第二回 福岡藩は本当に52万石!?
福岡藩は、52万3千余石というのが一般的な石高である。
※秋月藩に分知しているので、正式には47万3千余石。しかし、今回は52万で押し通します。
しかし、福岡藩は52万石なのか?
そんな事を考えてみました。
筑前の前領主であった小早川氏が検出した筑前15郡の石高は30万8461石。そう、筑前15郡は、30万強なのである。
しかし黒田長政が入部した後の再検地により、筑前15郡が50万2416石と算出され幕府に報告。これは実に、19万3955石の増加、62%の増加率という、孔明もビックリなミラクルである。
無論、様々な農地改革で増える事は考えられる。しかし、それは早急に結果が出るものではない。
安川巌氏は物語福岡藩史に於いて「この増加は実際に検地をして、集積した結果ではない」としている。
郡方故実備忘録に於いて、長政は「50万石は欲しい」と言ったと記している。その理由は、幕府内における地位を確保する為。少なくとも豊臣政権内の小早川ぐらいは、と。
また筑前旧租要略によると、小早時代のデータを基本として計算したら50万石に足りなかったので、長政の命令で数字に細工をして計算(基礎数値に1/100を加えた)したという。
※この様なニュアンスです。ん~古語の解読難しい。
つまり、検地をしようがしまいが、長政は50万石としたかったのです。少なく報告した父の孝高とは正反対。
※孝高は中津時代に、長政とは逆に石高を低く報告し、家庫の充実を計っています(古郷物語より)
一方、権力者の見栄で泣きを見たのは農民でした。
実高以上の年貢を要求された農民は、築城&城下町建設の負担も相成って生活がますます困窮化し、多くの逃散を招きました。
しかし、これによって土着勢力である原田家旧家臣や立花・高橋に従属した土豪の力は排除され、藩による民衆の直接統治の形が出来たのである。
これは副産物だと思うが、見越して実施していたなら親父以上の策士ではないでしょうか。