第53話 バスキング
彼女の家の前に止まっていたタクシーから、彼が顔を出した。
「奏さん、お預かりしますね」
「はい。奏も、和也くんも、気をつけるのよ」
「うん、ありがとう」 「ありがとうございます」
大きなスーツケースはトランクに積み込まれ、ギターを和也が受け取ると、右手は握られていた。
「いってきます」
嬉しさの滲み出た表情を浮かべたまま、母に手を振り、家を後にした。
「いよいよだね……」
「そうだな」
楽しみ…………この数日、待ち遠しくて仕方がなかった。
待ちに待った、みんなとの旅行。
どんな十日間になるのかな……
彼女は心を躍らせながら、アメリカ、ニューヨークに飛び立った。
「おーーっ! 人、多いなー」
「すごいね……」
チェックインを済ませると、ホテルから程近いタイムズスクエアを訪れていた。
「奏、こっち向いてー」
「うん!」
観光客感丸出しで、五人は写真をカメラや携帯電話で撮っている。
「ニューヨークに来たって感じがするな」
「夜にも来たいな」
「そうだね」
初めて降り立った地で、テンションの高めな彼らに時差ボケも、長時間のフライトの疲れも、関係ないようだ。
事前に調べていた通り、朝は教会でゴスペル。夜は予めチケットを取っておいたミュージカル等、大体の予定は修学旅行風に決めていたが、宿泊先を選んだのには理由があった。利便性は勿論だが、セントラルパークが近いからだ。彼らはパーク内で路上演奏するつもりで、ニューヨークを選んでいたのだ。
「そろそろ、グランドセントラルステーションで買い出しと、オイスターバーに行くだろ?」
「わーい! 楽しみ」
「歩くと遠いな、メトロに乗って行くか?」
「そうだな、ちょうど駅あるし」
「あぁー」
water(s)のデビューから三年以上経った今、五人で行動する時の交通手段は、車やタクシーが殆どになってるから、普通にみんなで電車に乗ったりとか……そんな些細な事ですら楽しいし、違う国に来たんだって実感する。
彼らにとって、誰も自分達の事を知らない状況は居心地が良かったのだろう。周囲を気にせず、駅のメインコンコースに描かれた星座を眺めていた。
「ーーーー綺麗……」
「奏、ぶつかるぞ?」
和也が天井を見上げながら歩く、彼女の手を引く。
「ありがとう」
「ん、迷子にならないようにな」
「ならないよー」
そう反論する奏もまた、その手を離す気はないのだろう。二人は手を繋いだまま歩いていった。
ーーーーgod spell、神の言葉。
元々はgood spell、福音が語源と言われているゴスペル。
日曜日の朝十時から、神聖な宗教的儀式が始まっていた。
早起きしたけど、席が遠いのは仕方ない。
観光客だから、二階の最前列で見学させて貰ってるだけでも、いいと思わないと……
教会で反響して聴こえてくる声に、彼女は耳をすませていた。
…………こういう時、改めて思う。
人の声が……一番の楽器なんじゃないかって……
彼女はこの後に計画している路上演奏に、既に気持ちが向いていたのだ。
今日のwater(s)はいつもとは違う編成。
自分達で持ってこれる楽器には、制限があるから。
それでも…………もう、鳴ってるの……
奏と和也のギターに、圭介はヴァイオリン、明宏はチェロ、大翔はサクソフォンを持って、セントラルパークに向かった。プライベートな旅行の為、マイク等の機材は一切ない。その身と楽器が一つだけだ。
「ローブボートハウスは、結構弾いてる人いるなー」
「屋根の下の方が反響がいいから、使いたかったけど仕方ないか……どうする、kei?」
「今日は日曜で人が多いから、聴いてもらうにはチャンスでしょ? さっき見つけた木陰のスペースで演ろうか?」
「うん!」 「了解」
空のギターケースを前に置くと、奏のギターに合わせ、和也のギターと明宏のチェロが曲を弾き始めた。
圭介と大翔はビデオカメラや携帯電話で、その様子を収めている。
彼女は思いきり声を出していた。
ーーーー誰も私達を知らない。
思えば、こんな状況で歌うのは初めて……私がhanaになった時、既にwater(s)の歌を聴いてくれている人達がいたから…………
ボーカルが私になっても、聴いてくれていたのはwater(s)をすきな人が多かったからだって……ちゃんと分かってる。
ーーーーどうか届いて……聴いてほしいの。
これが……今のwater(s)の音楽。
「ーーーー人が……集まってきたな」
「そうだな。次はmiyaとチェンジで、僕とhiroだな」
「うん! 何か想い出すな……」
一曲弾き終わると、彼らのいる木陰に集まるように拍手が起こる。
「カメラ、変わるよ」
和也がビデオカメラの前に立つと、彼女はアカペラで歌い始めた。その声に続くように明宏のチェロに、圭介のヴァイオリン、大翔のサクソフォンと音色が重なっていく。
「ーーーー本当、上手くなったな……」
英詞でも彼の心に、すんなりと言葉が入っていく。ビデオカメラで映像を録画しながら、彼女の歌声に惹かれていく和也の姿があった。
「お疲れー」 「お疲れさまー」
彼らはペットボトルの飲み物で乾杯をしていた。
「ちょっと良い夕飯が食べれそうだな」
「やったな!」
ハイタッチをし合える結果だ。空だったギターケースには、チップが投げられていた。
「hana、どうした?」
「ううん……楽しかったなぁーって、思って」
「また演ろうな。次はワシントンスクエアーパークとか」
「うん……楽しみだね」
彼の希望に満ちたような横顔を見つめていた。
ーーーー音楽は世界共通…………最初は英語の歌詞の曲で、人を惹きつける為に選曲したけど……最後は日本語で歌った曲でも、拍手やエールを送ってくれる人達がいた。
近距離だと、ダイレクトに曲の反応が分かる。
最初は子供が弾いてるって思われてたし……それにしても…………
彼らに視線を向けると、楽しそうな笑みを浮かべていた。
みんな……すごいな…………話しかけられても、躊躇なく応えて、ちゃっかり宣伝までしてたし、名刺代わりの手書きのカードを持っていってくれる人も多かった。
みんなの背中がより大きく感じる……
「hana、行くよー!」
「うん!」
和也に呼ばれ、考え事をしていた為メンバーから遅れていた事に気づく。彼らの元へと駆け出していく彼女の背中には、ギターが背負われていた。
ブルックリンブリッジは、朝はニューヨーカーの利用が殆どだから、観光客は少ないみたい。
五人は昼前には橋を渡り、ブルックリンブリッジパークから先程まで歩いてきた橋を眺めていた。
バスキングもだけど、ニューヨーク観光も余す事なく満喫していると思う。
自由の女神も見たし、メトロポリタン美術館にも行った。
今も五人揃って、写真を撮って貰ってるし……限られた時間の中で、出来る事は何でもしたいから…………時間が経つのが、早く感じるの。
今回だけに限った事じゃなくて……water(s)でいる時は、特に…………
バスキングを終えると、ドレスアップした服装に着替えた。
カーネギーホールの壇上では、オーケストラの演奏が行われている。クラシックコンサートを鑑賞しに来ていた。
ーーーーここは、音楽史の中でも偉大な音楽家だけが、演奏してきた場所。
音響がいいとされてるけど、本当に残響が程よくあっていい音響…………
いつか……ここで、演奏する事が出来たら素敵な事だよね。
今はまだ……遠い夢だけど……いつか……
ステージを見つめる瞳は、輝きで満ちている。
新しい音に触れる度、生の音を聴く度……想いは増していくばかり……今も…………
その日の一日の終わりには、毎日のように大翔の部屋に集まり、演奏を編集したものを杉本にメールで送っていた。大翔の部屋というのは、お酒を飲んだ場合の配慮である。そこが日本であろうと、アメリカであろうと変わる事はない。
「じゃあ、明日はお土産買うからチェルシーマーケットとメイシーズとかか?」
「はーい、フィッシュエディ行った時のハンバーガーが食べたい!」
「あぁー、俺もまた食べたい」
「じゃあ、そこも行こうな」
「hiroは起きないな……」
「明日、僕が起こしとくからいいよ。もう寝かせとこう」
奏以外のメンバーはお酒を飲んでいた為、大翔を除く三人はほろ酔い加減で客室に戻っていく。
「……奏、ちょっといい?」
「うん、いいよー、お茶いれる?」
「いや……」
特別に意識する事なく部屋に入ると、距離が近づき音を立てる。優しく触れる手に視線が彷徨う。
「和也……」
「……記念にな」
彼女の手には、ブレスレットがつけられていた。
「ーーーーありがとう……」
緩む頬に手が伸びれば、二人の唇が重なっていた。
「ーーーー明日でラストか……」
「……うん、早かったね」
「あぁー、明日も早いからな……」
「うん……」
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
扉が音を立てて閉まると、左手にあるブレスレットに唇を寄せていた。
ーーーーまだ……残ってる……
この数日……手を繋いで歩いて、みんなと演奏できて……幸せだった。
ずっと繋いでいられない事も、隣にいる事が難しい事も……分かってるけど…………また眠れそうにない。
明日が待ち遠しくて眠れないとか……何度目になるんだろう。
御守り代わりのブレスレットを付けたまま、ベットに横になっていたが、目は冴えている。鼻歌のように口ずさみながら、そっと瞼を閉じれば、脳裏には五人で奏でた音が響いていた。
旅行最終日の朝、 七度目になる公園での路上演奏を行なっていた。初日の反省を生かし、屋根のある場所で演奏している為、音の響きが良い。彼らの他にもコントラバス等の弦楽器の演奏者が数名いる中、彼女は晴れた空を見上げ、歌っていた。
機材も何もない場所でも、みんなと奏でられるなら、それだけでステージに変わる。
初日よりも多くの人が、聴いてくれてるのが嬉しくて…………少しでも届いたんだって、実感するの。
また……五人で来たい。
その時は、もっと奏でられるように……もっと……歌い続けていられるように……
「Their performance is wonderful!」
「Oh really」
「I want to hear her song……」
この一週間程で、water(s)のファンが出来ていた。そう言った彼の手には、動画サイトのURLが手書きされたカードが握られている。
彼女がお辞儀をすると、温かな拍手と歓声が響いていた。




