第十八回 三代・黒田光之①~怪物の後継者~
黒田光之。
かの蕩児、黒田忠之の嫡男として生まれました。
生誕地は、早良郡橋本。鷹狩の帰りに当地で坪坂(後に新見に改姓)という浪人の娘(後の養照院)を見初めた忠之は、彼女を御城に連れ帰ります。
そして、避妊をしない性交の末に妊娠。彼女は橋本に戻り男児を出産します。この子供が、第三代藩主となる光之です。
※光之誕生の地(坪坂氏屋敷跡)
ですが、この時の忠之には正室がいました。関宿藩主松平忠良の次女・梅渓院です。父の黒田長政や、後に謀叛を起こす栗山大膳は、忠之に身を固めて更生を促したかった意図があったのでしょうが、当の忠之はお構いなし。鷹狩りの帰りに娘を連れ帰り、妊娠させたのだから家中はさぞ騒然とした事でしょう。しかも、子供を産んでいない身分ある正室を差し置いてです。梅渓院の父は松平忠良。祖父は松平康元で、神君家康の異父弟なのですから、粗略には扱えません。なのに、忠之ったら……。
こうなると、光之と養照院の立場が微妙です。いっその事、亡き者にと思った者もいたでしょう。それを察するように、忠之は養照院を実家に戻し、そこで出産させたわけですが、ここで黒田家恒例のミラクルが起こります。
そう! 光之誕生から二か月後、梅渓院が亡くなるんです。二十三歳の若さでした。
……。
そう言えば、忠之の時もそうでしたよね。こうしたミラクルは、黒田家でよく起こるので不思議なものです。
※第十六回参照
こうした梅渓院の死があり、晴れて養照院は継室となり、光之は世子となる事が出来ました。
17年12月現在、光之のWikipediaの記事には、忠之と養照院は不仲だと書かれておりますが、彼女は非常に賢く、そして人格者として知られ、忠之を終生支えたと伝わっています。
また書籍によって記述はまちまちですが、光之の性格は忠之より養照院の血を濃く受け継いだとも言われています。蕩児であった父に比べ、そうしたエピソードがなく、文化や学問を好んだ事から、その性格が察せられます。
さて世子となった光之は、江戸で次期大名となるべき教育を受けて育つわけですが、父・忠之が承応三年に重い病で倒れてしまいます。
江戸にいた光之は、急いで帰国したわけですが、帰ってみると忠之は意外と元気にしていて、
「俺は元気やけん、明日帰れよ。お前の仕事は幕府を助ける事やんね。いつまでも福岡におったらいけん」
と、諭しました。
心優しい光之は、忠之と離れ難く拒否しようとしますが、父の命に背くのも不忠不孝と翌日には福岡を発ちました。
何とも、涙ぐましい親子愛でしょう……。
これが、蕩児が郊外に住む無位無官の浪人の娘に産ませた我が子との、最後の別れになりました。
家譜にはこうあります。
「是ぞ誠に父子のながき御別になりける」
何とも、情愛に溢れる一文ではないでしょうか。僕は二人を不仲だと思っていました。事実そう語る郷土史家もいます。が、それは違ったようです。
それを示すのは、二人の墓。この親子は菩提寺として多くの藩主が眠る崇福寺ではなく、東長寺に並んで葬られているのです。
※黒田忠之公墓所(福岡市博多区東長寺)
※黒田光之公墓所(福岡市博多区東長寺)
父の死を受け、第三代藩主となった光之。
折しも、島原の乱を受けて福岡藩の財政は悪化の兆しを見せていました。そこで文治主義であり、文化や学問に強い興味を持っていた彼の登場は、家中は期待を持って迎えます。
で・す・が!!!
稀代の怪物であった忠之の子である彼もまた、怪物だったのです。
しかも父親にはなかった、流血をも欲するほどの――。
次回は、光之の治世について語っていきます。




