死んでしまった
「 【トルム】 【ライヒ】 【イブラヒム】 」
魔法使いが呪文を唱えた。
意識のないジョナサンの心臓に、杖を押し付けて。
すると。
杖の先端から瞬く赤い光が放射線状に吹き出して、巻き起こった突風が魔法使いの帽子を飛ばした。
「----」
ちりんちりん。
おんぼろ自転車が問いかけた。
帽子の下。
白髪交じりの髪をあらわにした男は、額の汗をぬぐって、恐ろしく不気味な顔で答えた。
「……はあ…はあ…。
何ということはない、この者の記憶を見た。
ーー【イクシーズ】 そして今、命を奪った」
ちりんちりん。
自転車は嬉しそうにベルを鳴らす。
ーーくるくる
ーーーーくるくる
ペダルが独りでに、犬のしっぽみたいに回り始めた。
「ふはは…!!
弟ができることがそんなに嬉しいか…!!
ふぅ。
……命を奪うことは容易い。
難しいのは命を与える方だ…。
さて、怪物に挑んだ若人よ…。
空っぽの器に新たな命を吹き込んでやろう。
…ワシの寿命をくれてやる……。
さぁ、……代価はいかほどもらおうか ーーーー 【ア】 【レブ】 【ジョナサン】 」
発光する魔法使いの杖。
地上に対し磁石みたいに宙に浮かんだジョナサンの死体が、緑色の球形にすっぽり覆われた。
徐々に、風船みたいに膨らんでいく緑玉。
どんどん
どんどん大きくーー。
ジョナサンを中心に膨張を続けるその光の球はーーやがて島全体を飲み込むほどに膨れ上がった。
島中の木々や草が、その緑色の光に触れた瞬間ボロボロと灰に変わって、
ーーつまりその光の球は触れたものを皆汚染する呪いみたいでーー。
パーンと弾けたときには、その島はもう二度と生き物の住めない場所にまで成り代わっていた。
ただその緑の球体の中では、魔法使いと自転車と、どういうわけかまた心臓が動き始めて少し顔色のよくなったジョナサンだけが生きていた。
ーーーーーー
ーーーー
ーー
「小僧」
不明瞭なつぶやき。
「起きろ、ジョナサンとやら」
やや明瞭なつぶやきーー誰だ死人に話しかけるのは。
魔法使いはさらに大きく叫んだ。
「起きろ。
起きて運転を代わってくれ!!!」
あまりの大声に、かっと目が見開いた。
ジョナサンは驚いたーー死んでいないのか?
それともここは天国か、はたまた……。
「何、ぼうっとしてるんだお前!」
こつん。
おでこをはたかれた。
誰に?
見知らぬ男に。
魔法使いが被るみたいな、つばの広い黒い帽子をかぶった、変な男に。
……どこかで見たことがあるような気もしないではない…、そうだついさっきどこかで…。
でも顔がよく見えない。
そうだ、今自分たちは自転車に乗っていて、おまけに空を飛んでいる。
「………????」
下を見ると、どこまでも広がる海があるばかり。
「…………?????????????」
うつらうつらとする意識。
やっぱり死んだのかぁ……ぶへへ。
ジョナサンは、変態がパンツを見つけたときみたいにニヤケタ。
酔っ払ったみたいに、あるいは何かの後遺症か、やけにぼうっとする頭。
ジョナサンは身体を震わせた。
「……寒い、風がすげえ」
魔法使いが言う。
帽子を抑えながら。
「それ海風!
カモメの気持ちが分かったか…?
いや、そんなことより俺はもう三日も寝てない!
ねむい、……眠い!!
魔法を使えば不眠不休も不可能じゃないけどな、そんなもん俺は嫌だ!!
だから都につくまで運転変われ、チャリンコの」
意識不明瞭息子のジョナサンは、言われるがままハンドルを握らされた。
「世の中には、その場の流れって川があるだろう!!
今真下には海しかないがな!!うはは……」
魔法使いは、そう訳の分からないことを言って。
「笑えよお前」と勝手に不機嫌になったかと思うと、座ったまま背中を丸めて目を閉じた。
言葉の一つも返す余裕は、ジョナサンにみじんもなかった。
どういうわけか空なんて飛んでる自転車のハンドルを握る締めるだけで精一杯だ。
なぜ自分の身体の傷が、跡だけを残してすっかり塞がっているのか。
怪物のことも、死んだ家族のことも、ここがあの世なのかそうでないのかも。
大事なことを思い返す余裕も、考える暇もなく、歯を食いしばって命がけでハンドルを握っているしかない。
ハンドルを。
右に傾けたら、右に曲がる。
左に傾ければ、左に曲がる。
ーー普通の自転車だーー。
空を飛んでいること以外。
ジョナサンはごくりと唾をのんだ。
要領は理解できた。なぜか、自転車に自意識でもあるみたいに「ちりんちりん」がひとりでに時々なることはこの際無視だ。
少しずつ余裕が出てきた。
慣れてきた。
なぁに、ただの空飛ぶ自転車だ。
前方、果てしなく広がる海が美しい。
そろそろ朝日が昇り始める。
後ろ、男はぐでんぐでんに眠りこけている。
「…………」
登りくる朝日の温かみを頬に感じながら。
ジョナサンは、唇をかんだ。
血が、滴り落ちた。
はるか真下の海にまでーー。
「--みんな死んだんだ。
俺だけ生き残って…俺が一人だけ」
空飛ぶチャリンコの上、ジョナサンは遥か真下の海を見た。
白く波打つ、冷たい海。
暗い表情で、じっと見つめた。
後ろの席で、もぞもぞと音がした。
魔法使いが、寝起きの酒とブドウのパンをポーチから取り出したのだ。
「……何で助けたんだ俺を…」
「ぐびぐび…ぷはーっ。
もう俺は運転する気はねえぞ……!!
……うう、さび。
ーーん?
そうだな……お前は死んだ俺の知り合いに似てるんだ。
悪いが、助けたときについでにお前の記憶を大体見た。
お前、魔法使いになれよ…。向いてるからな」
「…………」
ジョナサンは、ぎゅっと眉を寄せた。
この男が何を言っているのかは、よくはわからないーーけれど。
少し大きな声で、責めるように言った。
「他の奴らは…!
…誰も助けられなかったのか…?」
「あぁそうだ…。
お前だけだ。
………断るも断らんも自由だが…。
都で三年修行しろ、俺が教えてやる。
家も食うもんも用意する。
俺はそう決めた…。
ほら、やるよ」
そう言うと、魔法使いがブドウのパンを前に投げた。
ジョナサンは受け取ったきり、腹が減っているのに食べるでもなく捨てるでもなく、顔をゆがめて押し黙っていた。
魔法使いは、とりあえずぶどう酒をごくごく飲んだ。
そしてまた目を閉じた。
と、ジョナサンはパンを一気に口の中に詰め込んだ。
涙が出た。
弟が焼いたパンよりも、かなりまずかった。
ハンドルから手を放して乱暴に拭うと、自転車がかなり左にそれた。
慌ててハンドルを握るジョナサン。
と、泣きながら口をもぐもぐしていると、霧の奥地平線の向こうに、巨大な大陸の影が現れ始めた。
「………島の外…」
目を細め、ジョナサンが呟いた。
島育ちには想像もつかないような、巨大な大陸が、地平線を超えて、こちら側へとせり出してくる。
心臓がギュッとなった。
身体の芯が、怪物を見た時のように小刻みに震える。
ジョナサンは心を決めた。
パッサパサのパンを丸呑みして、魔法使いからぶどう酒をひったくって流し込んだ。
無理やり力を入れると、なんとか涙も乾いた。
「……強くなるさ…。
みんなの仇をとれるくらい、次は必ず……怪物を殺してやる…」
空飛ぶ自転車が、海に別れを告げる頃。
ジョナサンはそう決意を固め、その黒豆のような瞳に悲しみや憎悪をみなぎらせ、肩を震わせた。