第十九回 三代・黒田光之②~親子二代による統治体制の確立~
怪物である父・忠之が没すると、藩主の座を継いだ光之は、福岡藩の改革に乗り出す。
俯瞰的に見れば、忠之の改革を引き継いだとも言えるかもしれないが、今回は光之の政治を見ていこう。
まず光之は、改革を断行する為に、藩の首脳部に自らの側近で固めた。
それまでの福岡藩は、黒田二十四騎に代表されるように、一部の門閥が藩政を動かしてきた。そこにメスを入れたのが忠之であったが、そうした門閥解体を光之は側近政治を取り入れる事で加速させた。
そこで代表される家臣が、鎌田八左衛門と立花平左衛門である。
鎌田は小堀遠州の家臣であり、忠之の代に福岡藩へ仕えた。島原の乱での活躍が足掛かりとなって、側近に取り立てられた。一方の立花平左衛門は、かの菰野増時の孫であり、子には黒田家に大きな影を落とす立花実山がいる。
※立花平左衛門
どちらも、戦国の御世に黒田家と共に戦場を駆け回った一門ではない。両者は財政に明るく、文治主義者であった。時代が泰平を迎え文官が台頭する中、時代の様相に反映して彼らは栄進していったのだろう。
こうして鎌田・立花の両輪を得た光之は、次々と改革に手を付けている。
目下の懸案事項は、財政の悪化であった。福岡藩は先述したように、一部の門閥が藩内の富を独占していた。それでは福岡藩が立ち行かないと、忠之は門閥解体に乗り出したわけだが、忠之も大いに銭を使った。
まずは、栗山大膳の反乱とも言える黒田騒動。江戸での工作資金など多大に出費があったろう。次に島原の乱。黒田騒動の汚名挽回をしなくてはならなかった福岡藩は、この戦で大いに気張り、それだけに戦費が嵩んだ。そして、藩内各地に創建・復興した寺社の費用。これも忠之の項で書いたが、宗教の保護にも銭を使った。
こうして早くも慢性的な財政難の傾向を見せていた福岡藩を救わんと、光之は様々な事を行った。
一つ一つを駆らると長くなるので、簡単に箇条書きをするが――
・家臣団制度の確立(職制、軍制、禄制、家格の整備)
・家臣への質素倹約、生活モデルの提示
・植林
・防波堤と灯台を整備し、海運の強化
・小石原村への陶工誘致
・今宿、勝浦浜、山鹿浦の干拓工事と新田開発
・桝の統一
・地方統治体制の整備
・新税の導入
念頭には財政改革があり、その為に無駄を省く家臣団の整備が行われたが、結果的にそれらが、福岡藩の統治体制の確立に繋がったと言える。
こうしてみると、福岡藩というものは忠之と光之の二人によって、基礎が作られたと言えよう。
如水は黒田家を興し、長政は黒田家を諸侯に押し上げた。そして、忠之が戦時体制を改め、光之が統治体制を確立した。
光之は大名としては尋常ならざる生まれを持ち、希代の暗君とも呼ばれる父を見て育った。そして、父の後を継いで福岡藩の支配を盤石なものに変えた。
しかし、怪物の子も怪物だった。
今回は光之の治世でも光の部分を説明したが、次回からは闇の部分を見ていきたい。
伊藤小左衛門の抜け荷事件。
そして、第二次の黒田騒動である。




