第十五回 シリーズ黒田騒動④~黒田騒動とは何であったか~
誰も死なず、転封・改易もなされず、結果として栗山大膳と倉八太夫だけが追放されるだけに終わった、黒田騒動。
日本三大お家騒動でありながら、伊達騒動や加賀騒動のように、一滴の流血を見ずに終結した、この不思議な騒動について、シリーズの最終回となる今回は、私見の総まとめをしたい。
黒田忠之が、第二代福岡藩主を継いだ時、福岡藩は総石高五十三万石の中に、己が裁量で支配する小国が乱立するという、旧態然とした状態にあった。その割合は、四十三%と約半分であり、三十二家の功臣がその富を独占しているという、極めて歪な状況だった。
無論、三十二家はそれだけの功績があった。彼らこそが、精鋭無比の黒田武士団の中核なのだ。彼らがいて、はじめて黒田如水や長政の知略が成功されたと言っていい。故に、如水も長政も、彼らに対し最大限の礼で報いた。その結果が、この歪な支配体制を生んだわけだが、藩主になった忠之は、そのような事を気にしなかった。それには理由があり、忠之による大膳への発言から、彼の真意が窺える。
「別に、お前が功績を挙げたわけじゃないっしょ」
※忠之が倉八に栗山備後の兜を下賜しようとして、怒鳴り込んできた大膳に吐いた言葉。
この時、三十二家の当主は殆ど代替わりし、戦国を知らぬニューエイジが占めていた。そう、忠之にしてみれば、三十二家など〔ただの人〕なのだ。そのただの人が大禄を得て、領主風を吹かしているから気に入らない。また、この歪な支配体制を改革し、中央集権的支配に移行させねば、福岡藩の未来は無いとも考えていた。何しろ、残りの五十七%で藩士の給金や領国経営、手伝い普請に必要な資金を調達せねばならないのだ。これは、甚だ難しい話である。
そこで、忠之は三十二家を尽く潰すという荒業に出た。ブルドーザー改革である。乱暴だが、最短距離で目的を達成出来得る政策だったと言えよう。
当然の如く、異論や不満もあった。忠之の改革は、名門三十二家の生存権を否定するが如き所業なのだ。だが、誰もが黙した。公然と反対を唱えれば取り潰しされるのは目に見えているからだ。
そうした状況で立ち向かったのが、栗山大膳だった。名門三十二家筆頭にして、忠之の教育係。そして、最大の敵と呼べる既得権益保持階級の代表たる男である。
大膳は自らの生存権を死守する為に、改革反対を幕府に訴えるという、こちらも荒業に出た。しかも訴えは改革の反対ではなく、「黒田に謀叛の動きあり」という、際どいものだ。忠之を追い落とし、後釜に舎弟の誰かを据えるか、これを機に独立大名化を目論んだのだろう。通説では主君を諌める為とあるが、この時期に謀叛の疑いは、正気の沙汰ではない。諌めるにしても、やり過ぎなのである。これでは諌めた後に施政を為す国が無くなってしまう。それほどの所業なのだ。
だが、大膳の乾坤一擲の策は功を奏さなかった。幕府裁定は、事実上の忠之勝利。大膳は盛岡へ退去。道連れに出来たのは、忠之ではなく、小物と見下していた倉八太夫であった。さぞや悔しかったであろう。
大膳無き後は、忠之の中央集権もとい絶対君主制は確立され、その力は絶頂期を迎えた。東長寺にある忠之の墓の大きさを見れば、その力の程を知る事が出来るので、機会があれば見学されるとよいだろう。
以上が、黒田騒動の私見である。
騒動の影響から、忠之が長く暗君とされ、大膳は忠臣とされてきたが、僕はそうではないと考えている。忠之は暴君であれ暗君ではなく、大膳も梟雄であれ忠臣ではない。忠之が暗君ならば、これほどまでの改革を為せなかっただろう。そして大膳も、忠臣ならば謀叛の疑いがあるかのような博打は打たなかったはずだ。
また、この騒動で幕府が温情的な沙汰をしたから、福岡藩はそれを恩と感じ、幕末には佐幕的な態度を貫いたという話もある。僕はそれを否定しているが、それについては幕末篇で語る事にする。