そうしつ2
チケットを二枚求めたわたしは、圭吾のさしている傘の影に入った。
「ほら、上野は『ところにより』だって言っただろ」とうれしそうに圭吾は傘を高く持ち上げた。
横断歩道を渡り、右手の簡易カフェを通り過ぎ、美術館への道をゆっくりと歩く。
「アメ横ってどの辺だっけ?」
普段来ることのない圭吾は、きょろきょろと周りを見渡した。
「駅を出たら、左に進むの。まっすぐ進むとアメ横。あとで行ってみよう」
わたしは、アメ横が好きではないけれど、圭吾が行きたいなら付いてゆく。
今日の服装と同じだ。好きではないけれど、圭吾が好きなら、それでいい。
その積み重ねが、この生活を象っているのだ。
美術館の前には入場する人の波が見えた。
「混んでるね」圭吾は驚いた声を出した。
「日曜日だもん。それに広告見て、あなたみたいに急に行こうって思い立つ人もいるんじゃない?」
「急じゃないんだ。前からそう思っていたんだ」
圭吾は、わたしの目を見ないで、そう答えた。
わたしは、返事をせずに、列の最後尾に並んだ。閉じた傘の雨粒が、スカートを濡らした。雨の日に長いスカートは、泥はねするし、非常に難儀だ。
たまらず泣きたくなってしまう。
圭吾は、ハンカチを出して、わたしのスカートの水滴を払った。
そして、傘を持つ手を持ち替えて、わたしの手を握った。
下を向いたまま、動く列に合わせてゆっくりと足を動かした。
展示は、前評判ほど面白くは感じなかった。
そもそもメインが何であるのかがぼやけている。そう感じたのだった。圭吾は「この絵はでかい」とか「この絵は細かいね」とか純粋に感動している。わたしも同じだ。偉そうに面白いつまらないと心の中で思っていても、実際には圭吾と同じように「でかっ」とか「こまかっ」という短い一言の感想が真っ先に浮かぶのだ。そのあとに、何かをひねり出そうとしているに過ぎない。
何のために?
ふと、そう疑問に思う。何のために、小賢しく考えて絵を見ているのだろうか。わたしは、絵に、何を投影しようとしているのだろうか。
たとえば、この絵の女の乳房を見れば、青い血管が薄っらと見える。思春期前だろうか。どうしてこの女は裸を描かれたのだろうか。処女だろうか。それから、きっとこの女は、造船所で知り合った男と恋に落ちる。もしくは画家と。それから、どうしよう。
自分の選択できなかった幾つのもわかれ道を、絵に投影して楽しんでいるのだろうか。
馬鹿げている。
分かっているのだが脳は活動を辞めない。
美術館は、疲れる。
ふと、圭吾に目をやると、絵ではなく、わたしを見ていた。
目が合うと「あんまり怖い顔して若い娘さんの絵を睨んでいるから、声かけられなかったよ」と腰を落としてわたしの耳元に口を近づけて囁いた。
「怖かった?」
「それはもう。若さを妬む中年の怒りがね、感じられましたよ」
圭吾は笑って、次の絵に行くようにわたしの手を引いた。
「中年って、失礼じゃない?」
「だって、僕たち丁度アラサーとアラフォーのはざまだよ」と昔二人で観に行った映画をもじったような発言をした。
「冷静と、情熱はまだ、ありますかな」
わたしが聞くと
「情熱と、情熱はあるけど、冷静はどうかな」と笑った。
「最近、なんだか変に熱いね」
「いろんな狭間だからね」
圭吾はそれ以上口を聞きたくない様子だった。
長くいれば、声色で分かる。この話を打ち切りたがっている。そして、わたしもそれは同じだった。
薄っぺらい、そう感じている。お互いに。
人混みに合わせて絵を眺めながら出口に戻ると、ちょうど二時間経過していた。
二時間立ちっぱなしで、絵を見ていた。それは、非日常だ。その空間の中で、わたしたちは、日常を忘れようと必死になっていた。
水着に入った砂を思い出した。
夏、無理やり連れて行かれた海水浴場で、わたしは父親に海に放り投げられる。泳げない、そういうと、手足をバタつかせろ、海水は浮くから大丈夫だと、父は笑う。わたしは必至で手足をバタつかせ、やっと波打ち際にやってくる。波の力で砂浜に押し出される。
海水に舞った砂が、水着の中に入り込んでいる。わたしは泣きたい気持ちで、少し深い場所まで戻り、砂を海水に戻す。
必死になることは、水着に入った砂を思い起こさせる。
体が、ざらざら、じゃこじゃこ、している。
父は、笑っている。こんなことでベソかくようじゃ、思いやられちまうな。パラソルの下にいる母に、大きな声で語りかける。
体が、ざらざら、じゃこじゃこ、している。
シャワーを浴びてきた体に、砂は付いていないのに。
雨は上がっていた。アメ横までの道をゆっくりと進む途中に喫茶店があった。
「コーヒーでも、紅茶でも。それから、ジュースでも」
圭吾はそうわたしを誘った。
初めて、わたしを喫茶店に誘ったときに圭吾はそう言った。
わたしは、その言い方が可笑しくて、すぐについて行った。
紅茶を注文した後に「どうして『コーヒー飲もう』とか言わなかったの」と尋ねた。圭吾は、煙草をふかしながら、けいさん、と答えてから「うーん、違うな。やっぱり。断られたくなかったんだ。だから、ジュースの後にはパフェもあるし、ケーキもあるし、とにかく何か一つでもユリさんの好きなものが入っていればいいなって思ったんだ」と屈託なく笑った。
その笑顔が、とてもいいと思った。
わたしは、アイスミルクティーを頼んだ。クラシックが心地よい音量で流れている。座り心地の良い椅子に、おもわずうたた寝しそうになる。
「疲れたね」
圭吾は運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、ため息をついた。
「こんなに美術館って疲れるものなのか。ユリはこんなとこにいつも一人できているの?」と呆れた声を出した。
「そう。だって、興味のない人を誘っても悪いじゃない。それに、お互いに感想が言い合えない人と見ても、つまんないもの」
と答えた。
「僕は、感想は言い合えない人だよ」
ポケットから煙草を出して、ゆっくりと火を付けた。
「……あなたは、特別な人だもん」
体中に砂を浴びた気分になった。何を言おうとしているのかが、分からない。
今まで、そんなことは無かった。圭吾の発言は常にその奥にある意味をわたしに伝え、わたしはそれをくみ取って返事をしていた。それは、周りからすればかみ合わない会話に聞こえるだろうが、わたしたちはそれを暗号のように楽しみ、言葉を慈しみ、相手を思っていたのだ。
今日の言葉は、みんなに聞かれてしまう。
みんなに伝わってしまう。
「つまんないなんてこと、ないもの」
わたしは、ミルクティーにガムシロを追加して、かき交ぜた。
圭吾は黙って煙をはきだしている。
携帯電話を取り出して、ツイッターを始めた。
圭吾はわたしと会話していても、最近ツイッターを利用するようになった。
何度嫌だといっても、辞めてくれない。「いま、ユリとここにいることを記録しているんだよ」と取り合おうともしない。
フォロワー100人、その人たちに今を伝えて、何になるというのか。目の前のわたしを置き去りにして。
「ねぇ、いま『喫茶店にいます』って入れたの?」
わたしは空になったグラスを脇に避けて、身を少し乗り出した。
「そうだよ」
「何処にいても『○○ナウ』みたいなこと、書く? 美術館でも書いた?」
「書くよ。書いたよ」
じゃぁ、そろそろ次の場所に行きましょう。そう言って伝票を圭吾に渡した。
アメ横とは逆方向にわたしは歩きだした。
「何処に行くの?」
圭吾は戸惑いながらもわたしの速い歩みについてきた。
「反対側」
そう答えてわたしは、個室ビデオ店などが並ぶ通りまで一気に歩いた。
通りの両サイドにある風俗店などに戸惑いながら、圭吾は渋々付いてきた。
「なんでこんな通りを知ってんの?」
黙ってわたしは裏通りにある小汚いラブホテルを指さした。
「入ってみたいの」
以前から思っていたのだ。一度も足を踏み入れたことのないホテルで、昼間から愛し合うのはどういう感覚なのだろうか。
圭吾は躊躇した。
「だって、今まで何度誘ったって『こんなとこいやだ』って。……入ったことないんだろう?」
わたしは圭吾の疑問符が、本当に疑問を、疑念を抱いていることに笑いそうになった。
「無いわ。一度も無いわ」
圭吾の顔を正面から見つめた。
「わたしは、無いわ」
「『こういうの、連れ込み宿っていうんでしょ』とか言って、嫌がってたじゃないか。『男性にとっては連れ込み宿だろうけど、女性にとっては連れ込まれ宿じゃない』とか怒ってたじゃないか」
圭吾はそう言いながらも、わたしの手を取って狭い入り口をくぐった。
「昔はね。それに訂正するわね。女性にとっては連れ込まれ宿、とも限らないのね」とほほ笑んだ。
圭吾は、苦笑いをして、部屋を選びボタンを押した。
顔の見えないフロントから、カギが差し出された。
誰もいないロビーを抜けて、暗いエレベーターで三階まで上がる。
誰にも合わない、薄暗い、ほのかに消毒液とカビの香りのするホテル。
重たいドアを開けると、小さな部屋にそぐわないほどの大きなベッドが目に飛び込んできた。
「すごいわね。……なにこれ」
悪趣味な壁紙に囲われたベッドには天蓋がついていた。スラム街に迷い込んだお姫様のように、居心地悪そうにそのベッドは存在している。
思わず声をたてて笑った。
「ねぇ、ツイッターで『ラブホナウ』って打ってよ」
わたしは棘のある声を出した。
圭吾の今の相手は、フォロワーにいる。しかも、近い相手。わたしも知っているい可能性の高い相手だと、わたしの直感は告げている。
「それは、恥ずかしいだろ。無理だろ」
圭吾は携帯をテーブルに置いて、わたしの体に重くのしかかってきた。
天蓋が揺れる。
長いスカートがゆっくりと捲れ上がる。
「スカートは長い方がいい。楽しみが長く続くから」そう言った圭吾の言葉を思い出し、失笑する。
最後はどうせ、同じじゃないの? そう言うと、圭吾は過程が大事なんだよ、返してきたのだった。
ニシガタさんは、どうなんだろうか。彼は過程よりも結果を重んじるタイプの人間に思えた。たぶん、脱いじゃえば一緒、それより似合う好きな服を選んだほうがいいと言うだろう。きっと、そう言うだろう。
抱かれている間、携帯のバイブ音とニシガタさんで頭がいっぱいだった。
体中にまとわりついている、ざらざら、じゃこじゃこ、の砂が払われてゆく。
圭吾のことが好きなのに、どうして他のことを考えてしまうのだろうか。
どうして、圭吾はわたし以外の人を抱くのだろうか。
悲しくて、彼の背中に爪を立てながら、小さく泣いた。
三つ目のカップが割れてしまえばいいのに。心底そう思った。
もしくは四つになればバランスが保てるのだろうか。
わたしがもっと、他の誰かに気持ちが奪われていけば、ちょうどいいのかもしれない。
だらだらとまだ続きます。