第37話 レッスン
ピアノのレッスンは基本的に個人レッスンの為、二台のグランドピアノが置かれた教室での授業だ。奏は担当講師の前で実技試験の曲を弾いていた。
マンツーマンのレッスンって、あっという間に時間が過ぎちゃう。
もっと、ずっと教わっていられたらいいのに…………
弾いても、弾いても、弾き足りないのだろう。彼女の感じている通り、すぐにレッスンが終わると講師の橘が話しかけた。
「上原さんは、コンクールに出てみる気はない?」
「……コンクール、ですか?」
そう言って橘から一枚の用紙を受け取ると、彼女は講師から募集案内に視線を移した。
「ちなみにだけど、これ……宮前くんも出てたわよ」
「えっ?!」
「一年先輩なんだから、聞いてみるといいわ。良い返事を期待してるわね」
「はい……」
奏は教室を出ると、さっそく和也に連絡を取った。
コンクールに出てたなんて、知らなかった…………
和也に……聞いてみたい……
授業を終えた和也は、カフェテリアでヘッドホンをつけ、作曲していた。二限目と三限目の間の五十分の昼休みは、ピアノ専攻の友人や高校からの友人と、昼食を取り休んでいる事が多いが、一日の授業が終わった後は練習室でギターやピアノの練習か、カフェテリアで作曲している事が多い。それもバンドの活動がなければの話だが。
「ーーーー奏? うん、カフェテリアにいるよ」
彼女からの電話に応えると、一息いれるべく空になったグラスを返却し、飲み物を注文していた。
「miya!」
「hana、お疲れ。何か飲む?」
「お疲れさまー。じゃあ、レモンスカッシュで」
「了解。持ってくから、あそこに座ってて」
そう言って和也は、先程まで座っていた席を指差した。
奏が席に着くと、ヘッドホンやiPadの他にいくつかのメモ用紙にギターケースが置いてあり、描きかけの曲がある事が分かる。
「hana、さっきの話でしょ?」
「うん」
二人は四人がけの席に並んで腰掛け、話を続けた。
「一年の時にコンクールに出てたの?」
「あぁー、初めて出たやつだな。hanaはジュニアのコンクールとかに出てただろ?」
「うん、高一までは出てたかな……ピアノの個人レッスンしてた先生の意向もあって」
「俺は今まで、そういうの出た事なかったんだけど、hanaのピアノを聴いて興味があったんだよ」
「興味?」
「あぁー……自分が何処まで弾けるのか、どの辺にいるのかとか……度胸試しみたいな所もあったな」
「そうだったんだ……」
「hanaは出てみたい?」
「……コンクールって、ピアニストになる為の登竜門みたいな所があるでしょ? だから、出る気はなかったけど……」
「やってみたい?」
「うん……何処までできるか、確かめてみたい……miyaだけじゃなくて、keiもakiもhiroもコンクールで優勝する程の実力の持ち主なのに、それぞれバンドの楽器も上手いんだもん」
「hanaもだいぶギター上手くなったと思うけど?」
「ありがとう…………でも理想は、miyaとkeiみたいな音だから……ピアノみたく、少しは手に馴染んできた感覚はあるけど……」
優しく頭を撫でられているが、特別な事ではない。ただ周囲にとっては貴重なオフショットだ。
「hanaはさー……本当、音楽がすきだよな」
「うん……でも、それはmiyaもでしょ?」
「まぁー、そうだな。hanaの歌う曲を作るのは、いつもやり甲斐があるな」
ストレートな言葉に頬を赤らめる。ここが学校のカフェテリアでなかったなら、もっと話を進める所だが、和也がここまでに留めた。抱きしめそうになってしまうからだ。
「この曲、途中までだけど……どう?」
彼のベッドホンから、歩くようなテンポの優しい音色が聴こえてきた。
「久々のアンダンテだー」
「そう。バラード曲だから、ヴァイオリンとチェロは必須だな」
「うん、すき……」
奏はヘッドホンをつけたまま応えていた。
綺麗な旋律に、耳心地のいい音色。
私だったら…………
自然と口ずさんでいたが、和也が口元に手をやり、二小節分で留める。
「あっ…ごめん……」
「ふっ……いいけど、移動するか?」
「うん……」
二人は周囲にまだ人がいた事に気づき、和也は笑いを堪えるような仕草をしながら、奏の手を引きカフェテリアを急いで後にした。
練習室に着くなり、奏は腕の中だ。
「miya?」
「ーーーー奏は、すごいよな……」
「笑ってるよー!」
先程歌い出した彼女が残っているのだろう。その表情は、にやけたままだ。
「ここでなら、思う存分に歌えるよ?」
「うっ……そうだけど……」
そんなに……楽しそうな顔を向けられたら、何も言えなくなるよ……
「奏もギターあるなら、一緒に演る?」
「うん!」
即答する彼女に、また頬は緩んでいく。二人の絶妙なハーモニーが練習室に響いていた。
みんなと……ずっと演奏していられる私で在りたい。
耳に残るギターの音色に惹かれながらも、奏はコンクールの曲を自宅のピアノで練習していた。
コンクールは、楽譜をどれだけ忠実にミスなく弾けるかが重要だから……久しぶりの感覚。
ジュニアコンクールに出場してた頃は、毎回この緊張感と戦ってたんだよね。
ずっと前の事のような気がする。
water(s)で……hanaとして、ステージに立つ時とは違う。
みんながいるから、心強く感じて緊張感も薄れていたんだ…………不安を拭うには、練習するしかないから……
彼女の部屋から珍しく歌声がなくなっていた。ピアノの音色だけが響いていたのだ。
二回の予選を経て、本選は八月下旬に行われる為、彼女は二度目の公開予選を一週間後に控えていた。
今回のコンクール優勝者は、一月にオケとの共演と、優勝から五年の間に一度だけ小ホールを無料で貸し出す事が許されてるんだよね。
コンクールによっては、賞金が出るようなものもあるけど…………和也がオケと共演する所、見たかったな。
「ーーーー会いたい……」
溢れた言葉に首を横に振る仕草をすると、また鍵盤に触れていく。繰り返される音色はさらに滑らかに動き、情景を映し出す。
みんなで、ライブが出来るといいな…………最後まで……弾いていられる私でいたい。
滑らかに動く指先に、微かに笑みを浮かべた。
やっぱり……ギターは、ほど遠い…………ギターの練習もしたいけど、しばらくはピアノに集中しないと。
気持ちを引き締めた彼女は、またピアノに没頭していくのであった。
和也は昨年優勝した為、一月にオーケストラとの共演を果たしていたが、それをwater(s)のメンバーに告げた事はなかった。奏に話した通り、度胸試しだった事と、オーケストラではなく、自分の作りたい曲はwater(s)の中にあると、改めて感じたからだ。
ただ和也は言わなかったが、同じ大学に通っていた奏以外のメンバーには分かっていた。度胸試しと言いつつ、腕試しだった事。奏のピアノの腕前を知っているからこそ、何処まで自分が出来るか試してみたかった事を。
「奏は練習してるんだろうな……」
和也は自室で曲を仕上げながら、彼女の事を想っていた。
奏のピアノは高校の頃から知ってるけど、大学に入って、また上手くなった気がする。
やばいなー……会いたい。
同じ大学でも学年が違うから毎日会える訳じゃないし、でもコンクールが終わるまでは我慢だな。
俺もコンサート……小ホールが使えるから、奏が優勝したらwater(s)でクラシック風のステージを二日間続けて演るのもいいかもな……
音楽第一主義の和也は、自身が出場した時よりも彼女が優勝すると確信していたのだ。
彼の思った通り、予選二回目も順当に勝ち進む奏がいた。
ステージ上とは違い、息を吐き出した彼女は安堵した表情を浮かべている。
ーーーーーーーー次で……ようやく本選…………和也は、これを乗り越えてきたんだよね。
私も続きたい……少しでもいいから、近づきたいの……
手の震えを抑えるような仕草をする彼女の瞳は、強い光を宿しているかのようだった。
 




