第十七回 天草・島原の乱~福岡藩軍、かく戦えり~
寛永十四年十月二十五日。天草・島原で叛乱が起きた。
困窮とキリスト教弾圧に耐えかねた百姓が、生存権を賭し幕府に戦いを挑んだのだ。
この幕末に至るまでで最後となる本格的な内乱に、福岡藩も駆り出される事になるのだが、今回は福岡藩がどのように関わっていったのか、読み解いていきたい。
まず福岡藩が一揆を知ったのは、佐賀藩からだった。島原藩家老である田中宗夫・岡本新兵衛・多賀主水が佐賀藩に知らせ、更に藩主・鍋島勝茂の留守を守っていた多久美作から、福岡藩へ連絡を入れたのだった。
この時黒田忠之は江戸にいて、家老の黒田美作(以下、美作と書く)・黒田監物・小河内蔵允が留守を預かっていた。三名は規定通り豊後府内の目付(林丹後・松平甚三郎・牧野傳蔵)へ報告し、加勢を出すべきか伺うが、目付は「江戸からの下知がない以上、動いてはならぬ」と制せられる。おそらく、戦国武将である美作が言い出したのだろう。彼は福岡藩軍の総帥であり歴戦の勇将である。
状況が判るにつれ事態を重く見た幕府は、征討使として板倉重昌を派遣。福岡藩を含む諸藩に、藩軍の動員を要請し、福岡藩軍(及び支藩)も従軍する事となる。
第一次征討に出陣した将官級は以下の通り。
福岡藩軍:黒田半左衛門、岡田作左衛門、大音六左衛門
秋月藩軍:室田孫之允、牧善兵衛
東蓮寺藩軍:吉田太郎衛門、加藤勘兵衛
兵数は四千も満たない数字だっただろう。つまり第一次征討に於いては一部勢力の出兵に留まり、藩軍の全力を挙げたわけではなかったのだ。
これは福岡藩だけではなく諸藩も同じで、板倉自身もおそらくこの程度でいいと、安易に考えていた事が原因になったと思われる。
さて、板倉率いる幕府軍を待っていたのは、地獄だった。
数度に渡る総攻撃は、意気軒昂な一揆軍の前に何度も敗退。さらに幕府軍内には、その中核を担う外様藩軍間で軋轢が発生。板倉を軽く見る者、抜け駆けをする者と相次ぎ、指揮系統に混乱が発生する。
見かねた幕府は、知恵伊豆こと松平信綱の派遣を決定するが、これを知った板倉は焦り、無暗な突撃を繰り返した挙句に戦死する事になる。
なお、福岡藩でも戦死者が続出し、東蓮寺藩軍の指揮官だった加藤勘兵衛も戦死している。
板倉の死は幕府軍を動揺させ、信綱はいよいよ総動員を命じた。
福岡藩は支藩含む総勢、一万四千九百二十三名を動員し、忠之と美作が率いた。これは福岡藩軍が持つ最大限の兵力で、いよいよ全力を出したのである。
※黒田美作
美作は家老でありながら、幕府軍内では大名格(つまり将軍待遇)として扱われ、経験豊富な軍略を用いて、信綱を助けたという。
第二次征討での福岡藩軍は、忠之の下知で猪突猛進の突撃を繰り返した。まるで、黒色槍騎兵艦隊である。それを命じた忠之には、黒田騒動で助けられたという負い目が幕府にあり、その汚名返上の気持ちがあったのだろう。
原城一番乗りを果たし叛乱を鎮圧したが、かなりの犠牲を払った。有名どころでは、忠之の義弟である新見太郎兵衛と、黒田騒動で追放されたのに関わらず、危機とみて参戦していた倉八太夫が戦死している。
天草・島原の乱が福岡藩に残したものは、財政破綻だった。
軍費や戦死者家族への補償、そして新たに命ぜられた長崎警備で収支の均衡が破綻し、以降この財政をどう再建するかが、忠之以降の藩主に課せられる問題になっていくのである。
今回、かなり端折って語って来たが、正直この叛乱は「沼」という表現が適切なほど、底が見えない深さがある。福岡藩の記録だけでも膨大であり、僕が参考にしている新訂黒田家譜でも、藩士ひとりひとりの活躍っぷりが記され、かなりの項を割いている。興味がある方はどっぷり浸かるといいと思うが、正直僕は概要だけでいいかな、と軟弱にも思っている。ここだけで、人ひとりの一生を費やす可能性があるほどなのだ。
久し振りの更新となり申し分ありません。次回から三代藩主・黒田光之を語る予定です。




