第四回 福岡城を築城せよ!?
さて今回は、大河ドラマが黒田官兵衛に決まるまで、散々ほったらかしにされ、決まったと同時に「さも市民の憩いの場で福岡市民のフェイバリットスポットですよ~」と、さも白々しくアピールされている福岡城の、築城されるまでの流れについてお話いたします。
筑前の国主に封じられた黒田長政。関ヶ原の戦いのMVPである彼は、筑前に入部すると、まず小早川氏が居城にしていた名島城に意気揚々と入りました。
その名島城。元々立花氏の出城で、それを小早川隆景が改修したものです。
多々良川河口北岸から博多湾に突き出し、背後を海に囲まれた立地で、武骨な実戦向きの堅城。しかしその反面で、城域が狭く、筑前の経営には向かない。しかも、これからは泰平の世を見越した都市整備をしなければならず、名島城というのは如何にも古臭い。
「どうも気に食わんな~」
と、長政は、城下町の発展を見込める土地探しを家臣に命じました。
企画書「黒田千年王国建設計画」
築城・城下町建設のコンセプト:博多を取り込んだ城下町
早速、住吉・箱崎・荒津が候補地に挙がりますが、どれも一長一短。具体的に申しますと……
①住吉 利点:博多に近い
欠点:平坦で要害にならない
②箱崎 利点:前方は海、多々良川・御笠川に挟まれた要害
欠点:水攻めに遭いやすい
③荒津 利点:三方は海で、南に堀を築けば、要害化が見込める
欠点:土壌が乾いて崩れやすく、築城には不向き
長政「どれもダメじゃん」
結果、第四候補とも言うべき那珂郡警固村福崎(荒津の南東)に決まります。
※その経緯は不明
建設予定地が決定すると、長政の大号令の元、いよいよ築城が始まります。
しかし関ヶ原の戦いのドサクサで貯蓄を使い果たした某軍師のせいで黒田家に銭がありません。そこで、長政は博多に家臣を派遣し、神屋宗湛や島井宗室に資金を(半ば強引に)融通してもらいます。
※一説には、ある程度の自治を博多に認めると取引したとも。
普請奉行は、石積み名人と言われた、野口佐助一成と益田正親(今回は省略)。
佐助は、播磨国加古郡野口の出身でお坊さんの子どもです。父と孝高が囲碁仲間でもあった事から、その家臣となった経緯があり、脳筋黒田武士団にあって、彼も漏れなく武辺者(でも石積みは上手いんだぜ)。
その佐助くんが、長政に築城について相談しました。
佐助「殿、どのくらいの規模にしましょうか?」
長政「大きいの。そして広いの」
佐助「具体的には……」
長政「北を博多湾、東を那珂川、西は金屑川、草ヶ江の入江をそのまま大濠とした壮大なもの希望」
佐助「……」
しかし、そこは石積み名人。四十七の櫓を配し、約二十五万平方メートルに及ぶ縄張りを有した、立派な巨城を築きましたとさ。
※築城の様子は、幕府の隠密が調査し、「探索書」として残されています。
重要な所は有耶無耶にして語りましたが、それは意図的にです。何を隠そう、著者は戦国時代が苦手なのだ!
専門的には元禄以降の福岡藩。よって間違いもあろうかと思いますので、最後に魔法の言葉を残していきます。
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」