不眠症のイーリャと迷い家(後編)
ゆっくりお茶を飲みながら、イーリャはこの状況のおかしさについて考えた。
自分は確かに街中にいた。
でも、いつの間にか森の小道に迷い込んでいた。そのことのおかしさを考えてもみなかった自分を思い出して首を振った。
自分は疲れていた、職場、人間関係、婚約者アレクセイの背信。
『君は一人でも生きていけるよ。でもあの子は僕の事を必要としてくれるんだ』
そう言って大学時代からずっと付き合ってきた恋人は自分を捨てた。
眠れなくなる前兆だ、いけないと判っていても考えると止まらない。
だってアレクセイ、それって七年も付き合った私を今すぐ捨てたいくらい重要な事なの?
だって貴方はしっかり者の私が好きだったじゃない。お前ってはっきりした奴だから隠し事しないし、信用できるんだって言ったのは嘘だったの?
イーリャはまたしても首を振った。
紅茶はカットレモンもミルクも両方あったから、どっちも試した。
本当の好みはジャムをスプーンで舐めながら飲むのだったけど、ジャムはなかったのだ。
――やめやめ!あんな奴知らない!大体、男がいなくてもあたしには仕事が。
そこまでで限界だった、そうか、あたし。
「PMSなんじゃないの?」と追い出される自分を笑った腐れ女のナターリャ。
「帰りたまえ」と無感動に言った嫌味な上司。
黙って頷く新人の頑なな横顔。
そして、追い出されたあたしを止めてくれなかった職場の皆。じわり、と涙が滲んだ。
慌てて煙草をくわえ、拍手一回で火が――ぼふん「きゃあ」
・・・・・・前髪が燃えた。
イーリャは火の魔法と相性が悪い。イーリャだけじゃなく雪の国の全員がそうだ。
状況の異常さにイーリャは目を剥いた。ありえない。
魔法は意志の力と、本人の血筋で発動する。
血筋に合わせて大気中のエネルギーが集うから、生まれた国の気候に合った魔法を世界の皆が得意とするし、火の国の人間なら意志の力だけで発動できる炎を、イーリャは手まで叩いて、煙草の火をつけるのがやっとだ。雪の国の人間の中には火花すら出せない人がいるからイーリャは上等な部類だ。
でも、今あたしの目の前に出た火は、あたしの顔と同じ大きさだったわ・・・・・・。
イーリャはこの場にエネルギーが満ちていて、魔法が使いやすい環境にあることを知った。
ぱきん、と背後で枝を踏む音がしてイーリャは我に返った。
さっき悲鳴を上げたのはあたしじゃない。もしかして。
そいつを振り返ったイーリャのすぐ側の茂みではっと息を呑んだ。――やっぱり!
イーリャは立ち上がり、悲鳴を上げた何者かのいる茂みの裏を覗こうとして。
「いない」
何度見直してもそこには何も無かった。葉っぱと、木の根っこだけ。
そこでイーリャはムカッと来た。職場を追い出され、不眠症、恋人、全部自分を馬鹿にしている!
完全に八つ当たりだけど、怒ったイーリャに理屈は通じない。
ずんずん件の廃屋に向かって行った。姿を見せない家主を説教するつもりで。
傾いた玄関の前、イーリャは叫ぼうとした。その時、
『・・・・・・さっきから聞いていれば大したミスでもないのに叱りすぎだ』
それは彼女が上司に言われた言葉だった。
職場を追い出された状況と今、それが重なって見えた。
耐えられなかった。今度こそ涙が滲んだ、それはやがて嗚咽になったけど、止めようとは思わない。
イーリャは婚約者に捨てられたのに一度も泣いていなかった。
意地でも泣くもんかと思った。あんな男のためになんて。
違う、泣くのは自分のためだ。構わない、だってここでは気丈でいなくていいもの。
だからイーリャはしばらく泣くことを自分に許した。
やがて泣き止むと全てが大したことじゃないと思えた。余裕も出てきた。
明日職場に復帰したら、新人君を労ってやろう。
今日七回目の同じ失敗をして私を怒らせた彼だけど、前より進歩はしているから。
上司に謝って、親友のアニュータと飲みに行こう。
そして最後に屋敷を振り返った。
不思議なところ、エネルギーに満ちていて。それでいて攻撃的な気配はない。
家主は姿こそ見せなかったけど、自分の望みを叶えてくれた。温かい食事、眠り。
だからお礼を言いたい気もしたけど、隠れてしまった家主はそれを望んでないとわかった。
イーリャは屋敷に背を向け、歩いた。家に帰るのだ。
でも、入り口に差し掛かって、笑いが漏れた。
「ここまでしなくて、いいのに・・・」
可愛いバッグの持ち手にはブルーのリボン。
中にはぎっしり檸檬の砂糖漬けやらの瓶が見える。お土産に持ってけってことらしい。
ふふっと笑いながらブルーのリボンと同じ瞳をした上司を思い出して気が重くなる。
気を取り直して辺りを見回すと、イーゼルがあって、スケッチブックとクレヨンが乗っていた。
それを捲る。
恥ずかしがり屋の家主にお礼の一つも書いてやろうと思ったのだ。
イーリャは一頁目で眉を上げ、二頁目にうんうんと頷き、三頁目で固まった。
やがて、ぶっと噴出して、くっくっと笑い始める。だって。
――あの人ったらどんな顔してこれを書いたんだろう?
それはイーリャの知っている字だった。
サメの目をした陰険上司の字。そこにはネイビーのクレヨンでこうあった。
『迷い家の魔女へ
私の願いは特にない。ただ、部下に一人元気のない奴がいて、そいつを元気にしてやる方法を思いつかない。私は慰めるのが得手でない。
彼女のためにレモンを一つ貰っていく。金は置いていく。私の国では貴重なものだから。
アレクセイ・エフゲニエビチ・ぺトレンコ』
イーリャには迷い家の魔女がどういう意味なのかわからなかったけど、上司がそれを願いを叶えてくれる存在だと思っているのはわかった。
・・・・・・あの人ってロマンチストだったのね、そもそも、アレクセイって名前だったんだ。
どうしよう笑いが止まらない。
それは彼女に手ひどい痛手を与えた男の名前だったのに、こんな物にこんなことを書く男の名前だと思うと、もう笑いの種にしか思えない。
ひとしきり笑った後、イーリャはオレンジのクレヨンを取り上げた。
『恥ずかしがり屋の家主さんへ
願い事を叶えてくれて有難う。後、上司のお願い事に付き合ってくれたのにもお礼を言うわ。
コート、次来た時に返すから、今日は借りるわね。私の国はとても寒いの。
p・s 笑いのネタを有難う。一生で一番面白かったわ!
イリーナ・ニコラエヴナ・ソコロワ』
最後に特大のハートマークを書き加え、イーリャはクレヨンを置いた。
深い森に続き、奥が暗くて見えない小道を覗く。
上司は今日も出勤してた。彼は帰ってきたから、私も帰れるわ。大丈夫。
イーリャは上司を思い起こしてにまにま笑った。
帰って彼がレモン渡してきたらどうしよう!だめ、笑っちゃうわ。
そして、帰ろうとして意匠返しを思いついた。やられっぱなしはイーリャの趣味ではない。
森に向かって三歩歩く。
そして、勢いをつけて振り向き、叫んだ。
さっきから近くに人の気配があるのを知っていた。相変わらず見えないけど。
ばれてるわよ、あんた。
「ありがとー!ありがとー!あなたの事愛してるわぁー!」
そして、彼女は森に向かって走り出して、消えた。
読んでくださった方に心から感謝します。