもがゴロっと入った煮込み料理、開いたお魚をこんがりと焼いたもの、艶々としたタレがたっぷりと絡まるお肉料理など、どれも初めて目にするものばかり。
「知らない料理ばかりで迷うだろう。私の故郷の料理もあるからね。ほら、これもそうだよ」
再び姿を現したアキさんは、手にしていた大皿を空いているスペースに置いた。
そこには三角の形をした白いかたまりがいくつものせられている。
「これはおにぎりって言ってね、マリエーヌちゃんたちの国で言うパンみたいなものさ。こうして手で持って食べるといいよ」
言いながら、アキさんはおにぎりを一つ掴み上げ、尖った先端を豪快にかじった。
「うん、我ながらいい塩梅の塩加減だね」
「母さん、行儀が悪いよ」
立ったままおにぎりを美味しそうに食べるアキさんに、ジニー君がズバッと指摘する。
「うるさいねぇ。あんたが遅かったせいで腹が減ってんだよ! さあ、マリエーヌちゃんと旦那さんもお腹が空いているんだろう? 今日は他に客は居ないから、好きなだけ食べておくれよ!」
「はい。いただきます」
私もアキさんが食べていたおにぎりを一つ手に取り、両手でしっかりと支えてパクっと口にする。
――……! 美味しい……!
ほんのりと温かくて、ぎゅっと固められているのに、想像していたよりも柔らかい。
少し塩気が強いと思いきや、噛むたびにほぐれるおにぎりの粒と塩味がちょうど良い具合に馴染んでいく。
塩以外の味付けはされていないみたいなのに、なんでこんなに美味しいのかしら。
それを探るように一口、また一口と口に含めば、あっという間におにぎり一個を食べきってしまった。
それを見て、アキさんはフフッと嬉しそうに笑った。
「どうやらおにぎりは気に入ってくれたようだね」
「はい。初めて食べましたが、とても美味しいです。公爵様もいかがですか?」
この感動をいち早く共有したくて、隣に座る公爵様にも薦めてみる。
「ああ、僕もいただこう」
頷くと、公爵様は笑みを携えた瞳でじっと私を見つめ、コップに添えていた手をおにぎりに……ではなく、なぜかこちらに向けて伸ばしてくる。
その人差し指が私の口の端に一瞬だけ触れて離れると、そこには白い粒が一つ。
……どうやら、私の口元に付いていたおにぎりの粒を取ってくれたようで。
――全く気付かなかったわ……!
まるで子供みたい……と、少し恥ずかしく思いながらも、公爵様にお礼を言おうと口を開いた時――公爵様はそれをパクっと口に含んだ。
――…………⁉
「確かに美味しいな」
「……」
満足そうにしみじみと言う公爵様を前に、私は口を開けたまま固まってしまった。
「あら~? 見せつけてくれるねぇ」
頬に手を添えながら、にんまりと笑みを浮かべるアキさんの言葉で、ハッと我に返ると同時に、カァッと顔面が燃えるように熱くなる。
途端、ガシャンッ! と、何かが割れる音が聞こえた。
「あ……」
と、言葉を零したのはジニー君だった。
その足元には、お皿と思わしき陶器が割れて砕け散っている。
棚から出そうとしていたお皿を取り落として割ってしまったのだろう。
「ごめんなさい。すぐに片付けます」
口早に言うと、ジニー君はその場にしゃがみ込み、陶器の破片を拾いだした。
「なにやってんだい。怪我はしてないかい?」
そこにアキさんも加わり、二人並んで床に散らばる破片を拾っていく。
「うん、大丈夫。……ごめん。お皿を無駄にしちゃって……」
「構わないさ。怪我がなくて良かったよ。だけど珍しいねぇ。あんたが動揺するなんて……。ふふ……年頃の坊ちゃんには、新婚さんの戯れは少し刺激が強かったかしらねぇ」
「別に……そういうわけじゃ……」
割れたお皿の破片を片付けながら、仲睦まじげに会話をする二人の姿がなんとも微笑ましくて。
――本当に、仲が良い親子なのね……。
見ているこちらまで、ぽかぽかと胸が温かくなるような親子の姿に心が和む。
ただ、お皿を割る原因を作ったのは私たちなのではないかと、少しだけ後ろめたい気持ちにもなった。




