イカの姫様
陽が昇るとともに、水面は飛燕草の花よりも青く染まった。海は凪いでいる。そこには一つの板切れが浮いていた。時折チャプリと飛沫をあげはするものの、板は寝心地の良い揺り籠のように一人の青年を優しく抱いていた。
「あれは、人間かしら?」
そう言ったのはイカの姫様。紛れもないイカである。
未だ人々は気付いていないが、概ねの野生動物は大変饒舌。人が見ていないところでは世間話に花を咲かせている。ご多分に漏れず海洋生物についてもお喋りであり、イカの姫様は木片の上でうつ伏せる青年を見て、誰に言うでもなく、独り言を口にしたのだった。
日頃は深い海の底、琥珀色の宮殿に住まう姫様ではあるが、齢十五を向かえ、女王である母様の許しを得て初めて海面に顔を出した。人間のことは噂には聞いていたものの、その目で見るのは初めて。好奇心という名の衝動に駆られ、姫様は十本の足を器用にたなびかせて揺れる板切れに近付いた。
青年は眠っているようだった。頭の上に小さな冠をチョコンと乗せ、サンゴより赤い薄手のマントを羽織っている。コスチュームプレイ、いわゆるコスプレをしているかのような、いかにも王子様といった風情だ。
イカの姫様は試しに、「王子様?」と声を掛けてみた。そうすると、王子様然とした青年は寝惚けているのか、「呼んだぁ?」と間の抜けた返事をした。
間違いない、彼は王子様だ。
覗き込めば、なるほど、育ちの良さそうな繊細な顔をしている。また、その髪型は緩やかな縦巻きパーマネント。姫様は、男性に対してこの形容は適切か否かと迷ったが、「なんて美しいのでしょう」と、溜め息混じりに零した。
その時、王子様が目を開き、面をあげた。
動物達が人語を解するということは人間に知られてはならない。それは自然界の理。もし知られてしまえば、たちまちのうちに動物達は論破されてしまうだろう。
イカの姫様は慌てて隠れようとしたが、時すでに遅く、一人と一匹は目を合わせてしまった。
ところが、王子様は酷く疲弊しているのか視力が低下しているようだった。彼は姫様のことを見ても驚きはせず、力なく口を開いた。
「そ、そこに、どなたかいらっしゃるのですか?」
その言葉に対し、姫様は緊張しながらも気取った調子で答えた。
「え、ええ、趣味の遠泳を楽しんでおりましたら貴方様を見つけたのです」
王子様は相好を崩し、姫様に言った。
「おお、これは神のお導きに違いない。そこの方、どうかお手持ちの食糧を恵んでは下さいませんか? 船が難破し、私は幾日も海の上を漂っておりました。塩辛い水のみで腹を満たし、ほら、手足は流木のように細くなってしまいました」
そうは言われてもイカの姫様は手ぶら。そもそも足はあるが手がない。しばらく考えを巡らせた後、姫様はパンがなければケーキを食べれば良いという真理に基づき、手がないのなら足を活用すれば良いという結論に至った。
イカには再生能力があり、足が切断されてもまた生えてくる。姫様は自らの足を一本ちぎり、王子様の口元へと運んだ。
王子様は差し出されたゲソを口に含むと、その歯応えを確かめるように何度も咀嚼をした。
「これは、なんと美味しいイカなんだ。まるで獲れたてのようだ。お嬢様、ありがとうございます。お陰で私は生き延びることが出来そうです」
「いいえ、そのようなものであれば切って捨てるほどございます。どうかお気になさらずに。それよりも王子様、ご迷惑でなければ私が岸までお送りしましょう」
そうしてイカの姫様は王子様を陸に送り届け、彼の視力が回復するよりも早く深海の宮殿へと引き返した。
幾日後かのことである。
イカの姫様は真珠貝で飾り付けられた窓から海の天井を眺めていた。小さな魚達が空を舞うツバメのように泳いでいる。
四方八方を水に包まれた深海の宮殿は、まるで青空に浮かぶ城。夢のように美しい。しかしながら今の姫様にはその美しさは目に入らなかった。
「はぁ……」
溜め息を一つ。続けて、二つ、三つ。
頭の中にあるのは、自らの血肉を分けた繊細な人、王子様の姿ばかり。
そんな姫様を案じてか、女王イカである母様が柔らかく声を掛けた。
「溜め息の泡は魚の餌にもなりませんよ。一体どうされたのかしら?」
問いに応じ、姫様は王子様との出会いについて語り、最後にこう付け加えた。
「母様、私は人間になりとうございます。そして、王子様と……」
当然ながら母様は反対をしたが、娘の執拗なまでの懇願に圧し負け、やがて棚から瑠璃色の小さな瓶を取り出して姫様に告げた。
「ならば王家に代々伝わる秘薬を授けましょう。陸に上がりこの薬を一口飲み込めば、あなたは人の姿になれるでしょう……」
そこで母様は大きく息を吸い込み、躊躇いがちに続く言葉を口にした。
「……ただし、意中の人と一晩のうちに結ばれなければ、あくる朝には海の藻屑となってしまいます。それでも良いですか?」
イカの姫様は迷うことなく大きく頷いた。その身体の半分は頭部。腰を折って一礼したかのようにも見える。
母様は娘のそんな姿を認めると、悲しげな表情のまま小瓶を差し出した。
イカの姫様はさっそく陸に上がり、秘薬を口に含んだ。
そうすると十本の足がグニャリと捻じれて束になり、幾本かは二本の脚に、幾本かは二本の腕に姿を変えた。母様の言った通り、姫様は人に化けたのだった。
陽は沈みかけている。与えられた時間は僅か半日。
けれども姫様には確信があった。かつて軟体であった柔らかな身体と、かつて吸盤であった吸いつくような手を活用すれば、どんな殿方も虜に出来よう。活用の方法は割愛。そうそれは大人の事情。
姫様は浜に打ち上げられた海草を編んで簡素なドレスを作ると、それを纏い、丘の上に輝く王子様の居城へと向かった。
警備は薄く、庭への侵入は容易く許された。茂みに身を隠し、顔だけを出して様子を窺う。するとすぐに人影があることに気が付いた。その人影は、容姿は判然としないが、宵の明星を見上げて何やら思い悩んでいるようである。
もしや王子様、などとも思ったが、ひょっとすれば衛兵かも知れない。ここで見つかって捕えられでもすれば限られた時間を失うこととなる。
イカの姫様は慎重に身を屈めようとしたのだが、その際、ドレスが枝に掛かり、露に濡れた葉を揺らしてしまった。
「どなたかいるのか?」
人影が言う。それは紛れもなく王子様の声。
姫様は覚悟を決め、姿を晒して声の主に話し掛けた。
「王子様、私を覚えていらっしゃいますでしょうか」
向かいに立つ人影が明るい声色で答える。
「その声は、遭難した際に助けてくれたお嬢様でありマッスル?」
「マ、マッスル?」
イカの姫様の正面に立つ男の声は間違いなくあの日の王子様のものである。されどもその姿は、なんと、筋肉質な大男であった。繊細な姿はどこへやら、纏う衣服がはち切れそうなほど全身が怒張、腕一本とっても姫様のウエストより太い。
当惑する姫様をよそに筋肉男が話し出す。
「失礼。近頃では脳内にまで筋肉が浸食し、油断をすると『マッスル』と言ってしまいマッスル」
状況の理解など出来ようはずもない。姫様は茫然とただ首を傾げた。
「貴女に食べさせて頂いたイカは、私の舌と記憶が正しければ、アミノ酸スコア100、タンパク質含有率25%、糖質、脂質は0.5%未満、カリウム、カルシウム、タウリン、ナトリウムは…………」
そこで我に返った姫様は話を遮った。
「ちょ、ちょっとお待ち下さいませ王子様! 仰っている意味か分かりません」
「つまり、貴女から頂いたイカは高性能な栄養補助食品だったという話です。お陰で私の眠れる封印されし筋肉は覚醒しました。御覧なさい。フンヌッ!」
「憤怒!?」
王子様が掬うように右腕を振り上げると、その拳圧により生じた突風で敷き詰められた石畳が木の葉のように捲れ上がり舞い上がった。
「どうですか、フンッ、素晴らしいでしょう、フンッ、これが、フンッ、筋肉の、フンッ、ちから、フンッ、です、フンッ……」
「な、何をされているのですか?」
「御覧の通り、フンッ、スクワットです、フンッ、嗚呼、ナトリウムが、ナトリウムが溢れ出すぅぅぅ!」
王子様は汗を滴らせながら屈伸運動を繰り返していた。
これがあれほど憧れた人の姿なのか。姫様は悲しみに似た感情を抱いた。
その時である。
「私は貴女にお会いしたいと願っておりました」
王子様は慈しむような目で姫様を見つめた。
姿は違えども、この方こそ王子様。姫様は思った。彼は自分と同じように再び出会うことを望んで下さった。これは幸せなことなのではないか。
そして、こう告げた。
「私も王子様にお会いしとうございました」
そうすると王子様は満面の笑みを浮かべて溌剌とした声色で述べた。
「ならば丁度良い。さっそくあの日のイカを頂戴したい」
「え?」
「イカだよ、イカ! タンパク源だよ! 持っているのだろう?」
「イカが目当てでございますか!? 私にご興味は?」
尋ねると、王子様は右手を広げて左から右へと水平に振りながら返事をした。
「ない!」
同時に、その手から放たれたカマイタチが姫様の頬を裂き、更に背後にある木々を上下に切断する。
姫様はイカスミ色の涙を零し、逃げるように岸辺を目指して走り出した。
イカの姫様が岸に着くと、そこには見覚えのある顔があった。心配した母様が水面から顔を出し、待っていたのである。
姫様は己の行為を悔い、ますます涙を流して母様のもとに駆け寄った。
「嗚呼、母様、私は愚かでした。泡沫の夢に溺れたのです。イカにもかかわらず溺れてしまい、脳筋男に命を懸けてしまいました!」
娘の訴えを聞いた母様は全てを察したのであろう、一つ頷くと、懐から夜光貝のように七色に輝く短剣を取り出し、慰めの言葉を紡いだ。
「安心なさい。この短剣で王子を亡き者にすれば、貴女の身を患わせる秘薬の呪いは解けましょう。さあ」
姫様は差し出された短剣を受け取った。
瞬間、背後から空気を震わせるほどの重い音が響いた。
振り返ると、そこには屈んだ姿勢の王子様がいた。おそらくは丘の上にある城から跳んできたのであろう。その足元は彼を中心に大きく凹んでいる。
「おマッスルしました。おっと、間違えた。お待たせしました」
「おマッスル!? 無理がある!」
姫様はすかさず短剣を突き出した。ところが視界から王子様の姿が消え、切っ先は空を切った。
「筋肉は見た目も素晴らしいが、もっと素晴らしいのはその機能性だ。鍛えれば鍛えるほど期待に応えてくれる。特に私の筋肉は瞬発力に優れた白色筋。生半可な刃で届くことはない!」
いつの間にか王子様は背後に立っていた。
姫様は「えい、覚悟!」と叫び、振り返ると同時に横殴りに短剣を滑らせた。
「遅い!」
王子様が跳んでかわす。続けて反復横跳びの要領で左右にステップ。やがて彼の残像が幾つも現われた。
それを見て姫様は嘆いた。
「嗚呼これは、幼い頃に実践して再現は不可能と悟った分身の術! それをいとも簡単に行なうなんて……」
とは言え、諦める訳にもいかない。陽が昇るまで時間はある。たった一突き命中させればそれで済むのだ。
姫様は闇雲に短剣を振るった。しかしながら王子様の言った通り、刃が獲物を捕らえることはない。
王子様が笑う。その声は綺麗な『HA』という発音。
「ハッハッハッ、無駄だ。私の鍛え抜かれた筋肉の早さは脳の知覚能力の早さを越えている。つまり、考えるよりも先に筋肉自身が空気を読み、反射的にリアクションを取るのだ!」
子供が好きそうな理論だ。そんな無茶な理論を叩き斬ってやろうと姫様は短剣を振り上げた。刹那、突風が吹き荒ぶ。王子様がダブルラリアットの如く両腕を伸ばして回転したのだ。
その風に煽られイカの姫様のドレスは弾け飛んだ。ただし、ビキニのように胸と下腹部には海藻が張り付いたままだ。そうそれは大人の事情。
姫様がたじろぐと、今度は王子様が手刀を振り上げ、そして振り下ろした。
間一髪かわす。目標を失った筋肉の刃はそのまま地面を砕き、果ては、出エジプト記よろしく、海を真っ二つに割った。
「どこのモーゼ!?」
威勢良くツッコミを入れたけれども、精神は威勢を削がれていた。こんな筋肉の獣に勝てる訳がない。絶望感パネェ。もはや無理ゲー。クリア不可能。
姫様は自身の不甲斐なさを思い、イカスミ色の涙を再び零して訴えた。
「王子様、私の正体はイカでございます。王子様に再度相まみえたいと願い、こうして人の姿を借りてやって参りました。しかし偽りの逢瀬は儚く、空に赤みが差す頃には私は海の泡となって消えてしまうのです」
短剣を強く握り締め、言葉を続ける。
「その呪いを退ける方法は一つ、この短剣で王子様を貫き通し、命を奪うことでございます。どうか刺されては下さいませんか。我儘であることは十二分に承知しております。ですが、そもそも王子様の命は私がお救い申したもの。もし私を哀れに思うのであれば、どうか」
王子様が、要求を聞き入れたのか、両腕を広げて立ち止まった。
その姿を見て姫様は更に涙を零し、震えながらも両手で短剣を握り直した。迷いはないと言えば嘘になる。だがしかし、姫様にはその身を案ずる家族がいる。
「お許しください!」
そう叫び、姫様は短剣を王子様の六つに割れた腹部に突き立てた。
直後、カキーンッと刀に焼き入れをする時のような甲高く硬い音が鳴った。見れば、短剣の刃が折れていた。
王子様は、衣服が破れはしたものの、一切傷を負った様子はない。
「ハッハッハッ、私の鋼鉄が如き筋肉に刃物で傷を負わすことなど不可能でありマッスル!」
彼は筋肉を誇示するかのように両腕をL字型に曲げ、上腕二頭筋を膨らませた。
「ないわ~」
イカの姫様は呟いた。
※三題噺です。お題は「泡沫の夢」「イカ」「たんぱく源」