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第十一回 二代 黒田忠之⑤~稀代の怪物、黄昏に死す~

 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。


 強大な権力を有した独裁者にも、魂の黄昏は訪れる。それは、生を受けて誕生せし者の、逃れ難き宿命というもの。

 戦乱から平和な時代への過渡期に生まれ、御家騒動が起こりながらも藩主権力を強化し、福岡藩内の中央集権を確立した黒田忠之にも、最後の時を迎える。


 今回は、忠之の晩年と死、その死後について触れ、これをもって忠之篇の最終回としたいと思います。

挿絵(By みてみん)

 ※黒田忠之公墓所(福岡市博多区東長寺)


 まず、彼が体調崩した所から見ていきましょう。


 それは承応二年九月四日の夜、忠之五二歳の事。

 福岡在国中であった忠之は、突如鼻血を流した。新訂黒田家譜には〔鼻衂の病〕とあり、それは鼻血の事とされます。

 これにより、忠之は毎年恒例の長崎に寄港していたオランダ船の見送りを延期。その後、些か体調が良くなったのか、十月二十三日に長崎へ向け出発。そこで長崎奉行の面々と会談し、早々に帰国の途につきますが、同月二十八日に諫早にて中風を起こしてしまいます。

 中風とは、現在では現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなどを指す言葉として用いられますが、この時代は東洋医学の解釈にて、熱・発汗・咳・頭痛・肩のこり・悪寒・悪風を指すとの事。しかし、家譜には〔中風初めて起こる〕とあるので、中気の事かもしれません。

 ただ、この病は軽かったのか、十一月一日には諫早を出発。ゆるゆると進み、十二日に福岡着。その後は回復し、翌十二月の上旬には、遠賀郡の底井野に狩りに出掛けています。

 しかし、同月十日。底井野にて中風が再発。福岡に戻った忠之は養生に専念し、長崎から向井玄松という医師を招聘しています。


 そして、明けて承応三年。忠之の重い病を江戸で知った光之は、急いで帰国し一月十四日に帰国。帰ってみると、忠之は意外と元気にしていて、

「俺は元気やけん、明日帰れよ。お前の仕事は幕府を助ける事やんね。いつまでも福岡におったらいけん」

 と、諭しました。

 光之は、忠之と離れがたくそれを拒否しようとしますが、父の命に背くのも不忠不孝と、翌日には福岡を発ちました。涙ぐましい親子愛……。

 これが、元放蕩児とそれが郊外に住む無位無官の浪人の娘に産ませた我が子との、最後の別れになりました。

 家譜にはこうあります。

「是ぞ誠に父子のながき御別になりける」

 何とも、情愛に溢れる一文ではないでしょうか。僕は二人を不仲だと思っていましたが、それは違ったようです。

 それを示すのは、二人の墓。この親子は崇福寺ではなく、東長寺に並んで葬られているのです。

「是ぞ誠に父子のながき御別になりける」

 と、いう言葉を二人の墓前で思うと、目頭が熱くなるものがありますね。


 話は逸れましたが、忠之はこの後また元気になります。二月十一日には顔色が良いので、城内で隼を放ち、また池の水鳥を観賞し、帰りには馬場に寄って、福山長助らの馬術を心静かに見物しました。それから屋敷に戻った忠之は、茶の湯や音楽を楽しんだという。

 家譜には、

「馬・鷹・茶湯・音楽の四の品、一日の内に残らず心のどかに見聞し給う」

 と、あります。忠之は、自分が愛した全てを一日の内に楽しんだ事になり、彼には何か思う事があったのでしょう。

 しかし、その夜。床に入った忠之は、中風が起こり痰咳たんぜんがしきりに出て、顔色が悪くなります。家老や近習は集まり、回復するよう手立てを講ずるか、その甲斐もなく、二月十二日に黄泉へ旅立ちました。


 なお、忠之の死に際して、殉死者が出ました。

 田中五郎兵衛栄清。

 竹田助之進義成。

 長濱九郎右衛門重勝。

 深見五郎右衛門重昌。

 尾上二左衛門勝義。

 明厳院(山伏の秀栄)。

 この者らの墓(明厳院を除く)は、忠之公の墓前にあります。

 明厳院という者は、忠之・光之に気に入られた山伏だったらしい。修験道界隈では不評だったといいますが、詳細は不明。今後の研究課題とします。


 以上が、忠之が死ぬまでのあらまし。


 忠之は、生まれるべき時に生まれた男だと、僕は思います。

 戦国の気風が色濃く、二十四騎の子弟が偉そうに振る舞う時代に藩主になり、御家騒動をものともせずにブルドーザー式に改革を断行。藩主権力を高め、中央集権の平時体制に黒田家を移行させた。


 家譜にはこうあります。

 年長を敬う志は深く、幕府には忠勤を尽くし長崎警備を勤めた。

 その性格は剛直で勇猛だった。

 下の者には威厳を持って接していた。

 声は透き通り、端正な容貌を持つ。

 常々質素に生活し、派手な贅沢を嫌った。

 邪な心を持たず、汚職を憎み、故に家中には不正を成す者は少なかった。

 本当に、近世稀に見る英武の君主であった。


 流石にこれは言い過ぎだが、世間の評価と僕の認識は大きな隔たりがある。彼を世間では〔バカ殿〕〔暗君〕と評価する。忠之と検索すると、必ずその文言が出る。

 確かに、彼は放蕩児だった。しかし、誰にでもあるだろう。

「昔はヤンチャした」

 と、いう時期が。

 昔はヤンチャした人でも、大人になると立派になったという例は多い。彼もそうなのだ。だが、世間はその放蕩時代のみの評価をする。それは悲しい事です。

 彼は、自分に課せられた責任を果たしたのです。そんな彼がどうして暗君でありましょうか?


 今回、僕は忠之を褒め倒しました。これは敢えてです。世間の真っ黒な評価に、真っ白な絵の具を加えるようなもので、これでグレーになればいい、再考の切っ掛けになればいいという狙いからでした。これを読まれた一人一人が、黒田忠之の為した政治について今一度考えてくれればいいなと思い、締めくくらせて頂きます。

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