15.温泉宿の女将
「おい。まだ着かないのか?」
苛立ちを滲ませた声で問う公爵様に、少年ことジニー君は振り返る素振りもなく、
「……もう少しです」
と、素っ気なく答えた。
この問答、これで何度目になるのだろう。
公爵様が焦れる気持ちもよく分かる。
傾斜のきつい上り坂を歩く私たちの周囲には、うっそうと針葉樹が生い茂り不気味な雰囲気を醸し出している。
すっかり日は暮れ、ジニー君が持つランタンの灯りを頼りに歩き続けているけれど、未だ建物の一つも見当たらない。
それに加え、標高が高くなったからか、日中に比べて一気に冷え込んだ気もする。
「マリエーヌ。大丈夫か?」
ジニー君への態度とはうって変わり、心配そうに眉尻を下げた公爵様が私を気遣う。
このやり取りも、もう何度目か分からない。
「はい、大丈夫です」
これまでと同じよう笑顔で答えてみせたものの、さすがに息が上がってしまった。
こんなに長い距離……しかも上り坂を歩くなんてずっと無かったから。
二人の足を引っ張りたくない一心でなんとかここまで歩いて来たけれど、そろそろ限界かもしれない。
自分の体力の無さを実感し、少し凹んでしまう。
室内からほとんど出る事がなかったから、仕方がないと言えばそれまでなのだけど。
――公爵邸に戻ったら積極的に体を動かさないと……。
そう密かに決意する。
その時、急に膝の力が抜け、大きくバランスを崩した私の体は地に倒れる――と思いきや、ふわっと浮かんだ。
言うまでもなく、公爵様が私の体を抱きかかえたのだ。
「相変わらず、マリエーヌは甘えるのが下手だな」
全てお見通しとばかりに、公爵様は穏やかな笑みを浮かべている。
「……ごめんなさい」
強がりが見透かされていたのと、体力の無さも相まって、恥ずかしくもあり頭が上がらない。
けれど公爵様は、クスッと嫌みのない笑みを零す。
「君が謝る事なんて何も無い。僕の方こそ、君をずっとあの屋敷に留めてしまっていたからな……。これからはもっと出掛けるようにしよう。君と行ってみたい場所は沢山あるからな」
そう言って破顔する公爵様は、明かりが灯ったように輝いて見える。
おかげで暗い気持ちが晴れ、釣られて私まで笑ってしまった。
「ふふっ……それは楽しみです。ですが、お仕事もお忙しいでしょうから、無理はしないでくださいね」
「ああ、それについては問題ない。だが、デートする場所については考えておかなければ……。僕が読んだ恋愛小説の中では、劇場で観劇を一緒に見たり、お弁当を持ってピクニックへ行ったりしていたな……。できればその時には、ぜひ君にお弁当を作ってほしい……。あと他にも、湖でボートに乗るシーンも多くあったんだが、なぜかやたらとヒロインが湖へ落ちるんだ。しかし僕ならそんなミスは犯さない。だから安心してボートに乗るといい」
――……ボートって、そんなに危険な乗り物なのかしら……?
それはさておき、すっかりその気になった公爵様の口は止まらず、物語の中に出てきたデートスポットをいくつも教えてくれた。
今日の公爵様は、いつになく解放的な発言が多い気がする。
馬に乗って移動していた時も、『このまま遠くへ消えてしまおうか』なんて言っていたし……。
そもそも、私よりもあの邸に縛られているのは公爵様の方で。
レスティエール帝国唯一の公爵位を所持するお方なのだから、それは致し方ない事だし、むしろあの場所から公爵様が居なくなってしまう方が大問題になる。
それでも、公爵様だって窮屈に思う時もあるのかもしれない。
――それなら、たまには羽を思いきり伸ばせた方がいいわよね。
ふいに前方から視線を感じた。
顔を上げてそちらを見ると、先頭を歩くジニー君が少しだけ振り向き、私たちの様子を伺っているように見えた。
けれど私の視線に気付いてか、すぐにプイッと前へ向き直した。
――なんだか、不思議な子なのよね……。
極度の人見知りだというのは、今までの様子から見ても分かる。
だけど、そんなジニー君の母親はいったいどんな人なのだろう。
ルドラさんは大丈夫だと言ってくれたけれど、本当に泊まらせてもらえるのかしら……?
そんな不安を胸に潜め、公爵様に抱きかかえられながら更に山道を進んでいく。
その時、遠くの方からワンワンワンッと軽快に吠える犬の鳴き声が聞こえてきた。
口滑らかに語っていた公爵様が、瞬時に表情を引き締める。
「野犬か?」
「いえ……僕のところの犬です」
間髪入れず答えたジニー君に、公爵様は怪訝そうに眉を顰める。
「お前の宿は犬を飼っているのか?」
「はい。警戒心は強いですが、お客さんに噛みついたりはしないので大丈夫です」
「そんな保証ができるのか?」
「……少なくとも、敵だと思われなければ噛みつかれる事はないかと」
そんなやり取りをする二人の間には、バチバチと反発し合う空気が漂ってみえる。
これまでのやり取りを見ても、互いを良く思っていないのは分かるけれど、これからジニー君の宿にお世話になるというのに、こんな状態で大丈夫なのかとこっそり頭を抱える。
――まあ、今夜一晩だけだし、大丈夫よね……。
「見えてきました。あそこです」
ジニー君が指さす方角には、そこだけ浮かび上がるような柔らかな明かりが灯っている。
近付くにつれて、その外観が明らかになっていく。
横に長く、どっしりとした重厚感のあるお屋敷。
その周りには私の背丈と変わらないくらいの低めの塀が、お屋敷を囲うように設置されている。
塀の中へと入ると、立派な門構えを携えた入口の近くで、フサフサとした毛並みの大きな犬が、ハタキのような尻尾をブンブンと激しく降りながら忙しなく動き回っていた。
「ワウッ! ワウッ!」
「ロキ、ただいま」
ワントーンほど高くなった声でジニー君が声を掛けると、ロキと呼ばれた犬は勢い良くジニー君のもとへと駆け寄り、ハッハッと息を荒くしてじゃれ始めた。
嬉しそうにパタパタと尻尾を振り回す様子から、ジニー君によほど懐いているのが伺える。
わしゃわしゃと体を撫でるジニー君の顔をペロペロと犬が舐めると、長い前髪が何度も跳ね上がり、あどけない笑顔が見え隠れする。
無邪気にじゃれ合う二人の姿はなんとも可愛く微笑ましい。
「ふふっ……かわいいですね。ロキ……君? それともロキちゃんでしょうか?」
「マリエーヌ。下手に近付かない方がいい。コイツはオスだ」
「あ、ロキ君なのですね」
途端、ピクッと耳を揺らして振り向いたロキ君が、トコトコとこちらへやってくる。
そこへ、ガッ! と私たちを隔てるように足が踏み下ろされ、ロキくんはビクッと体を強張らせる。
「犬の分際が……僕のマリエーヌに触れようというのか……?」
私の前に身を乗り出した公爵様がロキ君を睨みつける。
対するロキ君も、グルルッと唸り声を上げ威嚇する。
――……私はちょっと触りたかったな……。
と、少し残念に思いながら伸ばしかけていた手をそっと引っ込めた。
「そんなあからさまに敵意を剥き出しにされたら、さすがに噛みつかれますよ」
呆れ気味にジニー君が苦言を呈したその時、ガララッと勢いよく扉が開く音が聞こえ――。
「ジニー! こんな時間までどこへ行ってたんだい⁉ 心配したじゃないか!」
閑静な山中に、その怒鳴り声がこだました。
ビクッと肩を揺らし、ジニー君はすぐに立ち上がると、小走りで宿の方へと駆けていく。
「母さんごめん! あと、ちょっと話があるんだけど……」
「その前に遅くなった理由をちゃんと説明……って……あら? この人たちは?」
鼻息荒く、ずんずんと音が聞こえてきそうなほどの気迫でやって来た恰幅良い女性――ジニー君の母親であり、宿の女将さんは想像していたよりもずっと年配の女性だった。
頭部でお団子のように一括りにしている髪には、白髪と黒髪がほぼ均一に入り混じっている。
目元と口元には深い皺、頬にはシミのようなものがはっきりと浮き出ている。
母親だと知っていなければ、お祖母様と勘違いしていたかもしれない。
「……お客さん」
「え……?」
ボソッと呟いたジニー君の言葉に、女将さんは大きく目を見開きぱちくりと瞬きを繰り返し……次の瞬間、その瞳がカッと見開きジニー君を睨みつける。
「それならそうと早くお言いよ!」
大きく手を振り広げ、ジニー君の背中をバシッと叩く。
その反動で丸くなっていた背中が反り返り、ゴホゴホとむせ返るジニー君の隣で女将さんは眉尻と目尻を下げながら手を合わせる。
「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ありませんねえ! まさかこの子がお客さんを連れて来るとは思わなくて」
「いえ……こちらこそ、急な話で申し訳ありません。今夜一晩だけ、お部屋をお借りできますか?」
「もちろんですとも! うちはいつでも大歓迎ですよ! 一晩だけとは言わずに何泊でもしていってくださいな!」
気前が良く温情溢れるその姿に、胸がじんと熱くなる。
「ありがとうございます」
頭を下げ、感謝を述べた瞬間、ガシッと腕を掴まれる感覚がした。
「⁉」
驚きに目を見張ると、私の右腕は女将さんの腕と胸の間にすっぽり収められていた。
ニコニコと嬉しそうに笑う女将さんのお顔も物凄く近い。
初対面とは思えないほどの距離の詰められ方に戸惑うも、女将さんは全くお構いなしとばかりに目尻の皺を深める。
「ささっ! ここは寒いから早くうちへ上がってくださいな! 荷物は持ってきてないのかい? あ、二人はやっぱりご夫婦? もしかして新婚さん?」
グイグイと宿の方へと引っ張られながら矢継ぎ早に問われる。
「あ……えっと……はい、そうです」
「やっぱりそうかい! じゃあ尚更早く中に入って暖まらないとね……あ。ねえ、もしかして新婚旅行ってやつかい? その服装からして良いところの奥様とは思ったけど、もしかして海外から来たのかい? どこの出身なんだい?」
止まらない質問の波は答える間も与えてくれない。
年齢の割に力が強く、私の体はなされるがままに宿へと誘われる。
「おい! 貴様……勝手にマリエーヌを連れて行くな!」
引き留めようと、公爵様が伸ばした手を、女将さんがもう片方の手でガシッと掴み取る。
「ほら! 旦那も早く来な! ったく、大事な嫁の体を冷やすんじゃないよ! さっさと中に入った入った!」
途端に口調が荒々しくなった女将さんに気圧され、私と公爵様はそのまま宿の方へと引きずられていく。
ふいに視界に入ったジニー君は、私たちが歩いてきた道の方をジッと見つめていた。
夜風が強くなり、大きく揺れる木々がザワザワと大きな音を奏でると、途端に静けさが訪れた。
やがて、こちらへ振り返ったジニー君は……どこか今までと雰囲気が違う気がした。
この時の私は、まだ何も知らなかった。
私たちの背後に潜んでいる、何者かの存在に。
そして、この親子との出会いが、私たちの未来を大きく変えてしまうだなんて――。




