第十二回 シリーズ黒田騒動①~大山鳴動し、鼠一匹~
黒田忠之篇が終って光之篇に移る前に、やはりこれは語らねばなるまい、逃れる事は出来ない事件があります。
今回は、日本三大お家騒動にも数えられている割には地元では殆ど知られていない〔黒田騒動〕について、数回に渡り語ろうと思います。
私本黒田太平記をわざわざ読んで下さっている皆様は、概略ぐらいはご存知だろうと思いますが、このお家騒動は非常に妙な、不思議な珍騒動なのです。今回は、その概略と珍妙さについて少し触れたいと思います。
まず黒田騒動とは何ぞや? と、簡単に説明すると――
藩祖・黒田長政が死ぬと、跡目を継いだ黒田忠之は倉八十太夫を筆頭に側近を形成し、好き勝手に政事を取り仕切ります。そんな忠之に対し、福岡藩の宰相たる栗山大膳が何度も諫言しますが聞き入れられず、このままでは先行きが危ういと、日田代官であった竹中采女正に忠之に叛意ありと直訴。すったもんだの末に、忠之は所領を取り上げられたが、その日の内に戻され、また大膳は盛岡に配流、奸臣とされた倉八十太夫は高野山に追放という結果を迎えました。
さてお家騒動というものには、決まったパターンがあります。
一、一族内の内紛:二月騒動、天文の乱、伊達騒動
二、跡目争い:花倉の乱、お由羅騒動、津軽騒動
三、派閥争い:牛方馬方騒動、和霊騒動、
四、君臣対立:お下の乱、七家騒動
以上のようなパターンに、愛妾や弟君、悪家老が加わるというのが一般的なお家騒動ですが、この黒田騒動には四の君臣対立ではあっても、愛妾も弟君も登場せず、あくまでも黒田忠之と栗山大膳の個人的な、二人だけの対立なのです。倉八十太夫が悪家老的なポジションかもしれませんが、彼は決して悪家老でもなく、終始大膳に気を使っている姿が、記録から読み取れます。よく女を勧めたとか、奇行を勧めたなどと書かれますが、そんな証拠は全くないですし、よくよく精査すると単なる脇役に過ぎません。
また騒動の背景には、藩主専制の中央集権化を目論む改革派と戦国古来からある黒田家の形を残そうとする保守派の争いという印象を強く感じますが、それは史実
として残っているわけではありません。少なくとも、大膳は徒党を組んでおらず、あくまで〔俺VS殿様〕だったのです。
もう一つ、この騒動が特殊な点は、死者が0という点です。
これだけの騒動ながら、斬罪・切腹は0。忠之は引き続き藩主、大膳は盛岡で百五十人扶持を貰って安泰。倉八十太夫は前述したように高野山に追放されましたが、福岡藩から扶持をもらって暮らしました(島原の乱が起こると、福岡藩軍に馳せ参じて戦い、討死)
以上のように、騒動では誰も犠牲になっていません。当時は、藩主家を上回るような、絶大な権力を持つ家臣を排除する時代の流れがありました。それを死者0で抑えられたケースは稀有なものだと思います。
黒田騒動とは、まさに「大山鳴動し、鼠一匹」というもので、それが珍騒動たる由縁です。家臣や領民は「いいから早く仲直りせいや」と思ったにちがいありません(笑)