第5話 夢見草
奏は緊張感に包まれていた。メンバー全員が揃う中で、先日録ったばかりの曲が流れているからだ。
大学生も夏季休暇になり、今日からは大学の練習室に集まっていた。
iPadから曲が止まると、初見の三人は高揚感が滲んだような表情を浮かべていた。
「ーーーー奏の作詞で、二人の作曲か……」
リーダーの圭介に続いて、明宏と大翔が応える。
「完成度、高いなー」
「うん、アコースティックは原曲のままでいいんじゃないか?」
予想以上の高評価に、奏は和也と顔を見合わせハイタッチを交わす。二人の中では一番の出来だと思っていても、メンバーに聴いてもらうまでは落ち着かなかったようだ。
「さすが和也だね!」
「やったな!」
「うん!」
二人の距離の近さに、彼らは短期間で随分親しくなったと感じていると、和也が紙を差し出した。
「これが通常バージョンの"夢見草"。俺と奏でここまで仕上げたけど、残りは五人でアレンジしたい」
渡された楽譜はほぼ仕上がっていたが、本人達に納得がいかない部分があるのだろう。和也の性格をよく分かっているメンバーだからこそ、その声に応え、各々が意見を出し合い一つの曲に仕上げていく。
その過程を間近で見ていた奏は、改めて凄い人達と一緒に音楽を作っていると実感していた。目の前で飛び交う会話や音色は、音大生らしさがありながらも、真新しいモノばかりであった。
この日、初めて五人で仕上げた曲が、これからのwater(s)の世界を広げる事になるとはーーーーまだ誰も知らない。
ただ、その予感だけは和也にはあった。
"夢見草"には、奏のバンドに対する想いが込められた春に似合う曲だったからだ。
「ーーーー"夢見草"か……」
「kei、どうかしたのか?」
楽器の調整をしていた手が思わず止まる。
「いや……さすが、miyaが見つけてきただけあるなって思ってさ」
初見の驚きから、大翔も明宏も大きく頷く。
「確かにな……hanaって、コンクール優勝経験者だったんだろ?」
「そうだな。小さい頃から出てたらしいから、ピアノでは名前が通ってる子だったな」
「miyaはコンクールとか出てないから、クラシックでは無名だったけど、また対象的な子を見つけてきたよなー。それにあれだけ弾けて、声も魅力的なんて羨ましい限りだしなー」
「akiの言う通りだな。本当、いい声してるよな」
「そうだな。miyaが惚れるはずだよな」
「えっ?! miyaが!?」
「hiro、驚きすぎじゃない? keiの言う事は一理あるだろ? あいつが惹かれるって、稀な事だし」
「まぁー、そうか……」
彼らがwater(s)として活動するようになって、一年以上が経っていた。
四人でバンドを組んでもボーカルだけが不在だった為、言い出した和也が代役という形で今まで歌っていたのだ。
彼は歌いながら、ずっと探していた。理想的な声の持ち主を。
和也が惹かれない理由はなかったのだ。
「でしょ? でも、miyaがどう想ってるかは知らないけどな」
「あぁー、そう言う浮いた話、聞いた事ないし」
男三人でそんな話をしながらも、スタジオの準備を整えると、夏休みの終わりにseasonsでライブをする際に販売するCDの収録を一足先に始めるのだった。
スタジオで録るって、話だったんだけど……
一歩前を歩く彼は楽しげだが、集合場所に行く道ではないと、さすがの奏も気づいたようだ。
「ねぇー、和也! レコーディングスタジオに行くんでしょ?」
手を引かれたまま、足早に歩く和也を追いかける。彼の背中にはギターケースが背負われていた。
「勿論行くけど、その前に奏と行きたい所があるんだよ」
「行きたい所?」
和也が振り向いて微笑むと、そのまま何も告げずに奏を連れていった。二人は当たり前のように、手を繋いだままだ。
ーーーーーーーー握られた手が熱い。
和也の手は……奏者の手だ…………
そんな事を感じていると、大型の楽器店に着いた。
エントランスには、スタインウェイ&サンズのグランドピアノが置かれている。
「ーーーー久しぶりに来た……」
思わず漏らした奏に、和也は微笑み、店員に声をかけて試弾きをさせて貰う事になった。
てっきり和也が弾くのだと思っていたが、椅子に腰掛けるように促される。
「えっ? 私??」
「そうだよ? スタジオで弾く前の練習って事で」
練習と言われたら、断れないじゃない。
根が真面目な彼女に弾かない選択肢はない。
奏は深く息を吐き出すと、"夢見草"を弾き始めた。
楽譜は手元に置かれていない為、暗譜しているようだが、その事に対する和也の驚きはない。数回弾いただけで、ほとんど手元を、楽譜を見ずに弾ける事は、今までの練習で分かっていたからだ。
彼女が奏でる音色は色づいたように鮮やかで、周囲の人を立ち止まらせる魅力があった。それは和也の想像以上である。
「ーーーー何の曲だろう?」
「分かんないけど、素敵な曲だね」
「若手のピアニストとか?」
「上手いな」 「よく指が動くなーー」
「うん……」
奏には周囲の喧騒は聞こえていなかったが、和也には聴衆の声が届いていた。
彼女を好評価する人ばかりの中で、和也は彼女の実力はこんなモノじゃないと感じながらも、嬉しくもあった。ピアノの音色だけで、これだけの人を惹きつけるのだと。
音色に惹かれるように、立ち止まる人が増えていく。エントランスには、いつの間にか人だかりが出来ていた。
鍵盤から指先が離れると拍手が響く。
ーーーーえっ……いつの間に…………
多数の人々から送られる拍手に、我に返った奏の手は驚く間もなく握られていた。
和也はそのまま彼女を連れ、楽器店を出ようとしたが呼び止める人がいた。
「き、君たち! ちょっと待って!! 今の曲はオリジナルかい?!」
揃って振り返れば、二十代後半位に見えるスーツ姿の男性が慌てた様子で追いかけてきた。
「…………はい、オリジナル曲です」
代わりに応える和也に、彼は続けて尋ねる。
「もしかして、どこかに所属してる?! 演奏者として興味はないかな? もしあったら……」
そう言って差し出された名刺を和也が受け取ると、一言だけ残す。
「ーーーーseasonsでライブをするので、興味があるなら聴きにいらして下さい」
一回り近く歳の離れているであろう少年に、挑発的に言われたが、彼は引き下がる訳にはいかなかったようだ。
「ーーーーっ、君たち名前は?!」
その場で名乗る事はせず、seasonsのショップカードを和也が手渡すと、二人はレコーディングスタジオに急ぐのだった。
「ちょっ……和也??」
耳元で聞こえる彼女の声には、応える気がないのだろう。先ほどよりも歩幅は大きいが、手を離す気もないようだ。
握られた手に……力がこもってるのが分かる…………どうしたのかな?
その横顔は、楽器店に向かう時と同じく何処か楽しそうなままであった。
「かーずーやー!」
いつも穏やかな圭介にしては珍しい口調だ。
「kei、遅くなった」
「そうじゃない! SNS見たか?! 誰かが動画を勝手にアップしてるぞ?!」
「まぁー、いいじゃん。夏休みだし」
「そう言う問題じゃない……」
半ば諦め気味になりながら、携帯画面を二人に見せると、そこには奏が弾く姿を楽しそうに眺めているであろう和也が、顔は入っていないものの映っていた。
「未発表曲かー。宣伝にはなるかもなー」
「akiは相変わらずだな」
「だって、hiroもkeiも多少こうなる事は、予想してただろ?」
「まぁー、それはな……」
その会話で、楽器店で弾く事は最初から決まっていたのだと奏も気づく。
「…………もしかして、初めてのレコーディングだから?」
その疑問に応えたのは、隣にいる和也だ。
「勿論、リラックスして欲しいってのもあるけど…………あのピアノで弾いてる所を見たかったのが、一番の理由かな」
彼がiPadで録画したピアノの音色を再生すると、周囲の雑音も微かに入っているが、奏が弾く音色は綺麗な旋律のままで響く。
「あーー、あのピアノいいよなー」
思わず本音が溢れる和也に、圭介が冷静に応える。
「water(s)が売れればな」
「果てしない……」
「いつか専用のレコーディングスタジオ作るのが夢だろ?」
「そうだけどさぁー」
明宏に肯定するも、音に対する拘りが強い為、スタジオにあるピアノを見ては溜め息が漏れる。
量産型のグランドピアノとはいえ、高額な物に変わりはないが、そこが彼らしさだろう。それだけでは物足りないようだ。
「弾き手によって変わるから、いいんじゃないか?」
大翔も明宏も頷いて応えると、和也は奏へ視線を移した。彼もまた、彼女の演奏技術なら許容範囲だったのだろう。
「…………そうだな」
甘く優しい笑みを浮かべる和也に、大翔は収録前の話を思い出す。和也の表情から、彼女の音だけでなく、彼女自身にも惹かれている事は明らかだったからだ。
「じゃあ、奏の歌録り始めようか」
圭介の声かけに応え、ブースに入っていく奏の背中に触れる手があった。和也が優しく触れていたのだ。
ーーーーーーーーいつも通り歌えばいいと、促された気がした。
いつも……勇気をもらっているの。
初めて歌った時も、そうだった…………
奏はヘッドホンをつけ、コンデンサーマイクの前に立つと、メロディーと共に歌い出す。
ブース越しに見る彼女の歌声は、声量があるだけでなく、ただ単純に心に響く。
「……これで……今まで、ボイトレしてないとか詐欺だよな」
「あぁー、本当、いい声してるよなー」
大翔に続き、明宏が溢した言葉に、圭介も和也も大きく頷いていた。
「ーーーーーーーーすきだな……」
本音が溢れた言葉は、小さすぎて周囲に届く事はなかったが、その表情には気づいていた。和也が奏を見つめる横顔は、ただ恋をしている少年のようだったからだ。
予定通り収録を終えた奏は、先程まで堂々と歌っていた同一人物とは思えない表情を浮かべている。
「…………緊張したぁー……」
「お疲れー」
「和也、ありがとう……」
手渡されたペットボトルを受け取ると、安心したような表情を浮かべ、勢いよく飲み干した。
何気なく触れ合った手が熱くなり、すぐに頬の熱も引きそうにない。
ーーーーーーーー音が違う……音色に深みがあるの。
ブースの中では、既に和也がギターを弾いている。
難しい手法は分からないけど……和也の高いテクニックも、その音色も、他とは違う。
それはkeiも、akiも、hiroも、同じだけど…………みんな、専攻楽器も弾けるのに、バンドの楽器も弾けるなんて…………
keiは普段はヴァイオリンで、今はギター
akiはチェロで、ドラム
hiroはサクソフォンで、ベース…………
みんな、ピアノも弾けるし、大学でも優秀みたいだし。
私がここにいること自体が、不思議な感じで…………"夢見草"は、理想の私なの。
叶わない夢はないって、思えるような強い心を持ちたい。
和也の……miyaの奏でる音色は、いつだって心の奥に響くから…………泣きそうなくらいに……
レコーディングが終わると、ハイタッチを交わしていた。
「お疲れー!」
「お疲れさまー!」
奏と和也は、その勢いのまま手を取り合っていた。
「聴いてみるか?」
『うん!!』
圭介に揃って応える姿に、二人からも笑みが溢れる。
ーーーー夢が……形になった気がした……
泣きそうなくらい胸に響く。
五人の音が重なっているんだ…………
彼らも同じ気持ちなのだろう。流れ出る曲を感動した面持ちで聴いていた。
今の自分達に出来る最高の仕上がりに、ライブ本番を目前に控え、早る気持ちを抑えているようだった。