第十三回 シリーズ黒田騒動②~毒婦お秀の実像と新見一族~
黒田騒動というものは、題材として歌舞伎や映画、小説に取り上げられていますが、史実と創作の差が非情に大きいものがあります。
その差異が、黒田忠之が暴君として、栗山大膳が忠臣とされてきた背景でありますが、今回はその最たる存在、お秀の方について語りたいと思います。
お秀の方は、忠之に見初められた女で、美麗抜群であるが奸智に長けた毒婦として物語に登場します。騒動解決後には死んだり放逐されるのが大方の筋ですが、その存在は創作で、どう探しても史実には登場しません。
ですが、このお秀の方のモデルを史実に求める事は出来ます。それが忠之の継室・早良郡橋本に住む坪坂という浪人の娘(後に新見に改姓)、養照院。
忠之は鷹狩りの帰りに、坪坂の娘を見初めて福岡城に側室として連れ帰ります(鷹狩りの帰りにお秀を……という描写の作品もあります)
※出会った場所とされる橋本八幡宮
そして懐妊し、橋本で三代藩主となる光之を出産します。
※光之誕生の地(坪坂氏屋敷跡)
都合よく(?)光之が誕生した二か月後、正室の梅渓院が二十三歳の若さで亡くなります。
正室の死を受け、養照院は光之と共に黒田美作の屋敷に預けられ、満を持して継室になります。彼女は非常に賢く、そして継室という身分を弁えた人格者として知られ、改革を進める忠之を終生支えたと伝わっています。
お秀の方とは随分と違いますよね。ですが、正室の死を乗じて、継室の座をゲットする辺りはもしかして……。
そして、養照院には新見太郎兵衛という弟がいました。
※新見太郎兵衛
忠之に三百石の武士として仕え、義弟として卑怯な振る舞いは出来ないと精勤し忠誠を尽くしたようです。
そして、太郎兵衛は千石取りになった時に島原天草の乱を迎えると、無足組組頭として福岡藩軍を率い奮戦。しかし寛永十五年二月二十日の攻撃で、二か所の矢傷と五か所の槍傷を受けて討死しました。享年二十七。
太郎兵衛は、その遺言により光専寺に葬られました(墓は福岡大空襲により焼失。現在は碑が残る)
以上のように、新見一族は浪人の身分から引き上げてくれた忠之に、身命を賭して尽くしました。ここが、創作との大きな差異ではないでしょうか?