日常風景
鈍い、しかし甲高い音が空を埋め尽くす。
重い、しかし中身の無い屍が大地を埋め尽くす。
鈍色の帆布に鮮血の筆を走らせ描くのは、凄惨なる芸術。
「……ここも、違うか」
低く掠れてはいたが、それは女の声。若くも無いが、年老いてもいない。成熟はされているがどこか枯れている。小声でも耳に残るような鋭さを含んだ、凶器のような声だった。
「が……ああっ!」
人影が二つ。一つは今の呻くような叫びの主。光沢の無い銀の鎧に身を包み、長剣を構えてもう一つの人影へと振りかぶる、屈強な戦士。
「すまない……」
もう一つは先程の声の女。女という判断も、僅かに身体に見える丸みと、豊かな胸からでしかなく。漆黒の外套に身を包み、そこから不自然な程地面と平行に伸びた、包帯に包まれている右腕の先に握られた、あまりにも長大な剣は、もはや男女という境界すら叩き潰し、人外を思わせる。
そう、大き過ぎた。
女にしては長身の、その剣の持ち主の身の丈よりも、さらに幼子一人分は長く、女のその身全てが隠れてしまうほどに幅広く。例え軽量な材質の木剣だったとしても、微動だにせず水平に構えることなどできないであろう程に。
「すまないな……」
「……っ!?」
断末魔はなかった。
上げる暇も無く。
先に剣を振り下ろした戦士よりも速く。
女の、無造作に振った巨剣が、容易く男の身体を折り裂いたからだ。
そして、女一人だけになった。
見ればそこは、悪夢のような絵画の中ではなく、駐屯地のようだった。いや、駐屯地だったようだ。
そこにいた兵士達はすでに動かない。篝火の中、薪の爆ぜる音だけが無遠慮に響いている。
女はしばし佇んでから、一度だけ、深呼吸とも溜息ともとれるような、掠れた呻きを吐き出し、外套の中から取り出した麻布で剣を包み巻き、静かに歩き始めた。
焼け跡の灰のような髪は無造作に伸び、隙間から見える瞳は赤黒い。
灯りに浮かぶのは整った顔立ちだったが生気が無く、老若はおろか、生者かどうかすら判別できない。
「次は、少し南だったか……シャルはもう着いたかな」
いや、その言葉を口にした瞬間だけは、普通の人に見ることができたかもしれない。
彼女の名は、ダウン・フォール。
かつては人々に仇なす邪を打ち払っていた『勇者』だった。
今は、知る人は彼女を、『堕落勇者』と呼ぶ。
明けの光の中を白が駆ける。
砂塵一つ無く、音すら無く、どこまでも軽やかに、風の薄衣を身に纏い。
「ここも、違う」
「な、なんだテメェはっ!?」
声が二つ。
一つ目の声は若い女の声。澄み切った青空のような健やかで凛々しい、凱旋の鐘を思わせる声。主もまた、やはり凛々しい女。
長く瑞々しい金の髪を風に遊ばせ、金色の瞳は輝きに満ちている。白い軽鎧を身につけ、やはり白い外套をなびかせている。
手には細身の……しかし自身の身の丈ほどもある片刃の長剣。しなやかに鍛えられてはいるが、決してそれを扱える程の膂力がある身体には見えなかった。
二つ目は、恐れを含んだ野太い男の声。
なめした革を繋いだ鎧に、手には使い込まれた感のある剣鉈。女を騎士と見るならば、こちらは山賊と見るのが妥当といった姿だった。
もっとも、彼の周囲にはすでに彼の仲間達が倒れており、恐怖に捕らわれた今は賊の脅威などなくしてしまっているが。
「ま、いいわ。山賊に暴れられたりしたら、今は色々面倒みたいだから」
軽く扉を叩くような音。それだけだった。
「う、うわぁっ!?」
それだけだったはずなのに、女は、彼女を視界に捉えていたはずの男の背後に現れ。
「引退して、汗水たらして働きなさい」
「ぎゃあっ!!」
その長い刀身を、まるで小刀のように素早く奔らせ、男の手足の筋を切り裂いた。
それは、動けなくなる程ではないが、傷が癒えても剣を振って戦うことはできない程度に加減のされた斬撃だった。
そして、動けるのは女一人になった。
見れば倒れている全員が、先程の男と同じような傷を負っている。
「さて」
朝日が昇る。彼女は剣を一振りし、落ちていた鞘に剣先を通しながら拾い上げ、鞘に納めながら背負った。その滑らかな動きは、痛みに動けない男たちの目をも奪い、その痛みさせ忘れさせるほどに美しかった。
彼女の名は、シャルロッテ。
若く美しい、家名すらもたない儚げな少女だった。
知る人は彼女を『剣の妖精』と呼ぶ。
賑わう酒場だった。
街道沿いの小さな街のその酒場は、しかし賞金稼ぎや傭兵の集まる、ある種の組合のような場所となっていた。
料理の匂いに酒の匂い。腐敗した薬品の様な臭いから錆びた鉄のような臭いまで。人々の喧騒に混じる独特のその場所は、普通の人間には耐え難い場所だろう。
「なーんか、落ち着くのよね。不思議と」
「それはシャルが、一人前の賞金稼ぎになったってことだろ」
カウンター。店主の正面に座ってスープを口に運んでいたシャルロッテがスプーンを振りながら漏らした言葉に、店主の苦笑が返る。
「初めてここに来た時なんて、酷かったもんなぁ……ゲロ吐くわションベ……」
「そんな昔のこと思い出さなくていいのよっ!! あと、今後ろで笑った奴全員、後でぶん殴るっ!!」
顔を紅潮させて叫ぶシャルロッテを、不思議とその場にいる全員が穏やかな目で見ていた。
先程までは殺気や物騒な言葉を撒き散らしていた全員が、中には笑みさえ浮かべて。
「みんな、シャルには弱いのよね」
店主の隣にいた女が店主に耳打ちした。
「なんだろうな……全員の……この店の『娘』みたいになってるんだろうな、いつの間にか」
苦笑を零す店主の瞳もまた、柔らかい。
「もう……っと、帰って来た」
シャルロッテの瞳が、鋭くなる。スプーンを置き、代わりに立てかけていた長剣を掴んで鞘から抜き放つ。
「殺気も無い。物音一つ無い。なのにどうして分かるのか、いつも不思議でしょうがねぇ」
「どうして?」
「……っ!」
いつだって、この時だけは。
彼女を知る全員が、可愛い『娘』に恐怖する。
「簡単よ……アイツを殺すことが、それが……」
殺気などと、可愛らしい言葉では比喩出来ないほどの、剣気。冗談のように、スープの入っていた皿が割れた。
「私の生きてきた意味なんだからっ!!」
扉が開かれた刹那、シャルロッテの神速の斬撃が叩き込まれ。
「……おいおい。嬉しいからってそんなにじゃれつくなよ、シャル」
「嬉しいから仕方ないじゃない、ダウン。お帰りなさいっ!」
シャルロッテの刃は、ダウンの剣の腹で受け止められていた。
「ただいま、マスター。こっちは外れだった」
「そうか、ご苦労さん……シャルが寂しがってたぜ。外で遊んでやりな」
割れた皿を片付けながら言う店主に、ダウンは苦く笑って。
「よし、いくぞ」
「ええ、今日こそあなたを殺してみせる、ダウン!」
「まだまだ、その程度じゃ無理だね」
……。
そして、酒場は静寂に包まれ、やがて喧騒を取り戻す。
「どうにか、ならないのかしらね、あの『剣の姉妹』」
「どうにかは、できないしな」
女の言葉に店主が答える。
「自分の両親を殺した相手に育てられた少女と、自分が殺した相手の娘を育てる女……少なくとも、俺たちがどうにかすることはできねぇだろ」
店主は重く息を吐き出し、空気の代わりに手元のグラスから酒を流し込んだ。
「どうにかできるのは、あの二人だけ……だ」
遠く、剣撃の音。
しかしそれも、この酒場の日常の出来事なのだった。