第15話 桜咲く季節に
後期終業式を終え、奏はseasonsで行うデビューライブの練習に励む日々を過ごしていた。
「ーーーー早いね……」
「うん……そうだな……」
窓の外はすっかりと日が落ちているが、早さはそれだけではない。明日がライブ本番だからだ。
最終リハーサルを前に、奏は和也と日課のように練習していたが、場所は今までとは変わりスタジオだ。この数ヶ月で収録や練習で幾度となく訪れている為、スタジオ自体には慣れつつあるが、気持ちまではそうはいかない。
「……まだ不安なのか?」
「…………うん……」
デビューライブはseasonsのいつも通りのワンドリンク制で、チケットの前売りなんてしないから、告知はしていても人が集まるか不安が過ぎる。
みんなで演った時は、人が集まっていたけど…………基本的には、お客さんが疎らな事の方が当たり前みたいだから……
「ーーーー奏」
下がっていた視線を上げれば、彼の顔が間近にある。唇の触れそうな距離に頬は真っ赤だ。
「…………か、和也」
「大丈夫。奏のうた……すきだよ……」
「うん……」
触れた額から……熱が伝わっていくみたい…………
頬に触れる手に瞼を閉じると、そっと唇が重なる。
柔らかな感触が離れ、視線の合った彼は、優しい笑みを浮かべていた。
「…………和也、ありがとう」
「うん……楽しみでしょ?」
「……うん」
楽しみ……そう、楽しみで…………プレッシャーは感じていなかった。
だけど、前日になって……急に不安が押し寄せてきて……本当は、ずっと心の何処かで感じていたの。
ーーーーーーーー私のうたで本当にいいの?
奏の中にあった懸念だ。water(s)のボーカルは彼女以外あり得ないのだが、当の本人は未だに信じられずにいた。
自信は練習をする事でついていったが、すべてをカバー出来るほどには到らなかったようだ。
微笑みながらも、まだ不安げに瞳が揺れる。
「俺は、奏のうたが……ピアノが、楽しみで仕方がないよ」
まっすぐに向けられる瞳に、覚悟が決まっていく瞬間だ。
「ーーーーうん……和也、見ててね……」
「うん……楽しみだな」
「うん!」
強がって応えた声色に、また唇が寄せられる。
「ん、奏……どうかした?」
「…………和也は……優しいね」
「そう?」
「そうだよ……今日だって…………」
いくら鈍感な彼女でも、ライブ前日の練習が二人きりな事を疑問に思わなかった訳ではない。
「バレてたか……」
照れたように笑う彼に、思わず抱きつく。
「…………役得だな」
「もう……」
SNSで、デビューライブがある事を呼びかけてはいるけど…………どのくらいの人が聴きに来てくれるかは、時間になってみないと分からない。
ネット配信でそこそこの知名度があるみたいだけど、世間的には無名に等しいから……会場が空っぽだったら、どうしよう……とか感じていると、大抵みんなに笑われてしまった。
空っぽな会場は、誰も想像がつかないみたい。
みんなだけじゃなくて、スギさんや佐々木さんにも笑われていたから…………会場が満員になる事しか考えていないみたいで……だからこそ、怖くなっていったけど……
「……和也、ありがとう……」
柔らかな髪に触れていた手が止まる。まっすぐに向けられた視線が、ステージで歌う時のようだ。
ーーーーーーーー信じてる。
今までの練習も、みんなの音色も……私も、私のうたを信じたいから……
「奏……楽しみでしょ?」
「うん!」
声色が戻り、唇が触れ合う。
一瞬で離れていったにも関わらず、真っ赤に染まる彼女に、したり顔の彼だ。
「奏、行こう?」
「…………うん」
何事もなかったかのように手を差し出され、素直に握り返す。付き合う前とは違う繋ぎ方に頬が緩む。
「ーーーーーーーー無自覚か……」
「えっ?」
「んーー、待ち遠しいなって思ってさ」
「うん」
嬉しそうな横顔に勇気を貰っていたのは和也の方だろう。何の躊躇いもなく握り返された手が熱を帯びていくようだった。
動画の再生数も伸びてるみたいだけど、私のうたで本当にいいの? と、何度も思ってた。
和也といつもみたいに練習していなかったら、今も疑っていたのかもしれない……
「みんな、ありがとう……」
リハーサルを無事に終え、奏の緊張感は薄れていた。
「いつものhanaだな」
「あぁー」
「いよいよだな……」
「うん……楽しみでしょ?」
「うん!」
小さな舞台に、音響がさほど良くないステージだったとしても、私たちにとっては…………初めて、water(s)五人で単独ライブをした想い入れの強い場所。
ここまで辿り着く事ができたのは、みんながいたから……
頷いて応えると、圭介の合図で円陣を組み、重ね合わせた右手を掲げる。
「行くぞ!」
『おーー!!』
いつものように圭介の明るい声からライブが始まった。
「こんばんはー! water(s)です! 本日はデビューライブに来て下さって、ありがとうございます! 自己紹介は後ほど、それでは聴いて下さい……」
明宏のドラムスティックの音を合図に、音が重なる。ステージ中央で歌う奏は、一番光るスポットライトを目指していた。
背中から感じる彼らの音に身を委ねるように歌い上げる彼女に、昨日まであった緊張の色はない。
ーーーーーーーー覚悟は決まってたんだ。
発声練習の成果か、最初の一音から完璧な声が出ている事が自身にも分かる。
会場が満員になっているのが、嬉しくて……泣きそうになるくらい鳴って…………私……本当にステージに立ってるんだ。
この曲が、一人でも多くの人に届くように……
杉本は、そんな彼らの様子をネットにアップするべく動画を撮っている。
専用のアカウント動画は、今では杉本が管理している為、練習風景や撮影映像等、日々の出来事が更新されていた。更新される度、再生数が伸びている事もあり、彼女以外のメンバーは誰一人として空っぽの会場を想い描けなかったのだ。
弾き語りをする彼女の多彩な音色に歓声が上がり、会場をwater(s)の色に染める。
いつものようにカウンター席で様子を見ていた春江は、念願叶った彼らの門出を、子供を見守るように眺めていた。
「ーーーーいい音ね……」
「はい……今までで一番、観客が盛り上がってる気がします」
「そうね……記録更新ね……」
「はい……」
バーテンダーの彼がそう応えると、春江は嬉しそうな笑みを浮かべ、音の世界に耳を傾けた。初めて五人がこのステージに立った日を想い返しながら。
「ーーーーそれでは、最後の曲になります。"終わりなき空へ"……」
五人で作り上げた歌詞とアレンジ。
デビュー曲だからこそ、みんなの想い入れも一際強くて……どうか届いて……これが、water(s)の音楽…………
彼女の想いは届いていたのだろう。春江の瞳から涙が溢れていた。彼女だけでなく、唯一無二の歌声に感情を揺さぶられた観客が何人いた事だろう。溢れる涙を止める術はなく、すすり泣く声が聞こえていた。
「これから、益々忙しくなるな……」
杉本が口にした言葉は正しく、新参者の彼らの曲が遠くない未来に音楽チャートを席巻する事になる。それは予想ではなく確信だった。
誰もいないステージにアンコールの声が響くと、奏はその声に、歓声に、泣き出しそうだ。
「hana、行けるか?」
「……うん」
和也の気遣う声に、雫を拭って応えると、再びステージに五人が揃う。
姿を見ただけで歓声が上がり、観客の期待が高まる。
「ーーーーでは、アンコールにお応えして一曲だけ……"バイバイ"」
…………違う自分になる為の曲。
和也が作った曲は、どれも新しくて、心地がよくて……思わず口ずさみたくなるの。
決別ではなく、次のステージへ行く為に作った曲を奏でる彼らに、惜しみない拍手と歓声が送られていた。
ーーーーーーーー私……この日のこと、一生忘れない……
奏がそう思うのも無理はない。単独ライブをした事は今までにもあったが、SNSだけでなくラジオの宣伝効果もあってか、今までとは比べものにならない程の体験をしていた。
今も鳴り止まない歓声が響いている。
涙が溢れ出す奏の頭に、フェイスタオルが被せられた。
「…………楽しかったな」
「うん……」
和也が抱き寄せると、潤んだ瞳が微笑む。
抱きしめた手に力が込められ、二人を包み込むように圭介、明宏、大翔の三人が肩を組み、喜び合う。五人の中心で涙を拭って笑う彼女は、心の底から楽しんでいるようだった。
そんな彼らの姿に、音楽においては大人びて見える五人が、年相応の少年少女として杉本に映っていた。
桜の咲き始めたばかりの季節、water(s)はプロへの一歩を踏み出した。
観客の出払った会場には、water(s)にスタッフ、春江たちseasonsの従業員も加わり、打ち上げが行われている。そんな中、杉本は先程撮った映像を和也と共に編集し、動画をアップしていた。
「顔は映ってないけど、hanaが楽しそうにしてるのが分かるでしょ?」
「ーーーーうん……楽しかった……」
…………夢みたいな時間だった。
たくさんの人が私たちの……water(s)を待っていてくれたって思うと……
潤んだ瞳に手が伸びる。
……私……また、泣いてたんだ…………和也の手で、はじめて気づいた……
「hana、頑張ったな……」
「……うん…………」
「これからが楽しみだな」
「kei……そうだね……」
「カラオケも行かないとなー」
「うん、aki……」
「hanaの声に釣られたな……」
「hiro、そうなの?」
「そうだよ。だろ? miya」
「うん、hanaがあってのwater(s)だからな!」
「ーーーーうん……ありがとう……」
目元を拭う彼女から溢れる涙は、嬉しさからだろう。キラキラと輝く瞳に、彼らも高揚感を滲ませたままだ。
それは、大人達のお酒の肴になっていた。眩しいくらいの光を放つ彼らから青い春の香りが漂う。
「ーーーースギ……これから化けるな……」
「そうですね……」
佐々木に応えた彼も何処か嬉しそうな表情だ。
化けるという事は、これから更に進化する事を意味していた。
レモネードで何度目かの乾杯をする中、待ち望んでいた日が訪れていた。
一時間で五十万回再生を超えたこの動画は、今も再生数が更新され続けている。