檸檬の砂糖漬けについて(後編)
ちょっと暗いです。ご注意ください。
それを見て思っていたのは、『失敗した』ってこどだった。
・・・・・・何がいけなかったのかな。押し付けがましかったから、売り物だと誤解されたのかな、貰って欲しかっただけなのにどうしてだろ。
どうも私は落ち込んでいるらしかった。
目の奥の蟠りを吐き出すみたいにふかーく息をついたのに、もっと重くなる。何とか自分を宥めようと、お金を払う余裕があるのはいいことだと言い聞かせる。
うだうだ考え込んでいて、思い出した。――そうだ、実験。スケッチブック!
急いで捲ったら、メッセージがあった!けど・・・・・・。
一頁目、多分アラビア語・・・・・・だと思う。
私には留学経験がない。アラブ人の知り合いもいない。
このくねくねが何処まで文字で何が何なのか理解できない。文通は無理だ。
二頁目、アルファベット?規則性は似てるけど形が違う。世界史の教科書で見た紀元前のアテネやペルシャで使われたものに似てる。
私、考古学者じゃない。文通は無理だ。
三頁目、・・・・・・ロシア語のキリル文字に似てるけど、やっぱり違う気がする。
ずーん、と落ち込んだ。ちょっと考えが甘かったなぁ。
私は言葉が通じる事に疑問を感じなかったし、別に通じなくても構わなかったけど物事が都合よく進んだ。だから、これも大丈夫だと思ったけど。
異世界の不思議について考えそうになって首を振って振り払う。考えても仕方ない。
突然、外が別世界に変わっていた時もそうしたように、私は肩をすくめてやり過ごした。
さて、文字の問題が解決したところで、事態の凡その推理が出来たんだな。
目の前の机には、お金の入っているグラスが三つ誂えたように規則正しく並んでいる。左からコイン、紙幣、銀貨の順番だ。
一番左、一頁目のアラビア語の訪問者が一番最初に規則性を作った。
多分彼は「ありがとう!お金ここに置きます」とか書いたんだろう。私の文字が読めないから代金が書いてあると思い込んだのかも知れない。
二番目の人は、アラビア語を理解できたかわからないけど、お金をおいてあるのを見て檸檬の砂糖漬けを商品だと思った。やっぱりメッセージを残し、お金を払った。
三番目も同様。
うん、妥当で納得のいく説明だと思う。
物事って案外単純だから、きっと真相もこんな感じだろうな。
でも、それは何の解決にもならない。
悲しいのも、ご近所におすそ分け、くらいの気持ちだったのを文字が違うだけで誤解された不便さからじゃない。考えたくなくて黙って空になったポットとグラスをスケッチブックと一緒に抱えてとぼとぼ歩いた。
私の気分は地下鉄の一番深いところと同じくらいの深さにまで落ち込んでいたから、きっと何が起きても気がつかなかったと思うけど。
私は歩いて、石榴の木に差し掛かかり、何かを跨いで通り過ぎて、固まった。
あれ?今何か跨いだかな?と思って振り返るのを何故か躊躇う。
恐々振り返って、ぽかんとした。人間って驚くと口が開くって本当だ。
――虎だ。
きれいだなぁ。大きいなぁ。ふとい尻尾だなぁとか考えて、閉じた瞼と隈取を眺め・・・・・・。そのあたりで、待って。目の前に猛獣がいるのにこの反応は違うんじゃないの?とか何とか後ろ頭らへんの冷静な自分に言われた。
警戒心って足元から来る。
で、そいつは私をじりじり下がらせることにしたらしい。多分、後ろに。
背筋が冷えて、口角が引きつった。おかしいなって思いながら・・・・・・私、どうもだらだら冷や汗をかいて、喉の奥がひっって鳴ってるらしいよ、おかしいよね。
もっとおかしいのは自分だ。これで冷静だと思ってた。
最終的にはびくんって反射的に跳ね上がった肩の動きをどうにも出来なくて――どうもポットを落とした。琥珀色の獰猛な目がこっちを見たと思うけど。
めちゃくちゃに走って、猛然と迫る虎の爪音とか唸り声を聞いたと思うけど、結果的に玄関に駆け込んで、震える手で鍵をかけたんだ。
記憶はぶつぶつ切れて、断片的で不連続なものしかない。
鍵を爪で引っかいて、失敗して、もどかしい位時間が掛かってやっとその場に座りこんだ。
膝と掌を擦りむいて、身に覚えのないところに痣ができてる。
覚えているのは、この時ぼうっと見ていた自分の膝だけ。
久しぶりにアドレナリンなんて分泌したから、後の脱力感は凄まじかった。
賢者モード?重くなったぐだぐだの体と腕をだらんとして座ってたら、ちょっと落着いてきて、冷静になって来た。疑問も降ってきた。何で逃げたんだっけ、私。
――そもそもあいつ、私のこと追って来たっけ?
見間違いな気もして来た。気のせいの気もする。幻覚じゃないかな?
私はマジシャンじゃないし、家は動物園じゃないから虎はいない。すごくでかい猫だったかも知れない。
それにもう家の中――私の領域だ。お家は安全。
確認しようという思考はごく自然に湧いた。
私の部屋は家の一番高いところに窓がついていて、庭が一望できる。
飛び跳ねるみたいに立ち上がった。階段を駆け上がり、わくわくしながら窓を覗き込んだ。実は私、動物とか好きだ。危険がないなら見たい。とても見たい。
そろそろと目を動かして、どきどきしながら発見現場の石榴の辺りを探り。
・・・・・・いた。
虎は冗談みたいに当たり前に座っていた。悠々とした体躯、代名詞のトラ模様も鮮やかで、腕なんて石榴の幹と同じ太さだ。
逃げて正解だった。あんなのに襲われたら頭が石榴みたいに弾けちゃう。
さて、何してるのかな?
虎の躍動する筋肉は卓越した運動能力を感じさせた。
別に彼は獰猛に何かに襲い掛かったり――してない。
落着いて、行儀よく座っている。
ん?と思った。あれ?何しているの?と思って、目を凝らすと、前足で何かをつついて、転がしている。昼食に選ばれた不運な訪問者じゃない。
私が落とした保温ポットが彼の前足の下で光っている。
吹いた。『ぶっっ』、て。
そのままげらげら笑った。
ああ、そうか。あの時落としたんだ。もしかしてあっちが気になったから私を追わなかったのかも知れない。よかった、年取った虎は人食いになるって俗説なんて聞いたから・・・腹筋が引き攣れるくらい笑いながら、ああ、私へんだなぁと思う。自分でもびっくりするくらいハイになってた。テンションおかしいよ絶対、とか思った。
それでも止まらなくて、散々笑った。おなかが痛くても笑った。
砂糖漬けのお金、次は虎、久しぶりに振り回されて感情のリミッターが切れちゃったんだと思う。
それでも涙が出るくらい笑った頃には、件のおかしな虎殿はその遊びに飽きていた。
毛繕いとかしている。
・・・・・・虎だって可愛い、危険さえなければ。
冷静になって思った。ここはどこなんだろう?今朝見たジョウビタキは温暖なアジアで越冬する小鳥だ。
虎はインド?中国だったっけ?何で来たんだろう。ショックを通り過ぎたら、忘れようとしてた嫌な思考もじわじわと効いて来た。
でも、ここは異世界だ。
郵便は世界が変っちゃっても届いているけど明確に違う世界で、生活用品をオーダーする月一の宅配は私が頼んだものしか来ない。虎は頼んでない。
虎殿は家の前の森か、小道から来た休暇中のサーカス団員か、野生のものということになる。『でも、私の庭はバカンスには寒いと思うよ』寝る体制になった虎殿に話しかける頭の中にはごく自然にその思考が忍び寄った。――だって、ここの気温は“日本”だった頃の秋と変わりないから、と。
さて、逃避はおしまい。色々誤魔化して逸らしてきたものが噴出そうと知るのが判る。
オペラグラスは用意しておいて、覗いたことはなかった。
だから私がこうなった後の外を見るのは初めてだ。
はてしなく続く森と、正面は岩山。向こうは見えない。肩をすくめようとして失敗した。
言い聞かせる。
私は開かれた文明社会の街中で、地図を持って遭難する人間だ。
非文明社会で、かつ見知らぬ森なら木の根っこに躓いて死ねる。
きっと庭の外に出るのは無茶だよ。
でも考えた。柿泥棒の少年は何処の町から来たのかな?家の裏手の、森の奥がすぐ町なのかな?
ロレンスは熱い国から来たと言ってたけど、確実にそれは私の世界じゃありえない。
――だって、指一本で火を点けられる人なんて私の世界にはいなかったんだから。
興味無いって言ったくせに詮索している。
・・・・・・本当に興味がない。興味ない。興味ない。
言い聞かせた。何度も。
生活環境には変化がない。素性の知らない客しか家に来ない状況も日本にいた頃と変わりない。
ジョウビタキも虎も、柿泥棒少年もロレンスも前の世界に居たり、見たことのある物を身につけたりしてたから勝手に親しみを感じていたけど、他人であることに変りはない。
見知らぬ世界で前の世界じゃ求めなかった他人との繋がりを求めていた?
彼らに気に入る行動を取って取り入ろうとした?
お金を貰ったのが寂しかったのは親しみを感じた彼らに一線引かれたと感じたから?
心の中に重たい感情がぐらぐらと煮え立たっている。それは見てみない振りをして、いつも私の中にある。だからいつも、ふっと息を吐いて逃がしてやろうと思う。
制御できたと思っていて暴走している。その感情の正体は何がって訳じゃなく。
私は詮索したくなかった。それは私がこれからも親しく付き合っていかなきゃならない、唯一、絶対の隣人だと思っているから。
いつも大事な問題から逃げる。私はいつも、そのツケを払えると楽観視する。
そんな時『だって、門取っちゃったんだから』って思いが私を笑わせた。
ロレンスに言ったことが跳ね返ってきた。この庭は森と一緒だから好きにしていいと。
なら・・・野生動物と同じように。
私は訪問者に何一つ要求するつもりはない。
彼らが何かを求めてきても気まぐれで与えたり、与えなかったりしていい。
彼らと私の間には何の約束もないから、彼らが私の行動をどう考えようがどうでもいい。
訪問者をもてなすのも、野生の珍しい生き物を餌付けするのも同じ事。
すっきりした。というよりすることにした。
そして私は部屋に戻った。
しばらく外には出られない。虎がいるんじゃ危ないし、見たいサイトもある。
訪問者が虎に食われても構わない。
どっちも勝手に入ってくるんだから文句はないでしょ。
お金貰えたことも後から考えればどうってことない。
私も勝手にするから、彼らも勝手にすればいいのだ。
さて、この話後日談がある。
スケッチブックは置いておくことにした。私は書かないけど、誰か書いてくれたら面白いので。
三種類あったお金は観察してみると面白い事がわかった。
コインは、絶対ロレンスの故郷だと思う。水晶みたいな透明の鉱石の中に色んな色の炎が燃えていてとても綺麗だ。温かいのでポケットに入れてカイロ替わりにしている。
紙幣は、同じ世界の紙幣にすら詳しくなかったから分からないけど、円じゃないのは確実だ。釣り目の女の人で、頭に変った形のとげとげした冠を被っている。
銀貨が一番不思議で、とろっとした水銀みたいに光沢のある金属だった。表面には何も書いてない。すごく軽くて、その癖噛み付いたら硬い。
でも、指で曲げてみたら牛乳キャップみたいに曲がる。どんな金属なんだろう・・・。
まあ、気にしてもしょうがないね。
虎は外でのん気に砂浴びをしている。
何が気に入ったのか一向に出て行かない。
誰か襲われた気配はないし、野生の獣だから、勝手に満足してその内出て行くと思う。
家の外が異世界になっちゃったけど、特に問題は無い。今日お金を手に入れた。
そういえば庭の檸檬と柚子の木を見たらかなり減っていた。外には虎がいるのに訪問者はどうやって来たんだろう?
読んでくださった方に感謝します。有難うございました
ちなみに地下鉄の一番深いところは都営地下鉄の地下42メートルを参考にしました。主人公が悲しいのは私も悲しいので、早くシリアスを抜けたいと思います。恐らくあと一、二話でシリアスは止めてみせる。