第10話 終わりなき空へ
定期演奏会やコンクールを終え、奏はいつものように練習室に足を運んだ。
一番乗りで着くと、さっそく鍵盤に指を滑らせ、山田に教わった通りの発声練習を実践していく。
声が……前よりも、出しやすくなってる気がする。
ボイトレの効果ってすごい…………
練習の成果を実感していると、扉が開く。奏が振り返る間もなく、背中から抱きしめられていた。
「ーーーー奏、少し充電させて……」
小さく頷くと肩に額が寄せられ、頬が染まる。
「…………和也?」
「んーー、ちょっと煮詰まってて……」
新しい……曲のことだよね。
デビュー曲は、みんなの想い入れも強いから…………和也がプレッシャーを感じていたとしても、仕方がないこと。
私にも……出来ることがあればいいのに…………
water(s)の楽曲は、miyaがほぼ一人で提供していると言っても、過言じゃないから…………
奏が遠慮がちにさらさらの黒髪を撫でる。和也の癖が移ったようだ。
「……私に出来ること、ある?」
勢いよく顔を上げた和也からまっすぐな視線が向けられる。
「ーーーー奏……うたって……」
背中の熱が離れると、手に触れられ歌うように促された。
寄り添うように座わったまま、右肩に熱を感じながら声を出す。それは、彼女のすきなwater(s)の今までの楽曲だ。
優しい歌声に包まれながら、和也は自然と瞼を閉じる。
奏の頬はピンク色に染まり、隣の熱を見れないまま、窓から見える夕暮れの空へ向けて歌った。
私の歌で…………少しでも、和也の気持ちが晴れるといいな…………そうだったら……
澄んだ歌声に、和也は眠っていた。
奏は肩に寄せられた重みで、眠っている事に気づく。先程まで合わせられなかった視線をまっすぐに向けた。
「……和也…………」
幸せそうな寝顔を愛おしそうに見つめながら続けていく。
アンダンテなリズムに変わり、奏もまた慣れない日々の疲れがあったのだろう。同じように眠りに落ちていた。
「…………奏?」
花の香りに目を覚ますと、肩にもたれ掛かりながら眠る彼女がいた。長い髪に、白い肌に視線を移し、和也はそっと頬に触れる。柔らかな感触に笑みを溢すと、iPadに手を伸ばす。
曲が思いついたのだろう。触れる手はスムーズだった。
ギターの温かな音色に瞼をゆっくりと開けると、和也が気づき、穏やかな顔を見せる。
「ーーーーお疲れ……奏のおかげで、曲が出来たよ」
そう言って無邪気に笑う和也に、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「お疲れさま……」
その笑顔に思わず手を伸ばす和也に対し、抱き寄せられた奏は背中に腕を回せずにいた。
「うん…………奏、ありがとう」
「……うん…………」
額が寄せられ、二人の距離は驚くほど近い。
「……楽しみだね……」
奏は瞼を閉じると、そっと背中に触れる。それが合図になったのように、ゆっくりと唇が重なっていた。
「…………聴いてくれる?」
「うん」
間近にある嬉しそうな表情に、また抱き寄せそうになるのを抑え、ギターに触れる。明るいテンポの弦の音色が流れていく。
合わせるようにピアノに触れる奏は実に楽しそうだ。
「ーーーー敵わないな……」
即興で合わせられる力量に、そう呟いた和也は、彼女を見つけた時のような瞳をしていた。water(s)の未来を見ていたのだ。
「…………今の、よかったよね?!」
「う、うん!」
珍しく声を上げた奏に頷く。嬉しそうに頬を緩ませる彼女に、和也も緩む。
「…………奏」
「すごいね、和也!」
差し出された手に躊躇いなく触れる姿は、抱き寄せられて頬を染めていた奏ではなく、ステージ上で堂々と歌うhanaのようだ。
心の底から尊敬の念を抱いている事が伝わり、頬が染まるのは和也の方であった。
本当にすごい!
明るい曲調に、どんな歌詞がいいかな…………
思わず口ずさむ奏に、驚きながらも口角が上がる。衝動的に抱きしめてしまいそうになりながら、その声を聴きたさに手を繋ぐに留める。
メンバーがいたなら、その意味に気づいた事だろう。彼にとって唯一の歌姫であり、愛しい人であるという事を。
……素敵なメロディーを歌えると思うと、ドキドキして眠れない。
ベッドに寝転びながら、録ったばかりの音源がイヤホンから流れる。すでに何度もリピートしている為、口ずさむのは造作もない。
その夜、メンバーのもとに録ったばかりの音源と共にメッセージが送られてきた。
『今回は五人で合作の歌詞にしない?』
和也の提案にメンバーが次々と応え、全員一致で合作にする事が決まった。
こういう時……みんな、すごい……って、改めて思う。
既に歌詞作りは始まっていた。メロディーに合う単語が並んでいく。その速さに驚きながらも、耳に残る音色を聴きながら入力を繰り返す。
『何処までも続く青空へ』
『明日へ繋がる物語』
『あの空を目指して』
打ち込んだ歌詞は五人とも違うが、最初の擦り合わせは出来ていた為、テーマに合わないものは一つもない。曲が決まったその日に、大まかな歌詞の選出も行われる事となり、気づけば年内の期日まで二ヶ月を切っていた。
和也の作った曲に乗せる詩を考えるのは、楽しくて、楽しくて…………仕方がないの。
みんなと合作の歌詞なんて、それだけでワクワクして……真剣に向き合ってるけど、みんなも何処か楽しそう。
奏の感じた通り、彼らもまた期待に胸を膨らませていた。
いつもの喫茶店に集まった五人は、今まで意見を出し合ってきた歌詞を繋ぎ合わせていく。今回はパズルを組み立てるような手法だ。
カフェラテで口を潤しながら、iPadや携帯電話と睨めっこを繰り返していく。
限られた時間の中で、最大限を求めるからだろう。カップはいつの間にか空になっている。
奏は難しく考えてしまう自分の気持ちを変えるように、マスターに使用許可を得ると弾き始めた。
「……マスター…………あの子達、また来てるんだね」
「はい、すっかり常連さんですよ」
「いいねー……昔を思い出すよ」
「そうですね……」
マスターと年配の常連客はカウンター越しに話をしている為、店内奥にいる彼らにその声は聞こえていない。たとえ近くに居たとしても、今の奏には周囲の声は届いていなかっただろう。集中すると自分達の音しか耳に入らないようだ。
ーーーーーーーー明るくて……優しい音色。
初めてwater(s)の曲を聴いた時を想い出す。
終わりのない青空へ向かって、駆け出したくて……届けと願い続けた想いを叶える為に歌うの。
歌詞を想い浮かべながら弾いていたら、見えてくる気がして…………
最後の一音が止むと、拍手が送られていた。
客がピアノの音色に耳を傾けていたのは、その反応からも明らかだ。奏は照れた様子で微笑みながらも、お辞儀をして席に戻った。
そんな彼女の姿を誇らし気に見つめる彼に、圭介が尋ねた。
「…………和也と奏って……付き合ってるの?」
「うん」
顔色を変えずに応える彼の隣で、奏は頬をピンク色に染めて小さく頷く。初々しい反応に、圭介達の方が染まりそうだ。
「お似合いだな」
「あぁー、やっぱりかぁー。和也、良かったな」
大翔に続き、明宏も大きく頷く。尋ねた圭介だけでなく、彼の変化には三人とも気づいていた。
彼の初恋を心底喜んでいるようで、向けられる視線はとても温かなものだ。
奏は和也と顔を見合わせると、染まりながらも笑顔で応える。
『ありがとう』
揃う二人に先程までの張り詰めた空気が一転し、穏やかな雰囲気に戻る。
本人に自覚はないが、奏のピアノの効果は絶大であった。止まっていた歌詞作りが、順調に進んでいく。
「なぁー、これはどう?」
「俺も思った。奏の案でしょ?」
「うん……」
「"終わりなき空へ"か……」
「卒業シーズン出し、いいかもな」
歌詞を書いた紙や携帯電話にipadを見ながら、意見交換を繰り返す。奏も発言するように努めていたが、自分の曲名が採用されるとは思っていなかったようだ。なぜなら、それだけ心に残るフレーズを紡ぎ出すメンバーしかいないからだ。
「ーーーー本当? "終わりなき空へ"?」
「うん」
即答する和也からメンバーに視線を移し、本心で言っている事が分かる。音楽に妥協のない彼らが納得する曲名だ。
数日間悩んでいたのが嘘のように、スムーズに意見が一致し、詩が決まっていく。
残すはアレンジだけとなっていた。
「あとの調整はいつも通り僕達だけでやるけど、ある程度の駄目出しはプロになるんだから覚悟だな」
「でも、駄目出し貰うつもりはないでしょ?」
圭介にはっきりと和也が意見すると、笑みが並ぶ。
「勿論!」
「water(s)の根本は変わらないよなー」
「うん!」
ーーーーーーーー無色透明で変幻自在。
でも、何者にも囚われない。
そんな音楽を作り続ける。
唯一無二の存在になれるように…………そんな風に……私もなりたい。
これから立つスタートラインを目前に、改めてそう感じていたのは彼ら共通の認識であった。
奏と和也は大学の練習室に向かっている。"終わりなき空へ"のアレンジを仕上げる為だ。
「体育とかの授業で大学には来るけど、制服だとやっぱり目立つね」
「うん。でも、ちゃんと圭介が許可取ってるから大丈夫だよ」
和也はそう言って、右手を握って歩いていく。
…………まだ……人前で手を繋ぐのは緊張する。
握られた手から、頬が染まるのを感じていた。外は寒い為、余計に熱さを感じるのだろう。手袋をせずに直に繋いだ彼の手もまた、温かくなっていた。
「二人ともお疲れ」
「お疲れさまー」「お疲れー」
圭介に揃って応えると、早速最終調整が始まっていく。
「誰でも歌える……歌いやすい曲がイメージだから、テンポはこのままでいいか?」
そう言って明宏がドラムを叩いてみせると、四人とも納得した表情を浮かべ頷く。
みんなで音を合わせる……この瞬間がすき。
akiのドラム、hiroのベース、keiのギター、miyaのギターやキーボードが、音楽がすきだと……私に教えてくれる気がするから…………
奏はマイクスタンドの前に立つと、彼らの音を背中に受けながら歌っていく。
彼女の声は高く、澄んだ音色を漂わせていた。
今回の曲のベースはメジャーキーを使用し基本的だが、彼女の声だけは違う。誰にでも歌えるが、彼女にしか出せない色がある。それがwater(s)の音だ。
奏の歌声を聴く度、彼らはそう感じながら奏でていた。知らなかった音に出逢う度、痛感させられてもいたのだ。「天才」がいると。
「…………出来た」
数時間で仕上がる技量は、さすがは音楽に関する学校へ通っていると言うべきだろう。
和也の漏らした言葉に、奏はようやく仕上がった事に気づく。
五人は視線を巡らせると、肩を抱き合い喜びを分かち合う。初めての事に挑戦した高揚感からか、奏はジャンプしそうな勢いだ。
「完成したな!」
「あぁー」
「やったな!」
「もう一回、演りたい!」
奏の素直な言葉に応えるように、それぞれの定位置に着くと、明宏のドラムスティックの音を合図に曲が流れる。練習室には、water(s)の音色が響いていた。
何処までも続く空に、少しでも届くように…………明日が待ち遠しくて、どうしようもない想いも。
今の私達に似合う曲になってるよね。
時折、視線を通わせながら、奏は嬉しそうな笑みを浮かべたまま、話すように歌っていた。