第十四回 シリーズ黒田騒動③~主家、滅ぶべし~
黒田騒動を語る上で、無視できない男がいる。
かつては、身を呈して主家を守った忠臣として描かれ、現在では既得権益を守る為に主家に楯突いた叛臣と描かれる男。
黒田如水の参謀にして、最大の功労者たる栗山備後の子、栗山利章。そう栗山大膳である。
大膳は、天正十九年(1591年)に誕生。戦国も終わりを告げる頃で、同年代には豊臣秀頼・伊達秀宗がいて、彼がニューエイジである事が判る。
大膳は備後の跡目を継ぎ、黒田家でも屈指の勢力を有する事になる。その石高は、ざっと二万石。彼の領地は上座郡一帯で、左右良城に本拠を構えた。二万石の内、自分の取り分を一万二千四百十石とし、残りを馬上格の家臣三十九人に分け与えている。上座郡の総石高が二万一千二百石であるから、その力の程が知れる。
この状況を、福岡藩という国の中に、また別の主従と支配体制を持った国があるという風に考えると理解し易いと思う。また、こうした小国が栗山家のみでないという事も、黒田騒動を考える上で、無視出来ない事項でもある。
先にも述べたが、福岡藩創設の功臣三十二家が、総石高の四十三%を知行として握っていた。つまり、栗山家を筆頭に功臣達が己の国を形成し、その連合という不安定な玉座の上に、如水も長政も、そして忠之も君臨していたわけである。さぞや、藩主家は功臣達に気を使った事であろうし、これが忠之を改革に走らせた原因でもある。
さて、大膳は一般的に〔武断派〕或いは〔質実剛健な武士〕という印象があるが、史料を紐解けば、実はそうでもない。彼の実戦経験は、記録に残る限り初陣である大阪の陣のみ。忠之も大阪の陣が初陣であるから、経験の差は殆ど無い。大膳は養育する忠之に「ちゃんといつ戦があってもいいように、武士らしくしろ!」と叱った際に、忠之は「てめぇも戦を知らんだろう」と思った事だろう。
この大膳、武断派ではなく、文治派というべき男だった。特に行政官としての能力に秀で、家督相続前から、長政の側近として仕えていた。
その最たる功績は、遠賀川流域の洪水調整や灌漑、水運を目的に、遠賀川から洞海湾に通じる堀川の工事だろう。これは長政の死により中止され、「まずは城下とその近郊の整備」という政策を採った忠之により頓挫したが、僕が大好きな六代藩主・継高により再開され、十二年後に完成。今では〔大膳堀〕という名が残っている。個人的には〔継高堀〕にすべきと思うが(笑)
長政の側近として働き、忠之の代には宰相が如く振る舞っていた大膳は、誇り高い男だった。それが行き過ぎて、横柄かつ傲慢不遜。目上の功臣を呼び捨てにする事もあれば、とある村の守り神である大亀にガンを飛ばされた事に腹立ち、鉄砲で撃ち殺した事もある(これは、大亀が人を襲うから殺したという伝承もある)。彼のそうしたエピソードは、意外と多い。イメージ的には、石田三成というものかもしれないと、僕は思っている。頭が切れて、融通が利かない辺り……。
そうして福岡藩宰相として君臨した大膳だが、忠之が徐々にコントロール出来なくなるやいなや、騒動を起こすに至る。
すったもんだで騒動が決着し、筑前退去が決まった大膳は、恐るべき行動に出たと、細川家史料が記しているので紹介したい。
それは、槍百本・鉄砲二百五十挺・騎馬武者五十からなる七隊の軍団を編成し、福博両市を威嚇し、騒然とさせたというもの。よほど退去が悔しかったのかもしれない。なお、この時に忠之が藩軍に討伐命令を出さなかったのは、幕命により「手を出すな」と言われていた為であろう。大膳もそれを知って挑発したのかもしれない。何とも、憎たらしい男である。
(多分)涙を堪え盛岡に流された大膳は、意外と悠々自適に暮らしたそうである。
息子の大吉は南部藩主から内山姓を貰って藩士となり、その大膳は当地で妻を娶り、娘が生まれているという。
以上、栗山大膳について触れたが、僕は前々から述べているように、終始忠之視点で述べているので、ご容赦願いたい。
僕には、中央集権という近世大名化を図る忠之に、公然と立ち向かった大膳が、福岡藩の癌であったように見えるのだ。ただ、そうした大膳に共感はしないが、非難もしない。彼は、自らの生存権を主張したに過ぎないのだから。
最後に、栗山大膳の敵として描かれる、倉八十太夫について。
彼は二百石という鉄砲頭の息子として生まれるが、忠之に気に入られ、みるみる出世した人物。(多分、男色的意味合いもあったであろう)倉八は、忠之の片腕たる経済官僚として様々な政策を打ち出していくのだが、これが大膳の癪に障り非難される事態に陥ってしまう。が、当の倉八は大膳と争わぬように、最大限の気を使っているから笑えてしまう。時には髷を切って謝罪まで……。面倒臭い大膳に絡まれて、さぞ迷惑な事だった事だろう。
そんな倉八は、騒動の処置で福岡藩を放逐され、高野山で隠遁生活に入る。そうなっても食い扶持は福岡藩が与えているので、ある意味でスケープゴートされた倉八への同情の表れだったかもしれない。
倉八は、大膳を忠臣とする余り、長く佞臣として描かれてきた。今でもそのイメージは覆っていない。しかし、倉八は天草の乱の折に、忠之率いる福岡藩軍の為に駆けつけ、華々しく討死をしている。放逐されても忠義を貫いたのだ。
騒動後、栗山姓が禁じられた大膳と、現在までその名跡は残り、幕末にも活躍した倉八。さて、どちらが忠臣で佞臣であるか。