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そうしつ  作者: 和泉あかね
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そうしつのはじまり

上野についたときには小雨が降り出していた。

公園口の改札を抜けると、左手に美術館のチケット販売ブースがある。人気のある展示の場合は、美術館の販売ブースは混雑するので、いつもここで買うことにしている。

わたしは、茶色いロゴだらけの鞄から、同じくロゴだらけの財布を出し、チケットを二枚求めた。

珍しく、圭吾が一緒なのだった。

いつも美術館に誘っても、興味がないからと断ってきた圭吾が、朝食を食べながら目を通していた新聞に掲載されていた美術展に目を留めて「これからいっしょに、いかないか」と声をかけてきたのだった。

まずい、と思った。本当はその展示会にはニシガタさんと行く予定でいたのだった。

「あんまり、興味ある展示ではないけど。混雑しているし」

わたしは、コーヒーにミルクを足しながら、こともなげに答えた、と思う。

圭吾は話を聞かずに「ご馳走さま。ほら、支度しよう」とシャワーを浴びるために脱衣所へ入って行った。

別に、展示は二回行ってもいいだろう。見る相手によって感想は違うかもしれないし、ニシガタさんには黙っておけばいい。彼は、あの展示を楽しみにしている。

「昔、造船所を持つ富豪の夢がかなっていたなら、どんな美術館ができていたのだろうか」

ニシガタさんはノートパソコンで器用にCADを扱いながら、楽しそうに言った。

わたしは、設計士というのは、なんて器用でなんて美しい仕事をするのかと、ベッドで横になりながら、彼のマウスの動きとパソコンに現れては消える青や赤の線を飽きずに眺めた。あの、器用な細くて長い指が好きだ。そう思いながら、重たくなった瞼を閉じたのだった。


圭吾がシャワーを浴びている間に、食器を片づけた。

朝だけは、コーヒーをドリップしている。結婚した当初からの約束で、圭吾が言うには「コーヒーは幸せの香り」なのだとか。

しかし、圭吾は知らない。

圭吾が他の女性と会った夜の香りを敏感に鼻腔に残しながら、コーヒーを淹れた朝もあるし、やっと授かった子供を堕胎した翌日に淹れたコーヒーもあることを。それらのコーヒーも、圭吾は幸せの香りがする、とうれしそうに飲んでいた。はたして、幸せの香りってなんだろうか。わたしは、それらの朝も、黙ってほほ笑んで、お代りを用意した。毎朝二杯、コーヒーを飲むのが習慣なのだ。


今日も、二人の食卓なのに、シンクの中にはカップが三つ入っている。わたしと、圭吾と、その他の誰か。そんな馬鹿な妄想にとらわれそうになる。わたしと圭吾の二人のつつましやかな暮らしの中には、ここ最近、常に誰かが介入してきている。そう思えて仕方なかった。実際にそれは、圭吾の新しい恋人かもしれないし、ニシガタさんかもしれない。身に覚えがあるから、そんな下らない妄想に指先が震えるのだ。

わたしは、スポンジを持つ手に力を込めて、食器を洗った。

わたしと、圭吾と、圭吾。そう声に出して、ホッとした自分に苦笑した。

図々しいわ、と苦笑した自分に呆れた。


テレビに目をやると、天気予報が始っていた。

これから曇り、ところにより雨。

わたしはリビングの窓から外を眺めた。

晴れているじゃない。そう呟いて二階へ上がった。身支度を整えなければならない。圭吾と出かけるときには、圭吾の好きなものを持つ。それも、新婚当初からの約束になっている。

スカートは長めがいい。バックはブランド品がいい。胸元の開いていない服がいい。靴は歩きやすいヒールの低いものがいい。

それらのものをクローゼットから探し出し、下へ降りる。圭吾がシャワーを終えたら、わたしも浴びたい。

丁度髭を剃り終えて、下着姿で圭吾は出てきた。

「今日ね、曇り、ところにより雨ですって。ところによりって、どこのことかな」と天気を伝えた。

圭吾は「上野あたりは、ところにより、かもよ」と答えて、わたしの片足を踏んで軽くキスをした。

圭吾が言うには、このキスの仕方は「水飲み場」なのだそうだ。ペダルを踏むと水が出る。喉が渇いたときに便利。愛が渇いたときに、便利。そう笑ったことがあった。

わたしの唇から、愛が出ているのか、それはわたしにもわからない。ただ、笑って「たまには、給水してくれないと、水飲みの機械だって水が出なくなるのよ」と言うと「今日は、どこかいいお店で食事をしよう」と答えて足を離した。


洗濯機に脱いだ服を放り込んでゆく。脇に置いてある小さな箱の中に、見覚えのないヘアゴムがあった。ポケットに物を入れっぱなしで洗濯機へ放り込む癖のある圭吾のために、用意した箱だった。

「何か、異物が入っていたらこの箱にとりあえず入れてね」そう説明している。

このヘアゴムは、異物だ。

たぶん、圭吾はこのゴムの存在を失念している。

圭吾にとって、今の相手はその程度の子なのかもしれない。わたしは、ゴムをそのまま残して、少し熱めのシャワーを浴びた。

もしかしたら、逆かもしれない。その程度、ではない程度。そう考えて心臓が波打つのが分かった。



「傘を持った方がいい」

圭吾は玄関で靴をはきながら言った。

わたしは面倒くさいじゃないの、と答えた。しかし圭吾は聞かない。僕が持つからいいじゃないか、と大きめの傘を一本傘立てから取り出した。

駅までゆっくりと手を繋いで歩く。

街路樹の葉が幾層にも重なって、緑の影を落とす。

「いい季節ねぇ」

わたしはそう呟いてから、近所の藤棚の花が咲き始めていたことを思い出し、圭吾に伝えた。

「少し、遠回りになるけど」

わたしはそう付け足して藤棚の家への道を案内した。

「遠回りしても、ちゃんと着けばいいよ」

方向音痴であることを知っている圭吾は、笑って答えた。

「ユリが案内してくれて、辿りつけたとこってあんまりないからなぁ」

傘を軽く振りながら、握った手に力を込める。

その手の力が痛い。

「大丈夫。選挙の看板の脇を入った家なの」

わたしは、先方に見える黄色い看板を見つけて、ホッとしながら答えた。

藤棚は、先日見たときよりも大きく、立派になっていた。色も少し青みを帯びて、数段美しい。ちょうど、見ごろだ。これより遅ければ、花は色を失い、大きな房も、まるでおばあさんになったかのように小さく、シワシワになってしまう。

「立派だな。庭に藤棚ってかっこいいね」

圭吾は棚を見上げながら、暫く風に揺れる藤を見つめた。

空が青いから、余計に綺麗に見えるのかも。そう答えて、わたしも藤から目を離さなかった。

絵と同じだ。背景が美しければ、さらに映える。

わたしは、そっと繋いだ手の力を抜いた。圭吾は何も言わずにますます手に力を込めた。

痛い

そう伝えようとして、辞めた。

どちらも同じ力で繋いでいれば、痛くないのだ。

離れようとするから、離すまいと力を込める。わたしは、手に力を精いっぱい込めて「ねぇ、痛い?」と笑った。

圭吾は「馬鹿力だから、痛いよ」と少し手を緩めた。

これでいい。

駅までお互いに力比べをしながら歩いた。


どこからみても、満ち足りた、朝の二人の姿。

だれからみても、なかの良い、理想的な夫婦。


そう見えるに違いない。

実際そうなのだ。

わたしは満ち足りているし、わたしたちは、なかが良い。


電車に揺られながら、ずっとそのことを考えていた。三つ目のカップに誰かを重ねなければよい。それだけのこと。


席が一つ空いた。圭吾はさっとその席に荷物を置いて「ほら、空いたよ」とわたしに伝えた。わたしは頷いてその席に座り、圭吾の荷物と傘を持った。

吊革につかまりながら、圭吾は本を読み始める。わたしは座席からその姿を見上げた。

今日のシャツは、とても似合う。

そう意識して、わたしはまた満ち足りた。


満ち足りる、とはなんだろうか。そんな疑問の影を落として。

不定期更新になると思いますが、ゆっくり付き合って下さると嬉しいです。

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