一話目
「リズベル」ー背後から、胸に響く穏やかな低い声が聞こえた時、私は胸がキュッとなり苦しくなった。
しかし、顔には出さず平然と振り向いた。
「はい、陛下」
吸い込まれそうな深い緑色の瞳を見た時、私は泣きそうになった。
「どこへ行くのですか?」
「仕事が一段落したので、散歩を。」
「私も行ってもいいですか?」
「…マリーン様は、よろしいのですか?」
「…ああ。彼女は、今は休んでいます。」
(…あらかた、無理をさせたのだろう。)マリーン様は、陛下の従兄弟であり側室だ。私は王妃だが、私が王妃になる前からマリーン様は、嫁いでいた。
二人は相思相愛なのに、私が、大国の第一王女であるため小国のジャーナル王国、テオドラ・ユーフリート陛下は反対出来なかった。
ジャーナル王国は、資源が豊富なため何とかして、繋がりを持ちたかった私の父は、私に政略結婚をさせた。
私が、嫁いできた時、陛下は優しく、常に側で支えてくれた。穏やかで、温かい彼を一瞬で好きになってしまった。
自分の夫となる陛下と良い関係を保ってきた。保ってきたはずなのに…。
見てしまった…。陛下とマリーン様の、裂くことのできない愛を…。
私は、次第に陛下を避け始め、初夜はおろか寝室でさえも別々である。徐々に、私と陛下の間には壁が出来始め、気まずくなっていった。
私が、どんなに陛下のことを想っても、所詮片想いだ。どうせ報われないのならば、いっそ嫌ってくれた方が良い。
しかし、私は王妃なので必要最低限なことは関わるが、それ以外は陛下と関わりを持たないと決めている。
陛下は、そんな私の思いとは反対に、私と距離を縮めようとしてくる。今だってそうだ。
「では、マリーン様の所へ戻ってはいかがですか?私、一人で散歩をしたいのです。」
私は、上部だけの愛想笑いを浮かべた。
「…リズベル。私は…」
陛下は、困ったような、傷ついたような表情を浮かべた。
「私のことは、どうか気になさらないでください。どうぞマリーン様のお側にいて差し上げて下さいませ。」
「…リズベル」
陛下は、眉を下げ悲しそうな表情を浮かべた。
「…では、失礼致します。」
私は、陛下の表情に胸がチクッとした痛みを感じたが、無視をし一礼をして背を向けた。
ジクジクとした胸の痛みを無視して、私は真っ直ぐに庭園へ向かう。
王宮の庭園は、薔薇、ラベンダー、マリーゴールドなど色とりどりの花が咲き誇っていた。
庭園の中心にある、小さな噴水があり、そこの縁に腰掛ける。
「きれい…」
いつ来ても、いつ見てもこの光景は、美しい。
私は、ほうっとため息を吐き、しばし何も考えずぼうっと庭園を見ていた。
(ここだけ…。私の居場所は)
私は、目を瞑り花の甘い香りや、風の音を聞き心を落ち着かせた。
しばらくすると、午後からの仕事があるため、重い腰を上げ執務室へと向かう。陛下程ではないが、王妃にもそれなりに仕事があるので、忙しい。そして、山程机上にある書類に目を通していくのだった。
ー「…マリーン様は?」
「彼女は、まだ体調が悪いみたいだから、夕食はいらないと。」
仕事をしていたら、あっという間に夜になり、夕食の時間だった。いつもは3人で食事している場にマリーン様がいなかった。
「…そんなに悪いのですか?」
「…うん、でも、明日にはきっとよくなっているだろう。」
毎日、食事の場にはマリーン様がいて、彼女の笑い声が響いていたのに、今日は静かだ。
結婚してから、初めて二人で食事をしているので、何だか落ち着かない気持ちになる。
私が、メインのステーキを口の中で、咀嚼していると…。
「リズベル」
私は、少しぼうっとしていたので、陛下の呼び声に反応が遅れてしまった。
「は、はい。陛下」
「今日の夜、散歩をしませんか?」
「え」
「嫌ですか?」
陛下は、私に断られると思っているのか、瞳が不安そうに揺れていた。
「…いいえ」
「良かった。では、食後に行きましょう。」
「…はい」
私が、頷くと陛下は満面の笑みで、嬉しそうに言った。陛下の嬉しそうな、お顔を見ると勘違いしそうになる。
まるで、私を愛しく思っているかのような…。
(違う違う。陛下は、マリーン様を好きなんだから。私とは、政略結婚だから気を遣っているだけ。…きっとそう。)
私は、ぎゅっと目を瞑り、邪な思いを振り払った。
(きっと、陛下は私のことは、何とも思っていない。)
泣きそうになるが、ぐっと堪える。そのまま、食事を再開させた。
夜の庭園は、昼とはまた異なった美しさだった。花が夜風に揺れ、月の光で一層輝きを増していた。
私は、陛下にエスコートされており、陛下の左腕に右手を掛けていた。どちらとも、ただ無言で庭園を歩いていた。
陛下は、私が歩きやすいように歩幅を合わせてくれている。私は、少しくすぐったい気持ちになった。
「寒くありませんか。リズベル」
「はい」
陛下は、少し屈み私の顔を覗くように言った。私は、陛下の視線と合わさずに花に目を向けた。
「少し休憩しましょうか」
陛下は、庭園の中心にある小さな噴水の縁に、私を座らせ隣に腰掛けた。
「…」
「…」
どちらとも、ただただ無言で月を見上げていた。
(…今日の陛下は、優しいな。いや、いつも優しいんだけれど…。…マリーン様の体調が悪いから、私で我慢しているのかな)
私は、陛下の美しい横顔を、盗み見しながら思った。
「私の顔に何かついていますか?」
私の視線に気付いたのか、陛下はこちらを見て言った。
「…いいえ、あの。陛下。マリーン様のお側へ居なくて良いのですか?」
「…あなたは、私にマリーンの所へ行ってほしいのですか?」
陛下のお顔が曇り、私は慌てて弁解した。
「…い、いいえ。マリーン様の体調が悪いのでしたら、陛下がお側にいる方が安心できるかと…。」
「…はあ」
陛下は、私の弁解にため息をついた。私は、びくっとなり余計なことを言ったかと、顔を俯かせた。
「…リズベル。あなたは私の王妃。マリーンは、側室です。あなたの方が優先です。」
私は、陛下の言葉に赤面した。
(私の王妃…)
赤面した顔を見られたくなくて、益々顔を俯かせた。
「マリーンは、体は弱いけれど芯は強い子です。ですから、体調も持ち前のポジティブで、治るでしょう。」
「そうですか」
私は、納得した。マリーン様はよく体調を崩すけれど、命の別状はないし、次の日はけろっとしていることが多い。
「リズベル。私は、あなたともっと多く過ごしたい。あなたの側に居たい。」
陛下は、俯いている私の手に左手を重ねてきた。私は、思わず顔を上げ陛下と目を合わせるが、陛下は無表情で私の目の奥を覗き込んでいる。
「…陛下?」
私は、陛下の様子にドキッとしたが、陛下の力強い視線に耐えられなくなり、呼び掛けた。
すると、だんだん陛下のお顔が迫ってきて、私の顔に息遣いを感じた。
(近い…)
私は、目をぎゅっと瞑り陛下の視線から逃げた。すると、少しの間があった後、頬に柔らかいものが掠めた。
私は、その感触に驚きばっと目を開けたが…後悔した。
眼前には、間近に迫った陛下の端正なお顔があったからだ。
「っ」
息を飲み、心臓がバクバクと暴れる。陛下は、身じろぎせず、じっと私に視線を注いでいる。深い緑の瞳が、きれいだと思う隙もなく、私たちは見つめ合った。
「へ、陛下…」
私は、ついに耐えきれなくなり陛下の胸を押す。
しかし、その両腕を陛下が掴み、ぐいっと力強く引っ張られた。
「あ」
バランスを崩し、陛下の胸に倒れ込む形になり、すぐに背に堅い腕が巻き付かれる。
私は、突然のことに驚き、声も出なかった。
(なに…抱き締められている?)
私は、陛下に抱き締められている状況に混乱するが、陛下の腕の力が強まり、さらに体が密着することに体が熱くなった。
「リズベル」
陛下は、私の耳の横で囁いた。その低い声に…。
「っや」
私は、体を震わせ陛下の胸を押すが、陛下の腕の力が益々強まり、息が苦しくなる。
「あなたは私に気を許さない。いつまで待てばいいのですか?…私は、もっとあなたに近付きたい。」
陛下の低く掠れた声が、胸に響き私は、一層動揺した。
「リズベル……リジー…」
陛下が、私の愛称を呼んだ時、私の胸はぎゅーっとなり、涙を浮かべた。
(そんな声で、呼ばないで…)
「へ…か…」
私は、震える声で陛下の胸元から声を絞り出した。
陛下は、私の声が聞こえたのか、腕を緩めた。そして、そのまま私の頬に指を添える。
「リジー…泣いているのか?」
陛下は、私の潤む瞳を見て目を大きく開いた。私は、陛下が頬に添えていた手を顎に掛けられ、上向かせられていたので、涙で滲む目で陛下を見つめた。
「…そんな目で見るな…」
陛下は、苦しそうに眉間にしわを寄せ、唸るように言った。口調が敬語ではなくなり、普段の穏やかな陛下ではなかった。
(陛下…?)
私は、少し陛下の様子に怯え首を振る。そして、そのまま陛下から逃れようとしたが、まだ片腕が私の腰に強く巻き付いていた。
「…リズベル。何があなたを躊躇させる?どうして私に…あなたは私が嫌いか?」
陛下は、私の顎に掛けていた手を再び頬に添え、撫でる。
私は、その感触にゾクッとし、体を震わせた。
「っ…、私は…あなたを嫌っていません。」
「では、なぜ私と関わりを持とうとしない?」
陛下は、怒気を含んだ低い声で、言った。
「っ…持っているわ!」
私は、中々解放してくれない陛下に、心臓が狂ったように打ち、苦しくなり声を挙げた。
「持っていない。私があなたの側に行こうとしたら、逃げるだろう。」
「陛下が、マリーン様と一緒にいるからではないですか!」
「あなたは私の王妃だ!マリーンよりも優先だと言っただろう!」
ついに陛下は、声を荒げた。
「嘘よ!マリーン様と一緒にいる方が、表情が違うもの。」
「それは…マリーンは従兄弟だし幼馴染みみたいなものだから。」
「っもう放してっ!」
私は、力を振り絞り陛下の腕から逃れた。
「リズベル!待って!」
陛下が、叫ぶが私は構わず王宮の中へと走る。陛下は、追っては来なかった。
ー私は、皆が寝静まっている王宮内を走り、自室へと飛び込む。
「王妃様?どうかされましたか?」
私の足音が聞こえたのだろう。扉から、侍女が言った。
「…何でもないです。」
「そうですか。では、おやすみなさいませ。」
足音を立てずに扉から離れていく、気配がした。
私は、侍女に申し訳ない気持ちがあったが、すぐに消え去りベッドへ身を沈める。
(今日の陛下は、おかしかった。いつもはあんなに声を荒げたり、抱き締めてくるなんてなかったのに…)
私は、まだ心臓がバクバクとなっていたが、しだいに収まり疲れがドッと押し寄せ気絶するかのように、意識を手放した。