第113話 うたかたの夢
連日報道されていたwater(s)のニュースも、もう流れていない。
ーーーー最初から……なかったみたい……まるで……すべて儚い夢のように。
和也…………今の私を見たら、なんて言うかな?
彼女は彼の写真と共に、ずっと放置していた携帯電話を充電していた。活動休止から二ヶ月以上が経ち、ようやく触れる事が出来るようになったのだろう。
以前と変わらずにピアノやギターを弾くようになってはいたが、彼女が本気で歌う事も、スタジオに行く事もない。圭介達にも、あの日以来会っておらず、梨音と怜音の為だけに音に触れていた。
ーーーー緊張する……
携帯電話を起動させると、パスワードの入力画面が表示された。番号を押す手が微かに震える。
0…3…28……0420と入力すると、ロック画面は解除された。お互い同じパスワードにしていたが、彼の携帯電話に入力したのは、今日が初めてだった。
彼女は背景画面になっている写真で、すでに泣きそうである。そこには、笑顔の家族四人が写っていた。
ーーーーーーーー怖い……触れてしまったら……本当に、消えてしまいそう……
ゴクリと、喉を鳴らす音が響く。
メッセージには、七月二十六日までの夫婦のやり取りや、water(s)の五人でのやり取りだけでなく、多数の音楽に関する人との繋がりが垣間見える。写真も同様だ。ニューヨークでのJamesとのツーショットや彼女の写真が多数保存されていた。
…………圭介達は……何を見せたかったのかな?
特に気になる所は……ないけど…………
彼女がメモを開いたのは、自分がよくメモに歌詞を書く事があるからだろう。そこには、彼が残した無数の歌詞が残されていた。
「ーーーーこれ……」
彼女はすぐに動画を再生していた。
無数にある動画の中から探す事は簡単だった。なぜなら『奏』と、書かれたフォルダーがあったからだ。
震える手で再生をすると、彼の音色が聴こえてくる。彼が残した作品の一部だ。
彼女の瞳から涙が溢れ出していた。
「ふっ…ずるいよ……こんな…旋律……」
それは、彼女の為に和也が作詞作曲したモノだった。
綺麗な旋律…………高いキーを使ってる……素敵だけど、難しい曲。
でも…………water(s)なら弾ける曲……
何度も、何度も再生していた。彼の音に、ずっと触れていたいのだろう。
窓辺に座り込み、夜空を見上げながら聴いていた奏は、彼の音を感じながら深い眠りについていた。
「……痛い…」
そう呟くのも無理はない。フローリングの板張りの上で、眠っていたのだから。
彼女こ手元には、彼の携帯電話がすぐ側にあった。
ーーーーでも、身体は軽い……今なら……見れるかもしれない。
レコーディングルームに静かに入る。まだ窓の外は薄暗い時間帯だ。
ーーーー確か……和也がーー……
「あった……」
思わず独り言が多くなる彼女の手元には、彼の残した楽譜の束が握られている。
息を深く吐き出し、呼吸を整えると、その楽譜に視線を移した。
…………こんなに……たくさん…………私が作詞作曲を始めてからも……ずっと……ずっと、描きためてくれていたんだ……
携帯に残る音源だけでなく、彼は自宅のパソコンや手元にある手書きの楽譜にも、彼女の為に描いた曲を多数遺していた。
「……和也…か…和也……」
…………会いたい……私の歌う所を見ていてほしい。
聴いていてほしい……ずっと…………もう二度と……叶わない事だと、頭では分かっていても願ってしまう。
何度も……何度でも…………なんで音を……ノイズのように感じていたんだろう。
この世界は……こんなに、音で色づいて見えているのに……
彼女は、ピアノの鍵盤に迷う事なく指先を滑らせた。彼の残した曲を奏でたいのだろう。
数ヶ月振りに声も出していたが、すぐに歌声は消えていった。
「ーーーー……ひどい声……」
泣き過ぎて声が出ていないのだが、それだけではない事も分かっていた。
ーーーーまずは……歌えるようにならないと…………すべては……それから……
以前のような声が出せないのは、発声練習を、歌う事を、彼女が極力避けていたからだ。
梨音と怜音に歌う曲は、誰でも歌える簡単な曲ばかり。
楽器は弾けるようになっても、water(s)の楽曲は、あの日から一度も歌っていなかったから……自業自得だ…………でも、もう一度……会いたいから……
「……ラーラーラー」
涙を拭い、呼吸を整えると、発声練習を始めた。
窓の外では薄暗かった空は晴れ、夜が明けているのだった。
「綾ちゃん、いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
「りーちゃんとれーくんは? まだ幼稚園だっけ?」
「うん……」
まだ昼前である。今日は綾子が泊まりにきていた。泊まりと言う名の偵察でもある。理花や詩織に、彼女の様子を確認するよう頼まれてもいた。
半年ぶりに会う彼女は、まだ痩せてはいるが顔色は良いように見える。
「お昼はたこ焼きパーティーするって言ってたけど、夜はどうする? 何か食べたいものある?」
「りーちゃん達は、何が好き?」
「うーーん、二人とも食いしん坊だからね。オムライスは好きかなー」
「じゃあ、夜はオムライスにしようよ! もうすぐ二人のお迎えでしょ?」
「うん」
「あとはやっとくから、行ってきていいよ?」
「本当? じゃあ、お願いするね」
「うん、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
綾子は彼女を見送ると、先程二人で用意した具を入れ、たこ焼きを作っていく。
思っていたよりも元気そうな彼女の様子に安堵していたが、無理をしていないか心配なのは、今も変わらないようだ。
三十分程で、梨音と怜音を連れて帰った。
「あやちゃーん!!」 「わーい!」
「りーちゃん、れーくん、久しぶりだね」
『うん!』
嬉しそうな梨音と怜音に、奏はママらしく着替えて、手を洗うように促した。
「奏はママなんだよねー」
「ん? 綾ちゃん?」
「素敵なママだなーって思って」
「そうかな? ……そうだといいな」
彼女は時折、切ない表情を浮かべている。
「か…」
「ママー! おかわりー!」
「今、作るから触っちゃ駄目だよ? 火傷するからね?」
『うん!!』
二人とも奏が作る様子を静かに見守ってる。
綾子は言いかけた言葉を呑み込み、違う言葉を口にした。
「りーちゃんとれーくんは、お部屋で何して遊ぶの?」
「きょうはー、おえかき?」
「あと、テルテルぼうずつくりたいー!」
外は梅雨時期の為、雨が降っていた。
「じゃあ、ごちそうさましたら作ろうか?」
「うん! あやちゃんもつくる?」
「うん! 一緒に作ろうねー」
笑顔で昼食を終えると、部屋の中で出来る遊びを子供の頃に戻ったかのように楽しんでいた。
「りーちゃん達、寝た?」
「うん、寝たよー」
二人は寝室をそっと抜け出し、綾子が持参したワインとノンアルコールのビールで乾杯をした。
リビングの窓辺には、昼間に作ったテルテル坊主が四つ並んでいた。
「最近はどう?」
「体調はいいよー、綾ちゃんは?」
「私? 私は仕事はいつも通りだし、しんちゃんとも変わらないかなー」
「……慎二さん、いい人でよかったね」
「ありがとう……奏には、だいぶ元彼の事で心配かけたからね」
「そんな事ないよ? それに……綾ちゃんは、私を心配して来てくれてるから、お互い様だよ?」
「ーーーー奏は……そういう所、変わらないね」
「えっ?」
「優しいって事! 樋口達とは連絡取ってるの? みんなも心配してたよ?」
「うん……メッセージは来てたけど、返してない」
「珍しいね?」
「そうだね……なんて返したらいいか、分からなくて……」
ENDLESS SKYが憧れたmiyaは、和也は……もう何処にもいない。
その事実と、どう向き合っていいのか…………
言葉の詰まった彼女に、綾子は気にせずに続けた。
「エンドレはこの間、初めて首位獲得してたよね」
「そうなんだ……すごいね」
「うん……でも、私は……water(s)の……奏の歌が、一番すきだよ」
「ーーーーありがとう……」
ーーーー和也がくれた言葉と同じだ……
彼女は、ふとした瞬間に彼のことを想い出していた。
何気ない言葉、テーブルに並ぶ食器の数、広いベッド、レコーディングルームに残るギター、water(s)の音…………
その度に、涙が溢れそうになっていた。
「……綾ちゃん、今日は来てくれてありがとう」
「うん! 今度は出かけようね?」
「うん!」
今度は彼女も切ない表情ではなく、いつもの笑顔で応えていた。
『奏が、大丈夫って思えたら……見て欲しい』
『あぁー、そうだな……』
『うん……奏が見てくれるの待ってる』
『またな』
『また演ろう』じゃなかった…………わかってる。
名前で呼ばれたのも……そう圭介が言ってくれたのも、ぜんぶ私の為だって……
『hana』と呼ばれる度、miyaがここにいないんだと思い知らされていた。
ワールドツアーをやり遂げる事だけが、私と和也を繋ぐ最後の絆のようで…………その事だけが……私を突き動かしていた。
歌いたいと……ずっと歌っていたいと想う反面、もう枯れてもいいと、終わらせてもいい……と、何処かで思っていたの。
だから……倒れるまで止められなかった。
自分で自分の状態が分かっていなかったの……
『奏』と呼ばれる度、もうhanaはいない……歌えないんだって、思い知らされていた。
矛盾してるの……
彼女は、どちらにしてもすり減っていく事を止められなかったのだろう。この三ヶ月で胃炎も貧血も改善され、体は元通りに機能していた。
ーーーーようやく梨音と怜音に、自分の曲を泣かずに歌えるようになった……
ようやく……そこまでになれた……
彼女はもがきながらも、歩いていくと決めたのだ。歌っていくと。
双子を送り出した彼女は、山田指導の元で歌っていた。彼と過ごしたレコーディングルームで、彼の音を感じながら。
ゆっくりと歩き始めた奏は、彼が亡くなって一年が経とうとしている事に、ようやく気づくのだった。
七月二十六日、彼の一周忌が葬儀をした場所で行われていた。
「……本日は、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。これより、夫……和也の一周忌の法要を執り行いたく存じます」
始まりの挨拶をする奏の顔色は、以前のように戻っていた。
約四ヶ月振りに会う彼女の姿に、圭介達は安堵していた。活動休止にしたのは、間違いではなかったと実感していたからだ。
滞りなく一周忌の法要は行われ、墓地で墓参りが行わられている。彼女は、梨音と怜音と同じ視線になるようにしゃがみ、彼へと手を合わせた。その横顔に、迷いの色は見られない。
「……心ばかりではありますが、別室にて席をご用意しております。お時間の許す限り、どうぞごゆっくりなさって下さい。本日は誠にありがとうございました」
終わりの挨拶をする際も泣いていなかった。和也の為に集まってくれた仲間に、感謝している事が彼らにも伝わっていた。
お斎の際も、彼女は施主としてお酒をついで回りながら、時折笑みを浮かべている。それは、彼らが久しぶりに見る笑顔だった。
ーーーーーーーー和也………………和也の為にみんな……集まってくれたよ……
言葉を交わさなくても、彼らはその姿を見ただけで充分だったようだ。
彼女の挨拶を合図にお斎を終えると、施主である奏は見送りをしていた。
「……奏……久しぶりだな」
「ーーーーkei、aki、hiro……今日は、来てくれて…ありがとう……」
久しぶりに聞く彼女の声は、あの頃と変わっていなかったのだろう。名前を呼ばれた瞬間、泣きそうになっていた。
「ーーーー……歌いたい……」
奏はまっすぐに見つめていた。それは、彼らが待ち続けていた彼女の言葉だった。
「……おかえり!!」
「おかえり、hana……」
「おかえり……」
奏は彼らの腕の中にいた。四人は抱き合っていたのだ。
ライブの終わりのように抱き合う彼女の瞳から涙が溢れ出していた。
「ーーーーただいま……」