第8話 はじまりの時
目の前にそびえ建つ高層ビルを見上げていた。
また音がする…………なんて、そんな優しいものじゃない。
心臓がバクバクと鳴っていて……
「……緊張するね…………」
「そうだな」
四人とも奏に同感ではあるが、何処か楽しげな雰囲気が漂う。それはwater(s)として活動してきた期間の差だろう。
奏は加入から半年、ライブは片手で数えられる程しか経験がない為、メンバー内で一番緊張していても仕方のない事だ。
圭介が率先してエントランスに入っていく。
奏は頭上から目の前にいるメンバーに視線を移し、背中を追った。
受付で杉本宛に来た事を伝えると、座って待つように促された。事前に指示のあったメンバーは、楽器ケースを肩から下ろし、ソファーに腰掛けた。
みんな……いつもより口数が少ないけど、何処か楽しそう…………期待しているのが分かる。
でも……私は、正直それどころじゃない。
いつも以上に鳴ってて…………会話が頭に入ってこない。
奏は相槌を打つだけで精一杯だったが、他のメンバーは緊張しながらも、いつものように話していた。正確には、そう見えるように努めていただけである。
初めての体験に高鳴っていたのは奏だけではない。彼らにとっても待ち続けた瞬間が目前に迫り、抑えきれない高揚感が滲んでいた。
五分程で杉本がエレベーターから降りてくると、その場に勢いよく立ち上がる。奏もメンバーに習って、すぐに一礼したが、事前に話し合っていたとはいえ、行動に移す難しさを痛感した。
一方の杉本は、変わらない礼儀正しい所作に微笑む。
「来てくれてありがとう。ここまで迷わなかったかい?」
「はい、大丈夫です」
いつもは話の尽きない彼らも、徐々に口数が減っていく。
杉本の後を歩きながら、圭介がいつも通り対応しているが、奏に至っては近距離にも関わらず、何一つ聞こえていない。心音が耳に響いて、それどころではないのだ。
「ーーーーhana……」
いつの間にか隣を歩いていた和也から優しい眼差しを向けられ、表情が和らぐ。
「…………miya……」
「……少しくらい良いだろ?」
「……うん…………」
差し出された手を握り返していた。
ーーーー右半分が熱い。
繋いだ手からも、和也も緊張しているのが分かる。
きっと…………だから、手を繋いでくれたんだよね。
「着くな……」
「うん……」
最後尾を歩いていた二人は名残惜しそうに手を放し、レコーディングスタジオに入っていく。
重い扉を開けると、そこにはスーツ姿の年配の男性が待っていた。
「初めまして、プロデューサーの佐々木昇と申します」
そう丁寧に挨拶すると、五人それぞれに名刺を手渡した。
「ーーーーよろしくお願い致します」
『よろしくお願い致します』
圭介に続いて揃って一礼すると、顔を上げた瞬間の期待に満ちたような瞳に、佐々木は微かに笑みを浮かべた。
「……杉本から話は伺っています。CDも良かったんだけど、生の音が聴きたくてね。ここで演奏してくれるかな?」
「はい!」
そう勢い良く応えたのは和也だ。その反応の良さにメンバーだけでなく、佐々木と杉本からも笑みが溢れる。
広々としたスタジオ内にあるドラムをakiが、ギターとベースはそれぞれkeiとhiroが。そしてキーボードをmiyaが借りると、いつものように弾き始めた。
その曲は、初めて五人の音が重なった"春夢"だ。
ーーーーーーーー緊張はあるけど、みんなで演奏出来るなら……それだけで…………
背中から感じる多彩な音色に身を委ね、声を出す。先程まで緊張感に襲われていた少女はいなくなっていた。
……みんなの音に乗せて歌っている時、夢が叶う気がするの。
理想の私に……なれる気がするから…………
「ーーーースギの言ってた通りだな……」
佐々木は思わず呟いていた。
全員十代とは思えない程の高い技術力に、声量のある歌声が映えている。
彼は今まで数多くのアーティストに、プロデューサーとして関わってきたが、そのどれも比べものにならない程の出来栄えだった。
事前に分かっていたとはいえ、思い知らされた。
自分達の耳で音を聴き分け、洗練された美しい旋律を奏でる姿は、正にプロと呼べるだろう。
反響がいつもと違う初めての場所でも、それを微塵も感じさせる事なく披露する姿は本物であった。
演奏する彼らにとって、自分達の耳で音を聴き分ける事は日常である。
ここには本物と呼ぶべきアーティスト、water(s)がいた。
CDの音源と違い落胆する事はあっても、感心する事が滅多にない佐々木にとっても、奇跡のような瞬間である。
音色が止み、思わず拍手をする杉本に釣られるように、佐々木も送りながら尋ねた。
「音楽に関する大学に通っていると聞いていたけど、何処の学校かな?」
「帝東藝術大学音楽学部です」
リーダーの圭介が代表して応えていく。
「miyaとhanaは、高校生という話だけど……二人は?」
「二人は、僕達が通っている大学の附属音楽高等学校に通っています」
「ーーーーそうか……」
音楽を志す者なら誰もが知る国立学校の為、高い技術力にも納得の表情だ。事前に音楽に関する学校に通っていると聞いていたが、佐々木の想像以上だったようだ。
「いつも専攻している楽器はあるのかな? 今、聴かせて貰えたりする?」
「はい」
即答する圭介に応え、持ってきた楽器の用意をする中、和也だけは自前のギターを構えた。
「ーーーー佐々木さん、miyaはギターでいかせてもらいます」
「構わないよ」
先程と同じ曲をほぼ即興で弾き始める。
和也のギター、圭介のヴァイオリン、明宏のチェロ、大翔のサクソフォンに、奏のピアノと、五人の音が重なり、色彩が変わっていく。
「ーーーー別格だな……」
佐々木がそう呟くのも無理はない。
専攻している楽器とはいえ、ここまで心地よいハーモニーになるのは、日頃の練習の賜であり、個々の能力が高いからだ。
先程までとは変わった曲調を、難なく弾き語りする彼女の多才振りが発揮され、佐々木もまた鳴っていたのだろう。また拍手を送らずにはいられなかったようだ。
「さすがに上手いな…………面白い編成だったけど、良かったよ」
見定められている事が分かっているからこそ自分たちの音色を響かせていたが、顔を見合わせ、ほっと息をつく。プロデューサーに聴かれているという事実も、緊張感の増す要因の一つであった。
「ちなみにmiyaは、大学で何を専攻する気なのかな?」
「ピアノです」
はっきりと応えた彼の瞳には、弾き終わったばかりの高揚感が滲んでいる。
「ーーーーーーーーでは早速、今後について話をしようか」
片付けるのを待って、杉本と共にミーティングルームへ向かう奏の足取りも軽い。披露した事によって緊張感が薄れたようだ。
予め渡されていた書類を杉本に提出すると、新曲を書き下ろす事やレコーディング期間。そして、来年の三月二十八日のデビューシングルリリースと、続々と決定事項が並んでいく。
奏は目の前で起こっている出来事が信じられずにいた。
親に同意書をもらう時も、夢見心地だったけど…………また実感が湧かない。
いつか……歌える人になれたら……と、微かに思った事はあるけど…………実際になれるとは思っていなかった。
だから、それは現実的な夢じゃなくて…………音楽がすき……ただ、それだけだったの。
高校に入ってから更に……歌も楽器も上手な子は、たくさんいるから…………余計に、夢だなんて言えなくなっていった。
気持ちを察したかのように、隣に座っていた和也が右手をそっと握った。
一瞬、彼に視線を移すが、すぐに書類に戻す。彼の眼差しは佐々木と杉本に向けられたままだ。
握られた手の温かさと彼の真剣な眼差しが、現実だと告げているようだ。
そして、何気なく握られた手に、付き合い始めたことも実感していた。二人の距離感は出逢った当初よりも明らかに近い。
「本名非公開、顔出しNGは了承したよ。ネット配信の方は、今後はマネージャー主体で宜しく頼むよ」
『はい』
「では、water(s)のマネージャーを紹介しよう」
佐々木に応えたのは、先程から行動を共にしている彼だ。
「杉本俊彦です。改めて宜しくお願いします」
そう言って差し出された手を、圭介はしっかりと握り返した。
杉本から改めて手渡された名刺には、water(s)マネージャーと肩書きが追記されていた。
エントランスまで見送った杉本がミーティングルームに戻ると、佐々木が楽しげな表情を浮かべていた。
窓からは、五人が歩いていく後ろ姿が遠くに見えている。
「ーーーーwater(s)はエリート音楽集団なのに、それだけじゃないのが魅力だな…………それにしても……まだ、全員十代か…………」
プロの目から見ても、彼らの音楽センスが桁違いにいい事が数分のやり取りで分かった。
先程も杉本に釣られるように拍手をしたのではなく、自然と手が動いていた。あの佐々木ですら、賛辞を送らずにはいられなかったのだ。
「…………スギのおかげだな。一先ずお疲れ」
そう労われた杉本も微笑む。
「はい、どんな曲を持って来てくれるか待ち遠しいです」
「そうだな、待ち遠しいな…………」
二人がどれほどwater(s)に期待を寄せているかは明らかだ。極めて稀な事だが、既にヒットする予感だけがあった。佐々木にとっても初めての感覚だ。待ち遠しいと感じる程のアーティストに出逢ったのは、三十年近く前の事だと想い返していた。
「ーーーー佐々木昇さんか…………オーラのある人だったな……」
「あぁー……あの人が若手の頃からプロデュースしてる人は、名曲揃いだからなー」
「そんな人が、納得する曲って事か…………」
ようやく緊張感から解放され、いつもの雰囲気に戻る。
改めて高層ビルを見上げた奏も、もとの落ち着きを取り戻していた。
プロデューサーの佐々木昇さんを知らないメンバーは、一人もいない。
ジャケットやエンドロールに流れるような人と……会えたなんて…………それだけでも、十分過ぎるくらい幸運なこと。
特に彼は奏よりも思い入れがあるようだ。
同じようにビルを見上げた和也は、少し物足りなさを感じていた。二曲しか披露出来なかったからだろう。物怖じする素振りは一つもない。
「…………楽しみだな」
「うん……」
視線を通わせ、二人は空を見上げた。
ーーーーこれから……はじまる……また音が鳴るの。
先のことを不安に思うよりも、和也の言ったとおり楽しみたい。
その為には、もっと……もっと、歌えるようにならないと…………
「さっそく、新曲を練るだろ?」
「あぁー。マスターの所、寄って行くか?」
「賛成!」
「安心したらお腹空いたな」
「だよなー」
…………みんな、すごい……気負ったりしないで、未来を見てるなんて…………
「奏、どうした?」
歩調を合わせるように、前を歩いていた筈の和也が隣を歩く。
「ううん…………私、頑張るね」
「大丈夫。俺達なら出来るよ」
「うん…………和也、ありがとう」
「いつも通り作曲は、俺がメインでやっても良い?」
前を歩いていたメンバーも振り向いて応える。
「勿論、じゃあ、曲が先にするか?」
「うん、曲が決まったら歌詞な」
「了解、楽しみだなー」
「明るいテンポの曲がいいよな?」
「だよなー、デビュー曲だしなー」
「……そうだね。ずっと……聴いてくれる人がいるような、そんな曲にしたいよね」
「hanaの言う通りだな」
「うん、イメージが膨らむな」
喫茶店へ着く前に、早くも大まかな曲調が決まる。五人のデビュー曲に対する想いは、それだけ強いものがあった。
ずっと聴いて貰えるようなデビュー曲にすると決意し、すぐに曲作りに取りかかる事となった。




