零式艦上戦闘機
12月のある日、俺は飛行服に身を包んで滑走路の一角を歩いていた。俺の目の前には、最近制式採用されたばかりの、新型戦闘機が翼を休めている。
名を零式艦上戦闘機一一型。940馬力の中島製「榮一二型」エンジンを装備し、両翼には二〇㎜口径の九九式一号銃を抱える、我が国の技術の粋を集めた戦闘機だ。
こいつの前では、どこの国の戦闘機だって、玩具も同然。まさに、海鷲たちに相応しい、世界最強の戦闘機だ。
俺は、愛機の左翼に回り込むと、足掛けを使って、灰白色に塗り込められた愛機に乗り込む。機体にはすでに整備員が取りつき、俺が乗り込み終わるのを、今か今かと待っている。
肩バンドをし、座席の位置をOPL照準器に合わせて調節すると、俺は声を張り上げた。
「エナーシャ回せ!」
俺の号令に合わせて、整備員がエンジンカウルに接続したクランクを回し始める。すると、それに合わせてプロペラがクルクルと回り始める。
俺はそれが十分に早くなるのを確認してから、次の指示を下す。
「コンターック!」
エナーシャを回していたのと別の整備員が、機体とプロペラを繋ぐクラッチを、勢いよく接続する。それに合わせて、俺は電路開閉スイッチを開く。すると、ドルルルルルルルル! という感じの音がして、エンジンが回り始める。エンジンの調子を確かめるようにスロットを押し込むと、ブオーン! という感じで、エンジンの回転が高まる。どうやら、絶好調のようだ。
「チョーク外せ!」
エンジンの調子を確かめると、俺は車止めに取りついている整備員に見えるように、顔の前で合わせた手を、左右に開く。それを見た整備員が、三角形の木片を持って、機体から離れて行く。
俺は飛行眼鏡をかけると、風防を閉じ、スロットルレバーの横にあるプロペラピッチレバーの留め具を外し、ピッチ角を最低にセットする。
ブレーキを外し、スロットルを押し込むと、機は一気に加速を開始する。背中を椅子に押し付けられるような加速感の中、俺はゆっくりと操縦桿を引き、機を地面から離れさせる。
高度1万m。零下50度の気温のせいで手足は悴み、酸素マスクからの酸素だけでは足りず、頭がガンガンする。だが、そんなことは忘れさせてしまう光景が、そこにはあった。
雲一つない蒼空の中を、俺は飛んでいた。
あるのは、零戦だけ。
どこまでも空っぽの空を、一人で飛んで行く。地上で見るのとは違う、くすんだ青色が俺を包み込んでいる。まるで、死んで空を漂っているかの様だった。
俺は思わず肩バンドを外し、酸素マスクを取り、息を止めると、風防を開いてコクピットの中で立ち上がる。風防に手を付くと、思い切って上半身を機体から出してみる。
瞬間、マスクで覆われていた顔に、冷たい風が直に当たる。口や鼻が瞬間冷却されて痛かったが、そんなことはどうでもいい。俺は今、日本で一番高いところに居るのだ。
機は、元々エンジンさえ動いていれば真っ直ぐ飛ぶように設計されているので、俺が何もしなくても、勝手に飛んで行く。ふと後ろを振り返ると、白く凍った排気が、遥か彼方まで、白く細長い一本の雲を引いている。それはまるで、あの世とこの世を分ける、三途の川のようだ。
いい加減に息が苦しくなってきたので、俺は急いで機内の戻ると、酸素マスクを着け、風防を閉める。
暫くして落ち着いたところで、俺は機関砲のトリガーを引いてみる。だが、案の定というか、凍り付いてしまって、ウンともスンとも言わない。この辺は、将来に向けて改良が必要だろうか?
そうこうしていると、急激に操縦桿の効きが悪くなり始める。俺はサッと計器盤に目を走らせる。速度計、高度計、異常なし。油圧計、正常。油温計、筒温計、少し低めなれども問題なし。
とすると、あまりの低温に、操縦系が凍り始めたのだろう。ここらが、潮時だろうか? 俺は、こっそり持ち込んでいたライカで空を撮影すると、機を翻し、どこまでも青い、地獄のように綺麗で空虚な空を後にする。
参考文献
「祖父たちの零戦」2010年7月20日発行。