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剣の姉妹  作者: 著者
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魔獣戦覚



 闇の深淵に人は存在できない。

 人は闇を恐れている。本能から。

 もし、真なる闇の側で安寧を得られると思う者があれば、それはもう人ではないのだ。

 月の灯りなど無力でしかない。どれほど照らそうと無意味だ。闇を退けるには至らない。

 しかし、闇を浮かび上がらせることはできた。

 その闇は人の形をしており、全身を鮮血で染め上げている。真紅の獣の瞳が輝き、己が糧を探し求めている。

 そこは路地だった。

 深夜。人気のない、大通りから離れた倉庫が立ち並ぶ路地。そこには無数の死体が飛び散り、寂れた小道を飾り付けている。

「……ぁ」

 僅かな衣擦れと声にならない嗚咽が、血生臭い夜風に運ばれる。無論、糧を探す闇の獣の耳に入らぬはずがない。

「や、やめて……」

 女だった。長い赤毛を結った、それなりに着飾った、珍しくもない娼婦だ。

 血塗れの獣の足音は、まるで血肉を貪る咀嚼音の様に響く。

 徐々に女に近づく。女は腰を抜かし、歯を鳴らしながら涙を零した。

 獣の後ろに転がる死体は、女の仕事仲間とそれぞれの客。いつも通りの商売の最中だったのだ。それなのに。

「あ……あぁ……」

 女の瞳に獣の姿が映る。細身で、右腕を包帯で覆っている。色の抜けた髪。精気の無い顔。血に染まっていない所は白い肌が見える。人の姿はしているが、それが人だというのであれば、この街に人は住んでいないことになってしまう。

 獣が右腕を振り上げた。指先の包帯が破れ、そこから黒金の爪が伸び月明りに鈍く輝く。

「いやああああああ……っ!」

 ぷつりと、断末魔が、鈍く鋭い音によって途切れた。

 吹き上がる鮮血。転がる血肉の塊。

 獣はその中で薄く笑みを浮かべると、口の回りに飛び散った血を舐め取った。




「たっ!!」

「……ん」

 剣戟は庭先で響いている。

 気が滅入りそうな快晴の空の下。まだ日が昇って間もない。踏み固められて植物が生えることもできなくなってしまった土の上を、四本の足が踊っている。

「どうしたシャル。腕が鈍っているんじゃないか?」

「うるさいっ!!」

 ダウンが前方のシャルロッテに声をかけた次の瞬間、背後からのシャルロッテの斬撃。ダウンはそれを背後に腕を回して剣の腹で受け止めていた。

 目にも止まらない高速移動からの攻撃。それが『剣の姉妹』の『剣の妖精』であるシャルロッテの必殺の技なのだ。それはつまり、必ず殺す技なのであって、実際に今の攻撃も、ダウンの急所を狙った一撃であった。

「アタシの腕は鈍っているぞ。体調が悪い。全盛期程の力もない。寝不足。ついでに朝食もまだだ。それなのに殺せないっていうのは、問題なんじゃないか?」

「うるさいって、言ってるでしょっ!?」

 再び金属音と火花。シャルロッテのその長大な剣が、ダウンの鉄板のような巨剣によって弾かれ、地面に転がった。

「これで千回はアタシを殺し損ねたか。早くしないと、他の何かに殺されても知らんぞ」

 ダウンはシャルロッテを振り返り、冗談の様に巨大な剣を、包帯で隙間なく覆われた細い右腕一本で軽く振りながら、無表情にそう言った。

「うるさい……ダウンは殺させない。私が殺させない」

 シャルロッテは俯いて、顔を歪めて、苦々しく呻いた。

 ダウンはその様子を見て、いぶかしげに眉根に皺を寄せた。

 ダウンはシャルロッテが幼い頃に、彼女の目の前で彼女の両親を殺した。そして両親の後を追おうとした彼女を止め、自分を殺せと言った。

 シャルロッテはダウンを殺すために、彼女から剣の技術などを教わり、彼女と同じ賞金稼ぎとして腕を磨き、今日のようにダウンを殺そうとしている。

 昔は寝首を掻こうとしたりもしたが、腕が上がるにつれ力量の差を感じるようになり、今は修練と決闘を繰り返すようになっていた。

「なぁシャル。何かあったのか? 昔みたいに四六時中狙われるよりはマシだが、最近のお前は……」

「なんでもない。なんにもない。いつだってダウンが憎いし殺したい。何も変わらない。変わってない!」

 ダウンの言葉を遮り、シャルロッテが叫ぶ。その顔は怒りに満ちていたが、どこか泣きそうにも見える表情だった。

「わかった。悪かった……この話は終わりだ。メシにしよう。モルトのところで仕事の話でも聞きながら、何か食べよう」

 ダウンはため息混じりにそう言って、落ちていた麻布で剣を巻き始めた。

「……わかった」

 シャルロッテもそう呟いて、家の壁に立て掛けていた鞘に剣を納めた。




 賞金稼ぎ達の集う酒場『錆びた庭』は、今日も酒と料理と煙草と薬と錆びた鉄の匂いで賑わっていた。

「どうしたの、いつもより辛気臭いじゃない、ダウン」

「寝不足なだけだ……ああ、ピアス。強い酒を頼む」

 ダウンは料理を運んできた女の言葉にそう返した。ピアスはここの酒場の店主であるモルトの恋人で、聞いた話では元々は同業者だったらしい。身体に張り付くようなワンピース姿からは想像しにくいが、確かによく見れば細身ながらに鍛えられた肢体ではある。

 それに細身というならば、ダウンや、共にテーブルに着いているシャルロッテも剣士としては細身。特にダウンは長身な分だけ余計に細身に見えてしまう。

「……なに?」

「……なにが?」

 シャルロッテの目線と声に、ダウンは届いたハムを口に運びながら返す。

「言いたいことがあるんじゃないの。そんなあからさまに不機嫌な顔して」

「していない。お前こそ今日は妙に絡むな。反抗期か?」

「絡んでるのはダウンでしょっ!? いちいち一言多いのよっ!! いっつもは全然喋らない癖に……それに朝っぱらから酒? おかしいのはどっちよっ!!」

 シャルロッテは手にしていたパンを皿に叩きつけて叫ぶ。その声に周囲の客達が静まり返った。

「アタシが酒を飲んだからなんだっていうんだ。夕べは街を徘徊していた人狼狩りで遅かったし、今朝はお前に殺されるために叩き起こされて、それで酒も飲むなって!?」

「はいはいはい。痴話喧嘩は外でやってくれよ。他の客がびびっちまう」

 掴み掛からん勢いで叫び合う二人の間に、うんざりしたような声と木杯が二つ置かれる。

「痴話喧嘩だと?」

「いいから、飲め。それから食え。空腹だから余計に苛立ってるんじゃないか?」

 店主……モルトを睨みつけるダウンに木杯を突き出し、モルトは息を吐き出した。

「シャルもミルクでも飲んで落ち着け。お前ら二人とも最近おかしいぞ。殺し合いは昔からだが、口喧嘩なんて滅多にしてなかっただろ」

「……」

 シャルロッテは黙って木杯を口に運ぶ。その表情は不貞腐れた子供のようで、それを見たモルトは大きくため息をついた。

「ったく……まぁ、力が有り余ってんなら丁度いい。依頼だ」

 モルトは近くのテーブルから椅子を移動し、二人の席に並ぶ。

「昨夜、倉庫群の通りで十人殺された。かなり悲惨な死体だったらしい。爪で切り裂かれまくったようだ」

「爪? ダウン達が追ってた人狼じゃないの?」

 シャルロッテは木杯から顔を上げ、向かいのダウンに視線を向ける。ダウンはパンを齧りながら肩をすくめた。

「心臓を喰った痕がないらしい。ちなみに、ヘーゼルからの依頼だ」

「じゃあ、娼婦と客が殺されてるのか」

 ダウンの質問に、モルトは手に持っていたらしいグラスから酒を呷って頷いた。

 ヘーゼル。娼婦の女王。『色情王』と呼ばれる、東部自治都市群だけでなく、大陸の娼館の元締めである女だ。元は先代元締めの情婦だったらしいが、稀有な商才と美貌で今の地位まで上り詰めた人物。

 実際彼女が元締めになってからは、問題事や他のギルドとの抗争も軟化し、娼婦達の待遇も向上したという、裏世界では有名な存在だった。

「私、あの人苦手なんだけどなー……どうせ、指名なんでしょ?」

 シャルロッテは嫌な事でも思い出したのか、露骨に顔をしかめる。

「払いはいいだろ。『剣の姉妹』は気に入られてるんだ。いいことじゃねぇか」

「まぁいい。それで。犯人を殺せばいいのか?」

「生け捕れるならこしたことはねぇが、死体でも問題ない。殺された奴らの遺体は、身内がいない連中のはサザの所だ」

 モルトの言葉に、今度はダウンが顔を歪める。日頃無表情なダウンがこれだけ表情を変えるのは滅多にない。

「引き受けるにしても、他に情報はないのか」

「ないな。直接ヘーゼルとサザから聞いてくれ。さすがに昨夜の今朝でそこまで情報は集まらねぇよ」

 モルトはそう言うとグラスの酒を飲み干して、立ち去った。

 二人は暫く無言で、黙々と食事を進めていたが、やがてシャルロッテが口を開いた。

「ごめん。イライラしてた」

「……アタシも悪い。すまん」

 二人はばつが悪そうに、目線を合わせてそう言った。

 それは、親を殺された娘とその仇にはとても見えない光景で、まるで姉妹。それこそ母子の喧嘩の後の様子だった。




 数刻後。日が真上に昇り、しかし流れてきた雲で覆い隠された頃。

 シャルロッテはサザの家を訪れていた。

 石造りの、しかし今にも崩れそうな雰囲気のあるその家は、扉を叩くことすら躊躇わせる何かがある。例えるなら、向こう岸に渡りたいのに、つり橋が朽ち果てているような。

 本当なら近づきたくもない場所なのだが、ダウンが本当に真剣な表情で懇願してきたので、ヘーゼルの所にダウンが行くことを了承したのだ。聞けば、先日一緒に食事をして以来、サザからの求愛が酷くなったらしい。いくら親の仇で憎むべき相手とはいえ、同性として同情せずにはいられなかった。

「しかたない……きゃっ」

「……お前達の気配は似ているな。姿形は違うのに、思わず喜んでしまった。一緒に暮らすということは、気配も似るということなのだろうか」

 シャルロッテが扉を開けようと取っ手に手をかけた瞬間に扉が開き、シャルロッテはつんのめる様に室内へと数歩踏み込む。そこには濁った沼の色の瞳と髪の、異常な雰囲気を纏った平凡な男が立っており、口角を上げてシャルロッテを見ていた。

「今朝の死体のことだろう。ダウンが来るかもしれないと茶の準備をしていたのだが……まぁいいさ。折角来てくれたんだ。相性の悪い者同士、歓迎するよ」

「……ありがとう」

 サザに招かれ、シャルロッテは一応取り繕って頷いた。

 玄関から奥に、サザの後について歩くとすぐに客間に通される。この家に来るのは二度目だったが、相変わらず不快感しか感じない。

「少し待っていてくれ。死体をそのままにしているから」

「おかまいなく」

 さらに奥へと向かうサザを見送り、シャルロッテは躊躇いながらも、革張りのソファに身を沈めた。

 それなりに立派な家具。それなりに片付いた部屋。それなりに素晴らしい調度品。それらをたやすく台無しにしている、重苦しい、粘着質な空気。それがサザの家だった。三日もこの家で暮らせば、気が狂れてしまうだろう。それ程までに、この空間は異常だと感じる。現にシャルロッテの全身には鳥肌が立っている。

「……気配が似ている、ね」

 気を紛らわそうと、シャルロッテは呟いた。気にはなっていたことだったのもあっただろう。

 金色の長い髪。黄金に輝く瞳。白い服に白い軽鎧とマント。細身だが己が身の丈程もあろうかという銀の長剣。賞金稼ぎというより、どこかの国の騎士を思わせる姿をしている。姿で言えば、ダウンとシャルロッテは対極に近い姿をしているだろう。

「どーだか」

「いや、似ているさ。そこら辺の親兄弟以上には、十分似ている。残念なのは、君は絶望も苦痛も憎しみも知っているにも拘らず、ダウンのようには堕ちなかった。ダウンやモルト達には感謝するべきだね、もっと。異常なまま正常でいられるのは、稀有なことだ」

「そう。じゃ、今度ケーキでも焼いて配ることにするわ。助言ありがとう」

 カップを二つ手に戻ってきたサザの言葉に、シャルロッテは表情を抑えながらそう返した。サザは肩をすくめて見せ、シャルロッテの向かいのソファに腰掛ける。

「それはよかった。よかったら代わりにダウンの好みを教えてくれるとありがたい。女性の好みなんて気にしたこともなかったから、何をすれば彼女が喜ぶのか、見当もつかなくてね」

「サザ……ダウンのこと、本気なの?」

「ああ。抱きたい。夢にまで見てしまった」

 その言葉を聞いて、シャルロッテは顔を顰めて口元に手を当てた。戻しそうになったようだ。それほどまでに、サザの表情も声も、シャルロッテには受け入れがたい。

「さて、今朝の死体か。ここにあるのは男が三つ。女が四つ。女は全員娼婦だな。昨夜ダウンが仕留めた人狼も欲しかったのだが、引き渡されたようだね」

 粘着質に饒舌に喋るサザを見ながら、シャルロッテは出されたカップを手に取る。普通の紅茶だ。カップは上等な物で、香りも素晴らしい。サザがこういう物に手を加えたりしないことは知っているが、どうしても躊躇う。

「実のところ、心臓の残っている死体は数日前からあった。人狼騒ぎに紛れていただけで、僕もさっき気がついた」

「つまりこの『首』は、人狼騒ぎに便乗した。ただし、人狼が人の心臓を喰うってことは知らなかったってことね」

 サザの言葉にシャルロッテはそう続け、意を決して紅茶を口に含んだ。やはり普通の紅茶だ。

「そうだね。それと、死体に残っていた爪は、恐らく全て右手の爪痕だろう。それに、これだ」

 サザはそう言って、テーブルの上に銀の皿を置く。その上には千切れた赤黒い布切れらしきものが乗っている。

「何……犯人の服?」

「そんなところだ……なぁ、シャルロッテ。ダウンの右腕のことは、どれだけ知っている?」

「……は?」

 ふっと、突然人間味を帯びた声で問うてくるサザに、シャルロッテは間の抜けた声を上げた。

「右腕って……勇者だった頃に、魔族との戦いで、呪炎で焼かれたんでしょ。治らない火傷を清めた包帯で巻いて、症状を抑えてる。モルトにも聞いたわ」

「……見たことは?」

 面食らいながらも答えるシャルロッテに、鋭い眼差しのサザが続ける。

「全部じゃないけれど。黒っぽくて、炭みたいだった……ちょっとサザ! まさか、ダウンを疑ってるんじゃ……っ!?」

「いや、そうじゃない。だが、それは手がかりかもしれないよ……これは、包帯だ。包帯の切れ端が死体に付着していた。呪印。つまり魔術文字が書かれている」

 その言葉に、シャルロッテは僅かに目を見開いた。

「ダウンの包帯と一緒だ……」

「やはりか……この数日、ダウンは狩りに参加していたんだろう。そこにこの包帯。偶然だとは思えない」

「でも、ダウンがそんなことするはずないでしょ……?」

「そうだ。それに剣を使った形跡もない。彼女の剣は特徴的だからな」

 サザは顔色一つ変えることなくそう言った。

「死体があった場所を教える。調べてみて欲しい。僕としても、彼女がこんなことをしたとは思いたくないんでね」

「……サザが本心で話すなんて、珍しいわね」

 それは、サザが僅かに瞳を細めたのを見て、口からこぼれた言葉だった。

「そうだろう。僕も驚いているのさ……ああ、ダウンの右腕のことも、それとなくでいい。見ていてくれ。こんなことは君にしか頼めないんだ」

 そう苦笑混じりに言うサザに、シャルロッテはゆっくり頷いた。

「わかった……でもいいの? 私はいずれ、ダウンを殺すのよ?」

 シャルロッテが立ち上がりながらそう言うと、サザは普段通り粘着質な笑みを浮かべる。

「それは仕方ない。君の方が先だった。僕は二番目で構わないさ」

 口角だけを上げたその表情からは、もう真意を見抜くことはできそうにもなかった。




「はあーい。こっちよ、ダウン」

 そこは酒場兼娼館の一つ。街の中心を通る街道から少し外れたところにある、この街で最も繁盛している店だった。

 昼食時のこの時間はまだ開店前なので、店内にはダウンと、もう一人の姿しか見当たらない。見当たらないだけだが。

「ヘーゼル。部下にもう少し気配を抑えさせてくれ。十八人に取り囲まれていたら、落ち着いて話もできない」

 ダウンがうんざりと、丸テーブルの一つに座る女にそ言うと、女は笑って手を二つ叩いた。すると僅かに衣擦れの音がする。

「さすがね。でも部下は十九人いたのよ?」

 女はダウンを手で自分の対面の椅子へと促し、不敵な笑みを浮かべる。

「部下って、専属料理人のことか。アタシにはデルフィをロックで頼む」

 ダウンは奥の厨房に向かってそう言い、背中の剣を下ろして椅子へと腰を下ろした。

「ほんと、どんな生き方をしてきたら、それだけの力を身に付けられるのかしら。今度部下にも教えてやってよ」

「かまわんが、部下の数が半分以下になるぞ」

 肩を竦めるダウンに、女……ヘーゼルはころころ笑ってみせた。

 ヘーゼル。本名不明。年齢は恐らく三十初め頃。それはダウンが、ヘーゼルがただの一娼婦だった頃からの知り合いだから知り得る事で、その素性は誰にも知られていない。

 先代元締めの情婦になって十年。十年でこれだけの権力を手にした人物は、表裏合わせても数えるほどしか存在しない。

 艶やかな長い銀髪と青い瞳。冗談のように妖艶な雰囲気を身に纏っている。普通の男では、触れられただけで失神してしまうのではないだろうか。

「シャルは一緒じゃないの?」

「お前にからかわれるのが嫌なんだろ」

「まー。一緒に遊んだこともある仲なのに。反抗期かしら」

「かもな……それで。モルトから聞いた以外に、何かあるか?」

 そこに、グラスが二つとボトルが運ばれてきた。黒服に身を包んだバーテンは、バーテンらしからぬ身のこなしで去っていく。それはダウンの見知った顔で、なんのことはない、ヘーゼルの側近の男だった。

 二人は軽くグラスを打ち合わせると、互いに一口酒を飲んでから話を続ける。

「そうね……依頼料は金貨で五百。生死は問わないけれど、捕まえられたらお願い。それと、この数日街で見つかった死体の場所を記した地図も用意させたから、使って。残念だけれど、目撃者はいない……というか、目撃したであろう人物は、殺されていたわ」

「無差別にしても、滅茶苦茶だな……にしても、五百? しかも下調べも進んでる。至れり尽くせりじゃないか」

 あの『最悪』でも二千だったのだ。それも五年で上乗せされての賞金額。昨日の今日で付く金額としては破格だろう。

「ウチの手練が三人やられてるの。皆、一流以上の連中だった。悔しいけれど、ウチで相手できるヤツじゃないわ。本当だったら、もっと上乗せしてもいいくらいだけど、さすがにこれ以上は『ひいき』って思われるからね」

 ごめんなさい。ヘーゼルはそう言って、グラスの中身を飲み干した。

 この街、この地域は、三つのギルドが互いに『和平』という冷戦状態にあることで、どうにか均衡を保っている。しかしそれは本当に微妙な均衡であり、例えば、『剣の姉妹』の『堕落勇者』がそのどれかと手を組んだというだけでも、瓦解しかねない。

「偉くなるのも、大変だな」

「ほんと。お陰で昔馴染みのいる酒場にすら滅多にいけないし、こうやって友人と飲むのも見張り付き。自分が望んだ事とはいえ、息が詰まるわ」

「確かに……昔馴染みは、お前とモルトとピアスくらいのもんだ。アタシもそろそろ落ち着きたい」

 ダウンも酒を呷ると、ヘーゼルがボトルの口を向けていた。

「『色情王』に酌をしてもらえるなんて、ダウンとモルトくらいよ」

「持つべきものは、友人。ほら、お前もグラス」

 そうやって酒を酌み交わす二人の表情は、恐らく彼女らを知る誰もが見たことのない表情だった。

「見つけられそうなの?」

 問うヘーゼルの言葉は、しかし今回の首という事ではない様だった。ダウンもそれは解っているのか、小さくため息を吐いて答える。

「ラムズの一件から、徐々に動きが大きくなっている。そろそろ尻尾くらいは掴めるさ」

「……勝てるの?」

「わからん。感覚と技術は保っているが、体力は最近落ちてきた。フィリーの時でも紙一重だった」

 ダウンの言葉にヘーゼルが声を出して笑う。

「じゃあ大丈夫よ。フィリーを殺せるヤツなんて、世界中探してもまずいないんだから。それこそ『勇者』と『最強』くらいじゃない」

「あの辺りと一緒にしないでくれ。これでも元々は『人間』なんだ」

 ダウンはそう笑って、立ち上がる。

「ダウン」

「何だ」

 剣を背負うダウンに、ヘーゼルの深い声が届く。

「シャルのことは、任せてもらっていいからね。絶対に悪いようにはしない。だから……死んだ後のことまで、心配しなくていいから」

「ああ。ありがとう。その時は頼む」

 ダウンは軽く手を振って酒場を後にした。




 夕刻。二人はそれぞれ調査を終えて、モルトの所へ戻ってきていた。

「活動は夜。目撃者はなし。被害者に共通点はなし。殺害方法は右手の爪のみ。一晩で十人前後を、四日。だから、街に入ったのもそれくらいね」

「右手のみ、ね。サザは他に何か言ってたか?」

 テーブルの向かいに座るダウンに言われ、シャルロッテは一瞬、木杯を持ったダウンの包帯に覆われた右手に視線を向けたが、すぐに手元のパンに目を落とす。

「完全に無差別だろうって。物取りってわけでもないみたい。財布なんかもそのまま。『殺したいから殺した』っていうのが、一番しっくりくるって」

「だろうな……殺人鬼くらいならいいんだが」

 ダウンはそう言うと、右手で皿の上の肉の塊にフォークを付きたて、口へと運んだ。左手にはこの街の地図を持っている。

「ダウンの方は?」

「そうだな。殺しの現場だけ見ていると離れているが、行動範囲はそう広くない。北東の倉庫群が北端で、街道までの間。西はこの店まで来ていない。娼館街の裏くらいだ……貧民街中心ってところだな」

「段々大通りに近づいてるみたいね……毎晩続けるなら、今晩か明日くらいには街道までくるかな」

 シャルロッテはスープの中に落ちたパンをスプーンですくって口へと運びながら問う。

「だろうな。街道近くのこの範囲。西と東に分かれて探すか……相当手強そうだが、大丈夫か?」

 ふと、普段は言わないことをダウンが口にした。硬直したシャルロッテの様子を見て気付いたのか、ダウンも動きを止め、しかしすぐに口を開く。

「ああ、いや……人の恐怖を貪るなら、業精霊か魔族の可能性もある。シャルは業精霊を相手にしたことはあまりなかっただろうからな」

 表面上は取り繕って無表情だったが、濁った瞳が僅かに泳ぐ。それを見てシャルロッテは明らかにうろたえた。

「だ、大丈夫よ。剣で斬って倒せる相手なら負けない。ダウンだって知ってるでしょ?」

「ああ。そうだな。悪い」

 そして口を閉じてしまった。

 周囲には客は多く、賑わう酒場のその中で、二人だけが黙々と食事を続けている。

「なに。まだ調子悪いの?」

「ピアス……いや、調子はいいよ。酒とメシのお陰だな」

 そんな二人を目にしたのだろうピアスが、ふらりと二人のテーブルへとやってきた。

「ふーん。シャルは?」

「元気も元気。やかましい罵声と血生臭い臭い。美味しい食事と大事な仏頂面の連れ。私の人生でこれ以上の御馳走はないもの」

 髪を揺らしておどけるシャルロッテに、ピアスは苦く笑う。

「それは良かった。デザートいるかしら?」

「じゃあ、いつものプリンを二つね」

 シャルロッテの注文に、ピアスは軽く手を振ってカウンターの奥へと歩いていった。

「……なぁ、シャル」

「うん?」

 声をかけられシャルロッテがダウンに目を向けると、妖精の羽根よりも薄らと微笑んでいるダウンの顔があった。

「まぁ、アタシが死んだ時は、モルトと、ヘーゼルを頼れ」

「なによそれ。遺言?」

 突然の言葉に、シャルロッテが顔を歪める。

「そんな大げさなもんじゃない。走り書きみたいなもんだ。だが、忘れるな」

「……」

 その穏やかな声音とは裏腹に感じる言葉の迫力に、シャルロッテは黙って頷いた。




 空に月はない。

 街灯もろくに設置されていないこの街では、大通りから通り二つも離れれば一切の光源は存在せず、静寂と闇が広がっている。

 その闇に溶け込むようにして、黒い人影が一つ、音もなく歩いていた。

 漆黒の外套に身を包んだその姿は周囲から目視することはできず、風の流れとしか感じることはできないだろう。

 その人影はゆっくりと、だがどこか落ち着きのない足取りで、明かりと喧騒の方へと向かっている。

 ふと、人影の動きが止まる。さほど広くもない通りに出たところで、足音が二つ響いていたからだ。

「でよー、ワイバーンの翼を俺が叩き落したんだよ」

「へぇ。あたしと組んでる時も、それくらいやって見せて欲しいもんだねぇ」

 ひとつ呂律が回っていない口調の男の声と、上機嫌な西部訛りの女の声。

 人影は通りの影に身を潜め、二人の様子を窺う。

 頼りにならない街灯に薄く浮かび上がった姿は、共に武装した男女の姿。男は両刃の手斧。女は大振りの小剣を二振り腰に差している。金属鎧で身を堅め、見る者が見れば、かなり腕の立つ二人組みだと判っただろう。

「いつも見せてるだろー? ……こんな風に、身構えてよぉ」

「……背中がお留守にならないようにしなよ」

 ふっと。二人組みが足を止め、各々が手に得物を構えた。先程までの酔った様子は既に無く、隙なく周囲を窺っている。

「誰だ……やる気ならとっとと出て来い」

 男の声が通りに響く。

 人影は音も無く通りに現れた。

 焼け跡の灰のような髪。漆黒の外套。男の平均程度の身長はあるが、どうにも細身だった。

「隠してても分かるわよ。折角の酒を吐きそうだわ」

 女が声をかけるが、その声は僅かに震えている。

「くっ!?」

「なっ!!」

 瞬間。人影が間合いを詰めてきた。十歩分以上はあった距離が一瞬で詰められ、男の腹部に強烈な蹴りが突き刺さる。

「このっ!」

 男を蹴ったことで動きの止まっている外套の背中に、女の二つの刃が左右から放たれる。

 しかし外套はそれを見ることもなく前方へ跳んでかわすと、仰向けに倒れている男へと飛び掛った。

「……らぁっ!!」

 倒れたままの状態から、男が斧を振り上げる。それは外套から突き出た二本の足を薙ぐかと思われたが、それは脚を振り上げられてかわされる。男は斧を振る勢いで横に転がって身をかわして立ち上がる。

 外套の人物は着地と同時に地面を蹴り、男にさらに追撃をかけようとしたが、そこに女の剣が迫り、跳んで距離をとった。

「おいおい、とんでもねぇな」

「一人の時じゃなくてよかった……何?」

 二人が体勢を整えたところで、人影の足元に、細い紐のようなものが落ちていることに気付く。

「……畜生、化け物か」

 男はそう呟いて、手の中の得物を握り締める。汗で濡れた柄が湿った金属音を立てた。

「魔族、なの」

 女の呟き。それとともに、通りに突風が吹きぬける。

 否。それは突風ではなく、気配だった。

 痛烈な、衝撃を伴う殺気。

 外套の人物の髪と外套の隙間から、爛々と輝く、真紅の獣の瞳が。

 汚らしく歪んだ。




 闇を切り裂いた断末魔の主の下へ先に辿り着いたのは、すでに剣を抜き放っていたシャルロッテだった。

「……え?」

 薄暗い通りに二つの死体が転がっており、その傍らに、よく知った姿に似た外套を纏った人影が立っている。

 そこに、雲間から伸びる月明かりが届いた。

「ダウン……?」

 いや、違っていた。

 彼女より髪は短いし、背は少し高い。身体つきも少し逞しいだろうか。ただ髪の色や雰囲気は、シャルロッテのよく知る彼女に酷似している。

 だから、シャルロッテは一瞬躊躇してしまった。

「ガァッ!!」

「な、くっ!?」

 それは、今まで出会った何よりも速かった。

 十数歩の距離を一瞬で詰められ、振り下ろされた右手の爪。シャルロッテは反射だけで受け止めたがその一撃は重く、不完全な体勢であったため、さらに体勢を崩してしまう。

「オオォ!」

 そこに蹴りが放たれる。よろめいたシャルロッテに身をかわす余裕はない。

「このっ!!」

 シャルロッテはよろめいた身体はそのままに身体を倒しながら、迫る相手の足裏に、自身も蹴りを放つ。

 シャルロッテは弾かれる衝撃に顔を歪めながらも跳び退き、距離をとって剣を構え直した。

 相手もシャルロッテの今の動きに警戒したらしく、じわりじわりと様子を窺いながら間合いを詰めてきている。

「精霊じゃない。魔族でもない」

 どちらも魔力を使った攻撃が主体である。直接攻撃をしてくる以上それらではないが、しかしシャルロッテの知っている中に、眼前の生物は存在しない。

「まぁ、斬ったら倒せる相手に違いはなさそうね」

 シャルロッテはそう呟くと、その場で小さく跳ねた。

「グルォ!!」

「はっ!!」

 刹那。外套の背後に回りこんだシャルロッテの一撃が、振り向き様の爪に弾かれる。その動きは、シャルロッテの高速移動を完全に捉えており、さらに返す爪がシャルロッテの胸へと迫る。

 しかし次の瞬間にはシャルロッテの姿はなく、爪は空を切り裂いた。

 その一撃で伸びた腕に、跳び上がっていたシャルロッテの斬撃が振り下ろされるも刃は寸前でかわされ、着地したシャルロッテの足元に蹴りが繰り出される。

「……私より、速い?」

 外套から再び距離をとったシャルロッテは、汗で頬に張り付いた金糸を耳にかけながら零した。

 それは鎧と剣の分だろうか。シャルロッテはその場で数度飛び跳ねる。左の足首が僅かに重い。最後の相手の蹴りが掠めていたらしい。

「大丈夫じゃ、なかったなぁ」

 シャルロッテは苦く笑うと、大きく息を吸い込み。

 瞬間、火薬が炸裂したような轟音。外套の足元。通りの石畳が数枚砕け爆ぜる。

 そして、外套とシャルロッテはそれぞれが弾き飛ばされ、石畳に叩きつけられ動かなくなった。

 いや、ゆっくりと、漆黒の外套が立ち上がる。

 不安定に身体を揺らしてはいるが、その真紅の双眸はシャルロッテへと向けられ、殺意に満ちていた。

 シャルロッテが放った渾身の一閃は、シャルロッテが踏み込んだ瞬間、その剣の間合いの内側へと踏み込んだ外套の右肘が鍔に当たったことで防がれ、全体重を乗せて高速で接触したことで互いに弾き飛ばされたのだった。

 しかし、足首を痛めていた分だけ踏み込みが浅かったシャルロッテの方が衝撃が大きかったらしい。鎧の胸の部分は大きく窪み、その口元からは血が零れている。

「オオオォ……」

 力なく倒れているシャルロッテの元へ漆黒の外套が迫る。

 その真紅の瞳が濁って揺れた。




 実のところ、ダウンは敵の正体に気付いていた。

 日中現場を回っていた時に、包帯の切れ端を拾っていたからだ。

 恐らく、相手は自分と同じ存在なのだろうと。

 人間ではないのだろうと。

 酒場で食事中、シャルロッテがダウンの右腕を気にしていたことも気付いていた。

 恐らくサザの所で何かしら情報を得ていたのだろう。そしてそれを話さなかったことから、それは確信へと変わった。

 最も死体は爪で切り裂かれていた。シャルロッテはダウンを疑ってはいないだろう。しかし、関係があるとは思っているはずだ。

 場合によっては、シャルロッテに真実を伝えなければならない。

 ダウンの右腕の包帯は火傷が原因ではないということ。

 そして『堕落勇者』という二つ名の意味。

「そろそろ、良いのかも知れないな」

 雲間から月が顔を出す。闇の中を歩いていたダウンは小さく呟いて、シャルロッテとの合流地点へと歩いていた。

「……っ!!」

 その時、街に炸裂音が響いた。

 ダウンは迷わず走り出す。走りながら右手で背中の剣の柄を掴み、それを引き剥がす。

 自身の三倍はあろうかという鉄の塊。それは敵を破壊する道具であり、ダウンの枷でもある。

 通りを音の方へと曲がり、自身の感覚だけを頼りに駆けていく。金属で補強されたブーツが石畳を穿ち、その全身が破壊を体現しているかの如く闇夜の静寂を蹂躙する。

「シャル!!」

「グォゥ!!」

 飛び出した通り。開けた視界。そこには倒れて動かないシャルロッテの姿と、それに向かって右手の爪を振り下ろそうとしている漆黒の外套の姿。

 ダウンは外套の止め具を外して脱ぎ捨てると、左手に持っていた手の平ほどの大きさの鉄の棒を、漆黒の外套へと投げ放つ。

 しかしそれは容易くかわされ、その奥の建物の壁へと砕き刺さる。

「シャルロッテ……」

 しかし相手が跳び下がった事で、ダウンは相手とシャルロッテの間に入った。シャルロッテの様子を見るに、気を失っているだけのようだ。

「お仲間に会えるとは思って無かったよ、化け物が……殺してやる」

「オオオオオォ!!」

 瞬間、眼前に構えたダウンの剣に衝撃が走る。漆黒の外套……化け物の一撃だ。その風圧でダウンの髪が跳ね上がる。

「シャルより速いのか……ふっ!!」

 巨剣が前方の空間を凪ぐ。その風圧で散らばっていた石畳の欠片が吹き飛ばされるが、化け物にはかすりもしない。

 ダウンはそのまま剣を背後に振ると、鋭い金属音が鳴り響く。次は左側面。次は頭上。前面。爪と鉄のぶつかる音が、繰り返し夜の街に響き渡る。

 ダウンも相手の攻撃を防ぎながら、時折剣を振るうものの、それは相手の外套にすら届かない。

 防戦一方。このままでは押し切られてしまう。

「仕方ない……ぐっ!!」

 呟いたダウンが僅かに力を抜くと、相手の一撃で剣ごと後方へと吹き飛ばされる。

「悪いな……アタシは、『特別』らしいんだ」

 吹き飛ばされたダウンは剣を石畳に突きたて着地し、そして、右腕を肩まで覆う包帯を取り去った。

 焼け焦げた鉄。その腕は、そう見えた。

 形は細身の女性の腕。しかし無機質な、光沢のない金属の肌。

 それは、魔族の腕だった。

「『堕落勇者』、ダウン・フォール。『化け物』らしく殺してやるよ」

 突き刺さっていた巨剣の刃の止め具を外す。そして柄に手をかけ、『鞘』から引き抜いた。

「グッ!?」

 瘴気。それは魔族が発する気配。殺気にも似た負の気配。

 巨剣から引きずり出されたのは、赤黒く輝く長剣。かつてダウンが『勇者』だった頃、純白の輝きを放っていた聖剣の堕落した姿である。

 それに呼応するように、ダウン自身の右腕も赤黒く染まり、そして敵を見据える瞳は深紅の獣の瞳へと変貌する。

 闇よりも重い瘴気が石畳にひびを走らせ、ダウンには月の光も届かなくなる。

 そしてダウンが地を蹴る。石畳が砕け、瘴気に吹き飛ばされて宙に舞う。

 先程までより速い。しかし、それでも相手の方が速い。ダウンの振り下ろした刃は空を切り。

「ギャアアアアアア!!」

 横に逃げた化け物が左腕を切り落とされて絶叫する。

「速いな。八回斬って一撃しか当たらないか……じゃあ」

 再びダウンが地面を砕く。相手もそれに合わせて横っ飛びに逃げる。

「ガアアアアアア!!」

 腹部、肩、右脚。三箇所から血を吹き上げ、化け物は地面に転がりのた打ち回る。

 よく見れば、転がる化け物のその周辺の石畳に無数の斬撃の跡が走っていた。

「じゃあな。『お仲間』」

 最後は、ゆっくりと首を切り落とした。

 転がった首。その瞳は黒濁し、その周辺の皮膚から精気が失われて朽ちて行く。それは身体の方も同様で、獣の右腕以外はまるでミイラのようになっていた。

 ダウンはしばし、それを見つめていた。それはいずれの自分の姿なのだから。

「……ダウン?」

「おはよう、シャル。もっと早く声をかけても良かったんだぞ」

 戦闘中、シャルロッテの視線は感じていた。

 振り向く。真っ青な顔をしたシャルロッテの姿。

「これがアタシ。かつての聖女。かつての勇者の成れの果てだよ」

 だからダウンは、できるだけ優しく微笑んで見せた。




 遡ること二十年程前。

 白銀の魔王が猛威を揮っていた頃。

 ヴァリアント皇国の勇者が選ばれた。

 ライズ・ハイヤード。

 騎士の名門ハイヤード家の娘で、産まれたその日には次々と花が咲き乱れたという、精霊の祝福を受けた聖なる乙女だった。

 白金の清らかな髪。澄み切った紅玉の瞳。精霊達と語り合うことができ、剣の腕もすぐに皇国最強となった。

 勇者となった彼女は、魔王と共に各地で力を振るっていた魔族を皇国の騎士達と共に次々と打ち滅ぼし、人々を救う希望の光となっていった。

 しかしある日突然。

 彼女と騎士団が全滅したという悲報が大陸中を駆け巡った。

 白銀の魔王の側近の魔族との戦いで、相打ちとなったというのだ。

 人々は嘆き悲しんだ。

 彼女の両親も深く悲しみに飲まれ、やがてハイヤード家自体も没落、消滅したという。

「……両親は、自殺だったらしい。後から聞いた話だがな」

 遠くの空が白み始めた頃。

 いつもの酒場ではない。街の外れ。牧場でもあったのだろうか。無数に立ち並ぶ大きな杭の一つに腰掛け、ダウンはそこで一度言葉を切った。手にしていた酒のボトルから直接酒を呷る。

 隣の杭にはシャルロッテがもたれ掛かっており、その手にもダウンのものよりは弱いが、酒のボトルが握られている。

「飲めよ。素面じゃ話せそうにもないんだ」

「……」

 ダウンに促され、シャルロッテは一気に酒を呷ってむせ返った。

「そうそう。大人になったな、シャル」

「げほっ……ライズって名前なの?」

「ああ。まぁ、今の名前の方が名乗って長くなっちまったけどな」

 ダウンは普段は絶対に見せることのない笑顔でそう言った。その右腕には再び包帯が巻かれ、傍らの剣も巨大な鞘に納められている。

「でも、生きてた」

「ああ。騎士団は壊滅。アタシだけが生き残った」

 再びダウンが語り始める。

 ライズは魔王の側近との戦いの時、右腕を魔竜に食われた。

 ライズが倒れている間に、騎士団は隊長以外全滅。隊長も魔族に一太刀浴びせ腕を切り落としたが、深手を負っていた。

 負傷した二人では、撤退もできない。

 ライズは荷物の中に魔薬があったことを思い出す。どんな怪我も治してしまう薬だった。それで動けるようになった二人だったが、ライズの失った右腕は戻らなかった。

 利き腕を無くしては勝機はない。

「……まさか」

「ああ、他に丁度良さそうな腕もなかったし、どうせ刺し違えるつもりだったからな」

 魔族の腕を、つけた。

「そこから記憶はない。気が付いたのは、アタシの剣が隊長を斬り殺したところだった」

 ダウンは自嘲気味に笑って酒を呷る。

「魔族の血ってのは、人間にとって毒だったらしい。アタシは正気を失いながら、それでも、この腕の魔族だけは殺そうとした」

 ダウンは杭から降りると、杭の上にボトルを置いて、左手で右腕を掴んだ。

「でも見つからなかった。アタシはその周辺にいた魔族、魔物を全て斬り殺し、捜索部隊がアタシを見つけた時には、魔族の肉を食っていたそうだ」

 シャルロッテは顔を蒼白にし唇を震わせていたが、ダウンが視線を向けると、手にしていた酒を一気に呷った。

「どうやら、魔族の血を大量に取り込んだことが良かった……のか悪かったのか、アタシは正気を取り戻した。聖女だったこともあったかもしれないってのが、偉い魔術師の見解だ。アタシはその魔術師からこの包帯の封印呪を教わって、その後は国を追放処分になった」

「勇者、だったのに?」

「姿は別人。精霊の声も聞こえなくなった。おまけに腕は魔族の腕で、仲間も殺してる。追放で済んだのは元聖女を処刑する勇気がなかった国のお陰だな」

 ダウンは苦く笑って、酒を呷った。

「それから、アタシはこの腕の魔族を探しながら各地を旅した。で、モルト達と知り合って、賞金稼ぎのダウン・フォールになった……お前を拾ったのは、魔族の情報を追った先。そこは人間の姿に化ける魔族がいて……あとは知ってる通り、お前以外の村人を、全員殺した」

「……っ」

 瞳を細めるダウン。顔を歪ませるシャルロッテ。

「本当は、その魔族を殺せば、アタシは死ぬつもりだったんだけどな」

「……え?」

 ダウンはそう言って、左手にボトル、右手に剣を掴んで歩き出す。

「早く、アタシを殺せるようになってくれよ」

 振り返らないダウンの後姿を見ながら、シャルロッテはその場に呆然と立ち尽くしていた。



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