04.もう一つの国籍?
夕方、私たちを乗せた船は無事ディーランド大陸に到着した。
当初の予定では、船から降りたらすぐに馬車で移動する予定だったのだけど、船酔いが残るリディアの負担を考え、今日は港に近い宿に泊まらせてもらう事になった。
今回の新婚旅行には、私たちの他にも護衛として公爵家直属のウィルフォード騎士団の騎士様が二名同行している。
その一人が、ぐったりとしているリディアを抱きかかえて宿まで運んでくれた。
リディアの顔色はまだ優れないけれど、あとはしっかり休んで回復するのを祈るしかない。
一方で公爵様は、宿帳にスラスラとペンを走らせている。
この地の言語はレスティエール帝国と共通。
言葉の壁が存在しないので、帝国からの旅行客も多い。
だからこそ、髪色を染めてまで公爵様が身分を隠す必要があったのだ。
「アレクシア・ウィルソン様と、奥様のマリエーヌ様。後ろの三名様のお連れ様のお部屋をこちらにご用意致しました」
宿帳に目を通した宿主が、壁に掛けられていた鍵付きの木札を三つ、カウンターの上へと並べた。
公爵様がそれを手に取ると、一つを護衛の騎士様に、もう一つを私に手渡した。
三部屋ということは、護衛の騎士様二名、私とリディア、公爵様という部屋割りなのだろう。
木札にはそれぞれの部屋番号が記されており、私の番号は公爵様のとは一つ違い。
案内板に目を通し、それぞれ割り当てられた部屋へと向かった。
その道中、気になっていた事を公爵様に問いかけた。
「あの……ウィルソンというのは、もしかして偽名ですか?」
「ああ。ウィルソンという名は、僕がこの国で使っている名義なんだ。国籍もあるから怪しまれる事もない」
「え? 国籍が……?」
だけど公爵様はレスティエール帝国唯一の公爵位を持っているほどのお方。
そんな方が、他国の国籍を持っているなんて有り得るの……?
……というか、そもそも偽名で国籍を持っている事自体おかしいわよね……?
首を傾げる私に、公爵様は朗らかな口調で続けた。
「ああ、心配しなくてもマリエーヌの国籍も取得済みだ。マリエーヌ・ウィルソン。それがこの国での君の名前だ。もちろん僕の妻として婚姻関係も結んでいる」
「……はい?」
爽やかな笑顔で、さも当然のように告げられ思わず聞き返した。
――公爵様……。そんな心配はしていなかったのですが……たった今、心配になりました。
それでも公爵様は笑顔を崩さず、むしろ嬉しそうに続けた。
「もしも君がこの国を気に入ったなら、いつでもここに移り住める準備はできている。僕たちが住む家もあるから、遠慮なく言ってほしい」
「……」
――そんな準備をいつの間に……? というか……なぜ……?
もはや開いた口が塞がらず。どう反応をすればよいかも分からない。
公爵様は冗談を言えるほど器用な人間ではない。
つまり……本当に私の国籍を取得済みで……私たちが住める家も実在するのだろう。
――……とりあえず……国籍をどうやって取得したかは深く考えないでおこう。
だけどもし、私がここで暮らしたいと言った場合、公爵様はどうするつもりなのかしら……?
まさか私と一緒にここへ移住するつもり……?
これまでの公爵様の言動を考えると、それも十分ありえる。
だけどそうなると、公爵としての責務は……?
まさか公爵位を棄てるとか考えて――。
「マリエーヌ。そう深刻に考える必要はない」
公爵様に声をかけられ、ハッと我に返る。
気付けば、私たちが泊まる部屋に着いていた。
すると、反省するように眉尻を下げた公爵様が、私の両手をギュッと握った。
「僕はただ、君をあの地に縛り付けたくなかったんだ。君が行きたいと思う場所には僕が連れて行くし、住みたい国があればそこに住めばいい。君には沢山の選択肢があるという事を知ってもらいたかっただけなんだが……不安にさせてしまったな」
「あ……」
公爵様がなぜそのような事を私に伝えたのか……その理由はなんとなく分かった。
結婚した当初の公爵様は、私が公爵邸から出る事を許していなかった。
そして前世でも、体の不自由な公爵様の傍から離れようとは思わなかった。
だから私の行動範囲は、常に公爵邸の敷地内だけだった。
それを公爵様はずっと気にしていたのだろう。
「ありがとうございます。ですが私はもう、自分が縛られているとは思いません。あの場所こそが私の居場所であり、帰る場所なのです」
「……マリエーヌ……」
感動に目を見開く公爵様は、ジッと私を見つめる。
青みがかったレンズ越しに見るその瞳は、いつもの血の滾るような赤色ではなく落ち着いた赤紫色。
それなのに、強い意思を秘めたような力強い眼差しに、ドキッと心臓が高鳴った。
見つめられるのはいつもの事なのに……なんだか落ち着かない。
すると、公爵様の右手が私の頬を撫で――顎に添えられた。
その手がクイっと私の顔を少しだけ持ち上げると、すぐ目前に公爵様のお顔が。
その先を察して、応えるように瞼を伏せ――。
ガチャッ……。
「あ……」
扉が開くと同時にその声を漏らしたのは、リディアを抱えていた騎士様だった。
恐らく、リディアをベッドに寝かせ部屋から退室しようとしたのだろう。
私たちを前に、騎士様は水を被ったような大量の汗を流し始めた。
私はそっと公爵様の体を引き離し、額に汗を滲ませながらも何事もなかったように笑顔を繕う。
「リディアを運んでくださり、ありがとうございました」
礼を述べ、騎士様の退路を確保するよう扉の前から離れた。
「い、いえ! 大っ変失礼致しました!」
と、騎士様は私たちから視線を逸らしたまま一礼すると、真っ青な顔で逃げるように去って行った。
――あら……? 騎士様の部屋は反対側なのだけど……。
しかし呼び止める間もなく、騎士様はあっと言う間に姿を消してしまった。
ふと気付けば、辺りにはひんやりとした冷気が漂っている。
その発生源らしき人物を見上げると、ニコっと清々しい笑みで応えられ、フワッと生暖かい風がそよいだ。
――……というか……病人のいる部屋の前で私ったら……! さすがに不謹慎だわ!
そう反省しながら、火照り出した顔を両手でパタパタとあおぐ。
「じゃあ、マリエーヌ。長い船旅で疲れただろう。夕食まで時間があるから、ゆっくり休むといい」
「はい。公爵様もお休みになられてください」
「ああ、ありがとう」
笑顔で言葉を交わし合い、公爵様に見送られながら私は部屋の中へと入った。
二つ並んだベッドの片側で、リディアはうつ伏せで枕に顔を埋め眠っている。
――苦しくないのかしら……?
息ができているのか心配になり、リディアに近寄ると、枕越しに彼女のこもり声が聞こえてきた。
「マリエーヌ様……もしマリエーヌ様がこの国に住むというのなら……私もお供いたします……」
「! リディア……聞いていたのね」
こんな状態で部屋の外の会話を聞いていたなんて……リディアの耳はすごく良いのね……。
なんて感心していると、リディアはギギギギッと顔をこちらに向け――。
「ですから私の国籍も……公爵様に頼んでおいてください……」
そう言い残すと、ガクッと力尽きたように眠りに落ちた。
――リディア……国籍って人に頼むようなものではないのよ……?




