そうしつ5
ホテルのロビーから外へ出ると、雨はますます強く降っていた。
あたりはすっかり暗く、はす向かいにある個室ビデオ店の緑色のネオンが目に眩しい。
「駅の近くにお店あるだろ?」
わたしは黙って頷いた。
「お酒と……パスタでいいかな」
「いいね。早く行こう」
圭吾はわたしの肩に腕をまわして一本の傘を広げた。
大きな傘が雨粒を弾く音。わたしはスカートの裾を少し持ち上げて歩く。
「かばん、持とうか」
「大丈夫」
「でも、スカートが長いから両手がふさがるんだろ? 持つよ」
自分の希望がかなえられた結果のしりぬぐいは、なんでもしてくれる。荷物を持つこと、料理を手伝うこと、旅先の旅館を予約すること、ウッドデッキにペンキを塗ること。そういう人なのだ。
圭吾の希望に沿って行動している限り、わたしはお姫様のように扱ってもらえる。きっと。しわしわのおばあちゃんになっても。
舗装したばかりのアスファルトに小さな虹色の水たまりができていた。夜の闇の中にも溶けない、下品な色。
わたしは、わざと水たまりに足を入れた。
「何してんの?」
圭吾は肩に回した手に力を入れて、水たまりからわたしを引き寄せた。
「ぎらぎらしてたから。シャボン玉が割れるみたいに、水が割れたわよ。きれい」
「だからって、わざわざ靴を汚すことないだろう?」
顔を見なくても、圭吾が嫌な顔をしているのが分かる。君の突飛もない行動は、正直、苦手なんだ。
結婚して五年目の記念日に言われた言葉を思い出した。六年目だったろうか、四年目だったかもしれない。
いずれにしても、圭吾はわたしの苦手な部分も、結婚という希望が叶ったしりぬぐいとして、面倒を見てくれているのだ。
上野駅の公園口から左に少し坂を下り、小さな店の前に着いた。
傘をたたみ、店の外灯の前で圭吾を見ると、右半分が雨に濡れていた。
わたしは、水たまりに入れた足以外は濡れていない。
つまり、わたしと圭吾の関係はそういうことで成り立っているのだ。
圭吾から鞄を受け取り、その中からハンカチを出す。「大変だ」と大げさな声を出して、右半分を拭いた。
「わたしだって、濡れて構わないのに」
「僕が、傘をさすのが下手なだけだよ」
圭吾は笑ってハンカチをわたしの手から奪い、すばやく水滴を払い、店のドアを開けた。
つまり、こういうことだ。圭吾といるわたしは、つまらないことを気にする人間になってしまう。
朝、家を出るときに傘を持つのが面倒だと言ったはずだった。濡れてもかまわない。楽しげではないか、と思っていたのだ。
しかし、こうして靴を濡らして窘められてしまうと、雨に濡れることが大変な出来事のように思えてしまう。圭吾の嫌がることは、わたしも嫌なことなのだという見えない決まりがわたしを苦しめる。
たかが雨。だからこそわたしの中で大問題になってしまう。
わたしはいつから、複雑なことを単純化しようと努力するようになってしまったのだろうか。
もともと複雑なのだ。出会いも、付き合いも、結婚も、その先も。複雑なことを複雑なまま、受け入れてきたはずなのに、わたしはもがき始めている。
ニシガタさんならきっと笑う。濡れたら拭けばいい。濡れたくなければ、ずっとホテルにいたらいいよ。ホテルから出ない結果、翌日の仕事を休むことになって、ますます複雑な問題が降り注いできたとしても、ニシガタさんは笑って「しょうがないよ」というだろう。
ウエイターに向かって、圭吾がスプマンテを注文した。
発砲するお酒を想像し、喉が渇いていることに気づく。
窓ガラスに目をやると、雨はますます強く、闇はさらに深くなっている。
帰りたくない。
そもそも、圭吾といるのだから帰る必要もないのだ。帰る場所だって、本当はとっくに失くしている。そのことにはっきりと気づいて、わたしは身震いした。
発砲するスプマンテを口に含むと、泣きたくなった。お酒が口内で弾けるたび、涙をこぼしたくなった。
目の前の圭吾は笑っている。わたしは圭吾といるときはなるべく笑うようにしている。泣きたいときほど、笑う。
「美味しい」
そう言ってからワインリストに目を通した。
一本空けよう。二人でのんびりデザートまで。
「たまには愛情を注がないと、水も枯れちゃうんだろ?」
圭吾は朝の話を覚えていたのだろうか。
ワインリストから少し高級な赤ワインを選んだ。
何の記念日でもないのに、わたしたちは時々贅沢をする。
そのたびに、わたしは喉が渇く。
パスタを少しとワインの贅沢。パンもあれば、最高です。ソースをたくさんつけて下品に食べると、最高ですなぁ。