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第十六回 悲劇の御曹司・松壽君~隠された二代目~

挿絵(By みてみん)

 人とは、何と絶妙なタイミングで、人生の舞台から降りるものか。歴史というものを嗜んでいると、そう思う事が多々ある。

 福岡藩で言うならば、黒田忠之の側室であり恋女房である養照院が黒田光之を生んだ二か月後、正室・梅渓院が亡くなっている。そして、まだ語ってはいないが、黒田継高の後継者を巡っても、タイミングよく亡くなっている者がいる。

 今回は、その絶妙なタイミングで亡くなり、かつ長い間、黒田家から無視されていた悲劇の御曹司、松壽について語ろうと思う。


 一柳直末ひとつやなぎ なおすえという男がいた。

 生まれは、美濃国厚見郡西野村。土豪の家に生まれ、秀吉の黄母衣衆として仕えた。

 熊、と称されるほどの武辺者で、その驍勇を以て秀吉に愛されたが、小田原征伐中の伊豆国山中城攻めで、銃弾を受けて戦死。秀吉は大層その死を悲しんだという。

 その直末の妻が、孝高の妹・心誉春勢であった。直末の死後、孝高は妹を引き取り、その死後に生まれたという直末の子に、松壽という名を付けた。これは、長政の幼名と同じである。

 孝高は、松壽を大変可愛がり、自分の死後も松壽に自分の家臣を引き継がせ、篤く遇するようにと長政に言い聞かせている。

 さて、その長政は長く子に恵まれなかった。大河ドラマ「軍師官兵衛」でも、正室・糸姫との仲は描かれたが、その糸姫との間に子が出来ず、政局の関係もあって糸は離縁させられてしまう。

 後継ぎを残す事が第一とも言える時代である。悩んだ挙句、孝高は養子とした松壽を、長政の後継者にする事を決めた。

 松壽は、〔今世の張良〕から認められるほどの聡明な少年で、長政もこの従弟を可愛がったが、新たに迎えた継室・栄姫との間に、男子が誕生してしまう。この子が、二代藩主となる忠之である。

 すると、松壽の立場が危うくなる。彼は黒田一門であるが、嫡流ではない。長政としても、我が子を継がせたいと思うのは当然の親心。その時、松壽十二歳。己が立場も理解出来ていたであろう。


 そうした中、事件が起こる。

 慶長8年(1603年)の春の事。松壽は朝鮮人の小姓(朝鮮出兵で黒田家に加わった朝鮮人であろう)とチャンバラ遊びをしていた。そのチャンバラには、鞘に納めたままの真剣を使用していた。唾と鞘を固く紐で結んでいたので、大丈夫と思っていたのだろう。しかし、朝鮮人小姓が松壽を打った時、その鞘が壊れて松壽を斬ってしまったのだ。そして、松壽はその傷から回復出来ず、3月1日に息を引き取った。十三歳の事であった。


 忠之誕生の翌年に、謎の事故死。しかも捨石にしやすい、マイノリティともいうべき朝鮮人小姓の不始末によってである。これは、怪しい。怪し過ぎる。陰謀論を信じない人でも疑うような、絶妙なタイミングである。勿論、大河ドラマでもスルー。これは黒田家の秘匿であり、孝高の遺言状からも公にはカットされた。※朝鮮人小姓の消息は不明。


 松壽の死から約一年後に、孝高が亡くなる。その一年を、彼はどう思って過ごしたであろうか。悔やんだという人もいるが、僕は案外ケロッとしていたと思う。もしかしたら、黒幕であったかも、とまで。彼は戦国の男なのだ。命の価値が、毛ほどにもない時代の。後々の禍根は自らの手で摘む。それが少年の一生を台無しにした責任であろう。自ら蒔いた種でもある。



 だが、話はこれで終わらないから面白い。

 長政は、この松壽を聖福寺に葬った。その際に、長政の命令で掩土の導師となったのは、九皐宗疇という妙心寺派の僧侶だった。当時の聖福寺は建仁寺派で、これが切っ掛けで黒田家と聖福寺は問題を抱えてしまう。業を煮やした長政は、聖福寺を強引に転派させ九皐宗疇を住持とするわけだが、何故かその最中に大宰府より崇福寺を千代に移転復興させ、そこを菩提所とした。長政は何を考えていたのだろうか(汗)


 それから二百年。崇福寺が菩提所故に、松壽の墓は荒れに荒れ、墓参をする者は絶えていた。

 その現状を悲しんだのが、博多のヒーロー・第123代住持の僊厓義梵せんがい ぎぼん。仙厓和尚である。

 和尚は、松壽200回忌を前にした、享和2年(1802年)正月に、何の法要もしない福岡藩庁に対して痛烈な批判を行い、同年3月に黒田家による法要が行われたという。しかし、それ以降に法要が行われた記録はないという。


挿絵(By みてみん)

※松壽の墓


 なお、松壽の母である心誉春勢は伊藤是庵と再婚。もし引き取っていれば、少なくともこうした最後は迎えていないはずであり、心誉春勢は黒田家に我が子を預けた事を悔やんだであろう。


 以上、これが悲劇の御曹司、松壽のあらましである。黒田ファンには松壽にも是非目を向けて欲しいと切に願います。



 最後に、この話を僕に教えて下さいました、聖福寺第133代御老師と福岡市博物館学芸課主査の堀本一繁先生には心から感謝致します。

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