第八回 二代 黒田忠之②~我、暗君に非ず~
まず、誤解を解かねばならない事が一つ。
黒田忠之という男を知る上で覚えて欲しい事は、遊蕩に耽り藩政を顧みなかった、そうしたステレオタイプの暗君ではないという事だ。
彼は、家督相続直後から、熱意と意思をもって藩政に挑んだ。新しい人材を抜擢し、領民の為に新たな殖産を導入。宗教(真言宗・神道)・文化(松囃子など)を保護し、桜井神社や愛宕神社などを僻地に建てる事で、地方に銭を落としたのだ。
であるから、まず忠之が劉禅ばりの主君だったとうう先入観はまず捨て、本稿を読ん欲しいと思う。
物は言い様。それは否定的な意味で捉えられがちである言葉だ。
だが裏を返せば、それだけ物事は多面的で、意味も意義もあるという事でもある。
黒田忠之の治世、ひいては黒田騒動とて然り。善きにしろ悪しきにしろ、〔物の言い様〕で、現代に大きな謎と議論を残した。
今回は謎が多い黒田騒動の流れは敢えて避け、その意味と裏側だけを推理していきたい。
さて、彼の治世を言葉で現すと「最大多数個人の最大幸福」ではないだろうか、と僕は常々思っている。勿論、忠之がベンサムの功利主義を先駆していたわけでなく、敢えて言うとではある。
まず、彼が藩主になった頃の福岡藩と時代について見ていきたい。
この時代は、戦国の気風が未だ色濃い。藩主に指導力が要求され、家臣も仕えるに能う藩主を選び、かつ武断的な組織体制から文治的な近世大名化と藩主権力の確立を図らねばならない、難しい時代だった。
その時代に忠之は藩主になったのだが、この時の福岡藩は大きな矛盾を抱えていた。
福岡藩創設の功臣三十二家が、総石高の四十三%、つまり国家の富の約半分を握っていたのだ。勿論、これでは国家は立ち行かない。また、この三十二家の中でも一部の大身は、領地の中に独自の支配体制を形成していた。これは国の中に国があるようなもので、中央集権化=近世大名化とも言えた当時には、大きな問題だった。
これは、ある意味で孝高・長政時代からの負債であり、これを是正する事が、忠之に課せられた大きな命題であった。これえを忠之は、過激な方法で解決しようとした。
それは、三十二家の解体。二十四騎を筆頭とした名門を改易、或は追放・知行没収したのだ。勿論、そのリストには栗山家が入っているのは言うに及ばず。すると、黒田騒動の側面が見えてくる。
改革派VS守旧派。
栗山大膳は、忠之が就任すると藩政から遠ざけられ、失脚間際に追い込まれた。これは仕方ない。大膳は改革させるべき側なのだ。
そこで、大膳は同じく遠ざけられた黒田美作と共に、隠居願いを出した。
大膳「言う事聞かないと隠居しますよ」
忠之「了解。今までありがとうね」
大膳「え」
忠之が抗議の隠居願いを認めた為、二人は幕府に訴えた。これは幕府の穏便解決方針により和解となり、大膳らは藩政復帰したのだが、さらに忠之が倉八十太夫や明石四郎兵衛を加増させた事で、また幕府に
「仕置きが悪いんだよ!」
と、訴えた。
幕府は、また穏便路線で済ませたが、大膳達を不忠だ、言う事聞けと叱責した。
これで忠之ら改革派は勢いを増し、幕府に大膳処罰の内諾まで得た。一方で大膳が一発逆転する為には、忠之に幕敵になってもらう他に術は無く、大膳は幕府に〔忠之謀叛の嫌疑あり〕と訴え出た。
残念な事に、この訴状の全文は現存していない。しかし、憶測として挙げられるのは、
一、大納言忠之謀叛連座の嫌疑
二、鳳凰丸事件
三、足軽二百人の雇用
である。
しかし、一と二は驚く事に騒動の六年ほど前に審議を受け解決している。足軽の新規雇用は、生活が困窮した武士の救済と、彼らが無頼となり治安を乱さない為の先手でもある。また、たった二百人で幕府に反抗しようなど噴飯ものである。
つまり、大膳は実体のない虚言を以て、幕府に訴え出たのだ。この間、忠之は軍師官兵衛の片鱗を見せ、幕府内・藩内の工作に勤しみ、この訴えは、大膳の敗訴で終わる。
黒田騒動の流れや詳しい事は改めて別に書きたいが、今回僕が言いたかった事は、
一、黒田騒動は、藩政の一新を図りたい改革派と既得権益を守りたい守旧派の生存競争。
二、忠之は、自らに課せられた政治命題からは逃げなかった。
三、大膳の訴状はでっちあげ。
残念ながら、大膳に同情の余地はなく、白石一郎氏や葉室麟氏が、大膳忠臣説を否定するのにも理解が出来る。
今回、かなり駆け足で説明したが、この辺りは安川巌先生、福田千鶴先生に強い影響を受けたので、詳しく知りたい方は両先生の著作を読まれる事をお勧めしたい。