不眠症のイーリャと迷い家(前編)
主人公以外の視点になります。
イリーナ・ソコロワこと、イーリャは椅子から足を落としそうになって目が覚めた。
石のベンチなんかで寝るんじゃなかった。すっごく体痛い・・・・・・。
寝返りを打つと瞼の上に乗ってた何かが落ちた。
久しぶりに眠れた。
関節が痛むし疲れも残っているけど、まとまった睡眠に脳細胞が喜んでいる。
期待されることのプレッシャー、女だからと嘲られ、嫌味な上司の無理難題。そこまでは持ち前の反骨精神と不屈の根性でねじ伏せられた。
でも新人のフォローで連日の徹夜、婚約者に捨てられたあたりから体調が狂い始めた。
『不眠症』――態度の悪い不真面目な医者に面倒くさそうに告げられた病名だ。
眠れないストレスはイーリャを追い詰めた。
重大なミスを犯すことこそなかったが、小さな物忘れやひやっとした場面は一度じゃない。
溌剌としていた自慢の碧眼は疲労でくすみ、目の下の隈はもう化粧じゃ隠せない。体調に余裕が無いから今まで許せていた小さなことにすら苛立つ。
今日も懲りずに同じミスした新人を叱り飛ばしていたところで、背後からバサッと書類を取り上げられた。じろりと見下す目は余りに青すぎるせいで瞳孔だけ浮いて見える。
鮫の目をした嫌味な上司は中身までサメ並みに残忍。何の感情も無い氷のように陰気な声で「帰りたまえ」と言った。
イーリャがショックなのは陰気で嫌味な上司のせいじゃない。
負けん気の強いイーリャは上司の横暴に言い返すだけの気概がある。
職場でそんな人間は数えるほどしかいない。イーリャの自慢だ。でも、職場の皆も同じ意見だったからそれ以上反論できなかった。職場を追い出されるように出て、当ても無く歩きながらイーリャは思った。
――あたし、要らないってこと?
結果、迷って街中で遭難しかけ、やっと見つけたこの家のベンチで眠った・・・・・・眠れた?
起き上がったら体の上にかけられていた何かが落ちた。
はっ!?毛皮のコート・・・・・・信じらんない。どんなお金持ちよ。
信じられない金銭感覚だけど、おかげで快適に眠れた。きょろきょろすると羊のアイピローが落ちてる。さっき落ちたのはこれか。
かわいい――羊がナイトキャップ被って布団で寝てるデザイン。ふにゃりと和んだ。
雪の国の人間は大らかだ。イーリャは悲惨も理不尽も全力で憤るが、同じくらい楽しいことがあったり、そうでなければ酒を飲めば忘れられる。それでも久しぶりに笑った。
不眠症の疲れが彼女から奪っていたものだ。
羊を拾い上げようとして、左手から檸檬が転がった。――そうだ、この香り!
爽やかで嗅ぐと頭の中がほどけるような檸檬の香り、ベンチに座ってレモンの鮮やかな黄色を眺めながら何度も鼻先に持っていく内に自然と頭が落ちてきて・・・・・・。
もしかしてと思って、羊のアイピローくんくん嗅ぐと、また別の香りがした。
知らないわ、これ。でもいい香りなのでイーリャは気に入った。
そして思った。――誰が?
その疑問は当然のことだ。
このレモンは庭の入り口にあった小机に無造作に置いてあった。子供の悪戯だと思った。
庭の奥には家があったけど、ガラスはひび割れ、扉は傾いて何処もかしこも埃まみれ、絶対に無人のはずだった。だからイーリャは他家の庭先に座り込んで休むなんて無作法をしでかしたというのに。
寝入ってしまったのは予想外だったが、それだけ疲れていたんだろう。
でもコートといい、アイピローといい、持って来てくれた人がいるんだとしたら。
戸惑ったイーリャは家がある方角をちらりと見た。どう見ても、無人に見えるけど。
幽霊?イーリャは恐くなった。
ぶるりと震えたのは寒さもあるだろうからコートを着させてもらった。
いいわよね、今まで貸してくれてたんだし。
――誰かいるならお礼を言わないと、後、コート返さなきゃ。
義理堅いイーリャは覚悟を決め、そして羊(ちょっと狭いけどゴメンネ)とレモンをポケットに詰め込んで、歩き出した。廃屋のある方角へ。
家はいよいよ廃屋って感じだ。空き家か、住んでいるのはよほどの変人だろう。
・・・・・・こんな所バーバ・ヤーガしか住んでないと思うけど。
子供の頃に親に聞かせられた寝物語の妖怪を思い出して勝手に怯えるが、気丈で現実的なイーリャはさっさと持ち直す。
バーバ・ヤーガの屋敷なら四本の鳥の足で動くはず、この家に足はないわ!
それでも頭の中でガサガサと蜘蛛のように蠢く四本足の幻影と戦いながらイーリャは進む。
でも、家に着く前にそれはあった。
イーリャはお腹が空いていた。ぐぅっと自己主張する腹を必死で宥めながら思う。
いや、待ちなさいよあたし!いくらなんでも駄目でしょっ。
それもそのはず、すぐ歩いたところに円テーブルと椅子が一脚があった。
まるでイーリャの望みがわかっているように、お茶はほかほかと湯気を立て、サンドイッチがおいしそうな切口をさらしている。クッキーもある。
職場を飛び出したのは昼前のことだ。
思えばお腹が空いていたからあんなに腹が立ったのかも、と思う。
でも、それとこれとは話が別、これ以上おもてなしを受けるわけには・・・・・・だってこの食事が自分のために用意されたものだとは限らないわけだし。
イーリャは躊躇った。そして。
おいしかった!
やっぱ空腹はいけないわね。久しぶりにこんなに食べたわ!
食事はおいしかった。
お茶は何の薬草かはわからなかったけれど、優しい味がして不眠症で荒れた胃にも沁みなかった。疲労と、ストレスで増えた煙草とお酒で弱った体も食欲を思い出した。
勢い込んだイーリャは他のポットや皿も覗いた。
サンドイッチはレタスと赤い何かが挟まっている。バーバ・ヤーガを思い出して(もしかして、血?)怯えたイーリャだったが、血の臭いはしなかった。
他の物も野菜みたいだ。ちょっとさみしいが、イーリャのお腹は弱っているからお肉は食べたくない。ちょうどよかった。
銀らしいポットの中身を空けると、なんと蓋がスープ皿で、中はスープだった。
やっぱり赤い色で野菜がたくさん浮いているのに怯えたが、いい匂いの誘惑に負けた。
野菜はやわらかく煮込まれている。一口飲んだだけでじゅっと唾液が湧いた。
一番最初に片付けて、サンドイッチに取り掛かかり、ついに全部食べてしまった。
程よくお腹が満ちたところで別のポットの中身をカップ垂らすと、紅茶だ。
やっぱり!クッキーがあるから絶対そうだと思ったのよ!
お茶菓子はジンジャークッキーと、後は・・・・・・蓋を取るとレモンの香りが鼻をくすぐった。
イーリャは感嘆の溜息をついた。どうして私の望みがわかるのかしら。
――レモンケーキだった。
読んでくださった方に心から感謝します。