11.公爵様の刺繍体験
「あの……アレクシア様……? これはいったい……」
とりあえず顔は正面を向いたまま、なぜか背後から私の両手を握る公爵様に問いかけた。
「ん? 一緒にやるのだろう?」
あっけらかんと言う公爵様は、きっとこの光景の異常さに気付いていないのだろう。
――……確かに一緒にやりましょうとは言ったけれど……この状態で⁉
「ええっと……さすがにこの体勢で一緒に刺繍をするのは難しいかと……」
すると、私の手から公爵様の手が離れ……次の瞬間、両脇を掴まれ軽々と持ち上げられた私の体は、すぐにストンッと降ろされた。
公爵様のお膝の上に。
「……⁉」
声にならない驚きと同時に、私の両手には再び公爵様の手が添えられる。
背中には隙間なく密着する公爵様の体と、腰からお尻にかけても包み込まれるような温もりが。
更には耳から首元、腕から手の指先まで、公爵様に触れる箇所全てからその存在感をひしひしと感じられる。
「これで僕たちは一心同体だな。さあ、マリエーヌ。僕と一緒に体験しよう」
私のすぐ真横には主張の激しい笑顔を携える公爵様が。
大いに期待する眼差しがとても眩しくて……。
「………………はい」
としか答えられなかった。
ひとまず気持ちを鎮めるためにも浅い呼吸を二度三度繰り返し、気持ちを引き締める。
なんとか気休め程度には落ち着きを取り戻し、刺繍に集中する事だけを考え……気合を入れて針を織物に突き刺した。
けれど、グッと何かに当たるような感触があり、針が最後まで通らない。
指しどころが悪かったのだろうかと、一度針を抜き、もう一度刺そうとしてギョッとした。
先ほど針を刺した箇所が、じわじわと赤く染まりだしたからだ。
すぐに織物から手を離すと、私の左手に添えられていた公爵様の手の指先から血が滴っていた。
つまり……針が通らなかったのは……公爵様の指を刺していたから……という事⁉
「ごめんなさい! 私が針で刺してしまったみたいで!」
即座に止血をするためスカートのポケットからハンカチを取り出そうとするも、こういう時に限ってポケットまで辿り着けない。
あたふたとする私を安心させるように、公爵様が穏やかな口調で囁いた。
「マリエーヌ、気にしなくてもいい。僕の手の位置が悪かっただけなのだから」
「ですが血がこんなに――」
それを言い終えるよりも早く、公爵様は血が滴る自身の指先をペロッと舌で舐めた。
指先の血は綺麗に拭い取られるも、再び傷口から血が滲みだす。
すると公爵様は再びそれを口にふくむと、何度も指先を啄んだ。
その仕草がまるで口付けをしているかのようにも見え――やたらと色気を感じる公爵様の姿に、思わず目が釘付けになってしまう。
すると、何かに気付いたように公爵様の目が見開かれ、指先から唇が離れた。
「すまない……マリエーヌの手にも付いてしまったようだ」
「…………え?」
公爵様に話しかけられ、ようやく自我を取り戻した私が自分の手元を確認するよりも早く、公爵様が私の左手を掬い取った。
その中指と人差し指の間に、ポツッと赤い液体のようなものが。
どうやら公爵様の血が私の手にも付いてしまったらしい。
「あ……大丈夫です! 洗えばすぐに――……⁉」
その瞬間、言葉を失った。
公爵様が私の手をさらに持ち上げ、自らの口元に寄せたかと思うと、血が付着していた私の指の間をぺろりと舌で舐めとったからだ。
ねっとりと湿った感触に、ゾクゾクっと全身に言い知れない衝撃が駆け抜ける。
ぽかんと口を開けたまま唖然としていると、もう一度、ペロッと軽く舐められた。
「あ……あ……アレクシア様……?」
やっとの思いで声を絞り出すと、公爵様は爽やかな笑みを浮かべた。
「これで綺麗になった」
そう言って、公爵様は私の手の甲を愛でるように口付けをした。
その間も私の体は金縛りにあってしまったかのように動かない。
やがて公爵様の唇から私の左手が解き放たれると、公爵様は再び私の両手に自身の手を添え、
「さあ、マリエーヌ。続きをやろうか」
何事も無かったかのように清々しい笑顔で言われるも、もはや私の心境は刺繍どころではない。
今から続きを再開したところで次は自分の指を刺す自信がある。確実に。
そしたらきっと……公爵様は……‼
その先を想像し、カーッと頭に血が昇るように熱が駆け上る。
つい今しがた公爵様に舐めとられた左手に、先ほどの生々しい感触が蘇る。
自分でも驚いているのは、それが嫌だったという訳ではなくて……むしろ少し嬉しいとさえ思ってしまった事。
そしてもしも今、自分の指を刺してしまったら公爵様はまた私の指を舐め……なんて淡い期待までしてしまっている事に……!
――指を舐められて嬉しいだなんて……私ってば……なんてはしたないのかしら……!
「……? マリエーヌ……?」
いつまでも動こうとしない私を不思議に思ったのだろう。
公爵様が私の顔を覗き込む。
「あ……そ、そうですね……続きを……」
なんて言いながら、視線は思いっきり公爵様から逸らす。
すると、公爵様の左手がこちらへ近付くのが見え――瞬時に何をされるかを察した。
――これは……顎ックイ……!
近付く左手の人差し指には再び血が滲んでいる。
このまま顎に手を当てられたらその血が顔に付いて……な……舐め……!
自分でも驚くほどの速さでその結論まで達した私は、無意識のうちに体が動き――はむっ! と、公爵様の血が滲む人差し指を口に含んでいた。
――⁉
その行動に誰よりも驚いていたのは間違いなく私自身だと思う。
すぐさま公爵様の手から口を離し、声を張り上げる。
「ご……ごめんなさい! つい……!」
――つい……ってどういう事……⁉ 美味しそうだとでも思ったの⁉
信じられない自分の行動に、手で顔を覆いながらひたすらに自問自答を繰り返す。
今は身分を隠しているとはいえ、これでも私は公爵夫人なのだから……行動には気をつけないと……!
ブンブンと頭を振り、今しがたの行動を記憶から消し飛ばそうとしていると、
「マリエーヌ……」
公爵様の震える声が耳元で聞こえた。
おそるおそる公爵様のお顔を伺うと、自身の左手を見つめたまま信じられない様子でわなわなと震えている。
――そ……そうよね……公爵様だってさすがに引くわよね……⁉
恥ずかしさと情けなさで目尻に涙が滲む。
すると公爵様の視線が私へと移り――真剣な眼差しでジィッとこちらを見つめると、ゆっくりとその口が開かれた。
「もう一度……いや……もう十回ほど僕の指を刺してもらえるだろうか……」
そう言って、公爵様は懇願するような眼差しをこちらに向ける。
「……いたしません」
手で顔を覆ったまま涙声ではっきりと拒絶すると、公爵様は「そうか……」と切なげに呟き、ガックリと肩を落とした。
「リディア嬢……兄さんたちはいつもこんな事をしているのか……?」
後方に控えていたレイモンド様の、乾いた声が聞こえてきた。
「はい。いつもこんな感じですね」
「……そうか。本当に……兄さん、変わったな……」
諦めるような……吹っ切れるような……そんな声だった。




