05.意外な人物との再会
慣れない船旅の疲れと、よく眠れなかったのもあってか、ベッドに少し横になるつもりがそのまま眠ってしまったらしい。
目を覚ますと、窓から差し込む街灯の明かりが暗い部屋の中を照らしていた。
つい先ほどまで空を赤く染め上げていた夕焼け空が、今はすっかり闇に覆われている。
ゆっくりと体を起こし、隣のベッドへと視線を移すとリディアはまだぐっすりと眠っている。
長く苦しんだ船酔いからようやく解放され、心身ともに安息できたのだろう。
――よく眠っているようだし、まだ起こさない方がいいわよね。
気持ちよさそうに眠る彼女の寝顔は、あどけなさが残る少女のよう。
そんな姿を微笑ましく思いながら眺めていると、突然その瞳がカッと見開いた。
「⁉」
不意打ちの目覚めに、驚きで体が飛び跳ねる。
――び……びっくりした……‼
ドキドキと音を立てる動悸を、胸に手を当て落ち着かせる。
一方でリディアは目を開けたままピクリともしない。
それが少し不気味にも思え、恐る恐る声を掛けた。
「リディア……? 起きたの……?」
様子を見ようと近寄った時、リディアは勢い良く体を起こしたので思わずのけぞった。
リディアは私を見るなり、素早い動作で両膝を付き――。
「マリエーヌ様! このたびは大変なご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした!」
深々と頭を下げだしたリディアに、慌てて声を掛ける。
「リディア、そんなに気にしなくても大丈夫よ。それよりも体はもう大丈夫なの?」
すぐに顔を上げたリディアは、キリッと引き締まった表情で口を開いた。
「はい! もうばっちりです! お腹が空きすぎてフラフラしますが!」
「そ、そうよね。船に乗ってからはほとんど食べられなかったものね。じゃあ、私たちは一足先に食堂へ行きましょうか」
「賛成です! すぐに参りましょう!」
パァッと表情が明るくなると、リディアはすぐにベッドから降り、パンパンッと叩いて服のしわを伸ばした。
白いリボンで長い髪をキュッと一括りに纏め、あっという間に身支度を終えると、いそいそと先陣を切って歩き出した。
いつもと変わらない元気を取り戻した彼女を見て、ホッと胸を撫で下ろす。
リディアは私たちの新婚旅行に同行できると知って、跳び上がるほどに喜んでいた。
それなのに出発早々、船酔いで苦しむ事になり、気の毒に思っていた。
だからここからは気を取り直して、この旅が彼女にとっても良き思い出になるよう、大いに楽しんでほしい。
弾むように歩くリディアの後ろ姿を見て、私もその後ろについて歩く。
リディアが扉を開け、足を踏み出そうとした時――。
「リディア嬢!」
「ふえ⁉」
扉の先から勢いよく身を乗り出してきた人物に、リディアは飛び退き私の体にしがみついた。
その体を抱き留めて、私も突如として現れた謎の人物を警戒する。
公爵様と同じくらい長身の男性。
清潔感のある白いシャツにはきっちりとネクタイが絞められ、肩から垂れ下がる長い朱色の髪は艶があって美しい。
丸縁の黒眼鏡を掛けているため、顔はよく分からない。
けれど眉尻を下げてリディアを見つめる様子は、彼女を心配しているようにも見える。
その様子から、リディアの知り合いなのかと思ったけれど、今の声には聞き覚えがあった。
私は以前、その声と公爵様の声を聞き違えた事があったから。
「レイモンド様……?」
その名を口にすると、リディアは「え?」と目を丸くして男性へと顔を向けた。
「ああ、義姉さん。久しぶりだな」
言いながら、レイモンド様は黒眼鏡を外し、公爵様と同じ真紅の瞳を細めた。
レイモンド様は公爵様の弟であり、伯爵位を所持する人物。
公爵邸から遠く離れた地にある伯爵領の領主として、そこに邸を設けて暮らしている。
だから私たちが会う事は滅多にない。
だけど私がまだ公爵邸で冷遇されていた頃、レイモンド様は仕事の都合で公爵邸へやって来ると、私のお部屋を訪れ話し相手になってくれた。
当時の私を唯一気にかけてくれた存在――それがレイモンド様だった。
誰からも相手にされていなかった私が、その存在にどれほど救われていたか……。
それを思い出すと、今も感謝の念に堪えない。
――でも、どうしてレイモンド様がここに……?
それを問おうとした時、レイモンド様の視線が再びリディアへと向けられた。
「君が深刻な体調不良だと聞いて心臓が止まるかと思ったが……大丈夫そうだな」
余裕のない口調で告げると、安堵したようにホゥッと息を吐き出す。
呆気に取られたままそれを見ていたリディアは、訝しげな顔で呟いた。
「……さっき……私の心臓が止まりかけたのですが……」
「なんだと⁉」
「うわっ! だからそれが心臓に悪いんですってば!」
「心臓が悪いだと⁉」
「えぇっ……? なにこの人すごく面倒くさい……」
怒濤の勢いでリディアに詰め寄るレイモンド様に、リディアは白けた眼差しを注ぐ。
「あの、レイモンド様。リディアは大丈夫ですので。……一度落ち着いてください」
よく見ると、レイモンド様は息を切らし、額に汗を滲ませている。
よほどリディアの事が心配だったのだろう。
――でも、この二人って……何か接点があったかしら……?
不思議に思いながらも、やたらと距離の近いレイモンド様からリディアをそっと引き離す。
「レイモンド。話の途中で勝手に行くな」
その声と共に、レイモンド様の後ろから公爵様が姿を現わした。
「え……公爵様……?」
目を見開いて驚きをあらわにするリディアは、瞬きを繰り返しながら公爵様を凝視している。
思えば、リディアは今まで船酔いで寝込んでいたから、今の公爵様の姿をまともに見るのはこれが初めて。
やはり黒髪の公爵様は、彼女にとっても衝撃が大きいらしい。
「マリエーヌ。驚かせてすまなかった」
私に近付く公爵様から逃げるよう、リディアがサササッと身を引いた。
それと入れ替わるようにして公爵様が私の前に立つと、眼鏡の中央部を人差し指でクイッと持ち上げた。
そんないつもと違う仕草にも、いちいちドキッと反応してしまう。
今の姿が期間限定なのだと思うと尚更、その姿を目に焼き付けておきたい……なんて。
さっきから公爵様の姿を食い入るようにジィィッと観察しているリディアみたいに……!
そんなリディアを羨ましく思いつつも、公爵様に問いかけた。
「えっと……どうしてレイモンド様がここに……?」
その問いに、公爵様は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「すまない。もっと早く話をするべきだったが……マリエーヌと一緒にいると、つい余計な存在を忘れてしまってな」
「余計な存在……」
公爵様の言葉に、レイモンド様が不服そうに呟く。
「今回の旅にはレイモンドも同行する事になったんだ」
「え?」
――レイモンド様が……私たちの新婚旅行に同行……する……?
公爵様の言葉に私とリディアはしばし声を失った。




