08.愛のかたち
その日以来、リディアとは時々、一日の業務を終えた夜に少しだけ話をするようになった。
リディアが他の貴族の下で侍女をしていた時の事や、故郷での話など、その内容は他愛もないものではあるが、ズバズバとものを言う彼女の話は聞いていて痛快だった。
僕の方も、これまでの生い立ちであったり、伯爵になってからの出来事……今まで誰にも話した事のない話でも不思議と彼女には話せた。
体が動かなくなってからの兄さんの話をすると、リディアはマリエーヌに深く感心を寄せていた。
「冷遇されていた奥様が、あの冷徹無慈悲な公爵様をずっと看ていたなんて……女神みたいな人ですね……。私だったら絶対無理です」
「ああ……そうだな。僕にも無理だったな……」
「というか、大抵の人はそんな事できないと思います。きっとその奥様が特別なのですよ。そんな人と自分を比べない方がいいですよ。辛くなるだけですから」
僕が気にしているのに気付いたのか、そんな励ましの言葉をかけられた。
――確かに、そうかもしれないな……。
兄さんとマリエーヌに対して、ずっと後ろめたい気持ちがあった。
本来なら僕がやらなければならなかった事を、マリエーヌが代わりにしてくれていたという罪悪感も。
マリエーヌが献身的に兄を支える姿と、何もしようとしなかった自分を比べて恥ずかしくなり、情けなくもあった。
「だが、僕がもっと兄さんを気に掛けていれば……二人の運命も変わっていたのかもしれないな。マリエーヌのような優しさが僕に少しでもあれば……」
「いや……今までのあの人の態度を見たら優しくする気も起きないですよ」
「ふふっ……確かにな。だが、それでも兄さんにとって僕が唯一の家族だったから……」
「……家族だから難しい、という事もあると思いますけど。……でもやっぱりあの人に優しくするのは私には無理ですね。それならまだ蟻に餌あげる方がマシですよ」
「ぶふっ……!」
リディアの遠慮ない言葉に思わず噴き出してしまう。
どうやら兄さんは彼女に相当嫌われているらしい。
「そうか……君にとって兄さんは蟻以下の存在という訳か……くっくっく……」
兄さんの事をそんな風に言う人間が存在するとはな……。
リディアが公爵邸の侍女でなかった事を心底良かったと思う。
もしそんな事になっていたなら……彼女の命が危うかっただろう。
「……前々から思ってましたけど、レイモンド様って笑い上戸ですよね……」
「君がおかしい事を言うからだろう」
「だとしても、レイモンド様の笑いのツボもおかしいですよ」
「ふふっ……!」
やはりリディアとの会話は楽しい。
リディアにとっては特別ボーナスに惹かれて引き受けた仕事の一環なのだろう。
だが僕にとってこの時間は、何よりも安らげる憩いのひとときとなっている。
彼女の前では何を気取る必要もない、自然体の自分でいられた。
こんな風に心の底から笑えるのは、彼女の前だけだという事は今は黙っておこう。
「それにしても、公爵家の人間が次々に亡くなるなんて……もはや呪いの爵位ですよね」
リディアは眉を顰めながら深刻そうにつぶやいた。
どうやら他の公爵家の跡継ぎが毒の訓練により亡くなった事も含めて言っているらしい。
「ふふっ……呪いか……確かに似たようなもんだな」
「いや全然笑いごとじゃないですよ……。でもレイモンド様は継がなくて正解でしたね! そんなの持ってたら誰も幸せになれませんし」
「……そうだな……」
確かに、リディアの言うとおりだ。
あのまま公爵位を継いでいたら、僕も生まれてくる自分の息子に同じ教育をさせなければならなかった。
母の時と同じように、我が子を奪われる悲しみを自分の妻となる女性に課せ……我が子にも恨まれ……家族はバラバラになってしまっただろう。
かつての僕たちのように……。
「だが……僕にとってはそれ以上に、価値のあるもののように思えたんだ」
どうしても手にできないモノだと分かっていても、ずっと欲しくて堪らなかった。
追いつけるはずもないのに、必死に兄の背中を追いかけていた。
辺境の地に追いやられても、未練たらしく仕事を口実にして公爵邸へと足を運んだ。
兄が事故に遭い、公爵としての責務を果たせなくなった時……ようやくそれを手にするチャンスが回ってきた。
皇帝に侮辱され、上位貴族たちに咎められようとも……全て覚悟の上だった。
だが……。
「では、レイモンド様はなぜ公爵位を継がなかったのですか?」
ふいに問いかけられて、言葉に詰まった。
「……なぜだろうな」
あんなにも縋り追い求めていたものを、自ら手放してしまった事に、何の未練も感じなかった。
ただ単純に……何の魅力も感じなくなったのだ。公爵位というものに。
それを得て、僕は一体何をしたかったのか……急に分からなくなった。
だが、リディアと話をするようになり、本音をさらけ出す中で、少しずつ自分の本当の気持ちが見えてきた。
今なら少しだけ分かる。
僕がそれを欲しかった理由が――。
「僕は公爵位を手にする事で、自分の存在価値を見出そうとしていたのかもしれないな」
「存在価値……ですか……」
「ああ。僕にそれがあれば……誰かから愛されると思っていたのだろう」
僕が本当に欲しかったのは、爵位ではなく……愛だった。
公爵候補から外れ、誰からも期待されていない存在なのだと思い知らされた時――僕は自分の存在価値を見出せなくなった。
ずっと傍に居てくれた母からの愛さえも信じられなくなり……自分は誰かに愛される価値のある人間なのだろうかと……何度も思い悩んだ。
『愛』とは目に見えないものだから。
その不確かなものを確証づける何かが欲しかった。
たとえどんな形であろうとも……。
だが……あのような姿となった兄に寄り添い、片時も離れようとしないマリエーヌの姿を見て、公爵位は関係ないのだと気付いた。
たとえ全てを失っても、マリエーヌから愛される兄さんを見て……羨ましいとすら思った。
母さんからの愛も……愛する人からの愛も全て、兄さんは手にしていたのだから。
僕は何一つ手にできないというのに……。
「レイモンド様は、御自分が誰からも愛されていないと思われているのですか?」
「……ああ。僕は母親からの愛も信じられなかったからな……それなのに、誰かからの愛を信じられるはずがない」
それは今も同じだ。
こんな僕を愛してくれる女性などいないだろうと……自信なんて一つもない。
これほど愛されたいと願っているのに……その愛を信じる事ができない。
――こんな僕は、きっと君に「女々しいですね」とでも言われるのだろうな……。
次回、外伝3最終話となります