檸檬の砂糖漬けについて(前編)
長くなりすぎたので前後編に分けてみました。残りは別の日に掲載します。
あの柿泥棒の少年の来訪以来、たまーに外を見るようになった。
・・・・・・あ、まただ。うわぁ・・・・・・あれ?
小道を辿って来たけど、庭に入らずに帰ってしまった人がいた。
首を振って、自分の正気を疑うような仕草だった。
ふぅん、そういう人もいるよなぁ。
気がついたのは、散歩をしていて道に迷ったというロレンスみたいに綺麗な格好をした人が稀だということだ。
森を抜けてやって来る人は程度の差はあれ、皆疲れている。
それどころか、たまに満身創痍の人がいる。
この家にやって来る訪問者はうちの庭の果物を持っていくことを躊躇わない。
それって余裕がない精神状態じゃないとしないことだと思うんだ。
現に、土気色の顔でふらふら現れて、果樹に目を留めるなり目を見開いて(五百円玉が入りそうなくらい)、一気に駆け寄って(両手を広げて運命の恋人を相手にするみたいに木に抱擁していた)果実を、砂漠で水を見つけた人みたいに貪り食い始める人がいる。
汚れすぎて、性別も分からなかった。
身につけているものから辛うじて女性だと分かるその人。頭を殴られた気がした。
ボロボロの今にも裂けそうな服だの、穴だらけで継ぎの当たったスカートだの、骸骨みたいな体なんて描写は、創作でしかありえないと思ってのほほんと構えていた私の自意識は、その人の外見に多分沖縄あたりにまで吹っっ飛ばされた。
その人は庭の木で十分飢えを満たしてから帰った。
過酷な環境って言葉の実態をリアルに想像しながら、私は何時までも首を捻っていた。
もしも、彼女に駆け寄って「さあ家に上がって何でも召し上がってください」と言ってあげられる度胸と根性があるなら、私はこんな所に閉じ篭っていない。
止めておいた方がいいよ、と冷静な自分が言った。
ロレンスや泥棒少年とは違う。私が、自分の意思で、人と交わろうとするなんてって。
でも、私はその声に誤魔化した。
目的は小鳥にあげちゃう木の実が勿体無いと思っていたからだし、訪問者たちの行動は私にとって都合がいい。庭の果物の処分と、疲労回復という訪問者の利害が一致しただけ、と。
そして、私はその実験を思いついた。
改まって何だって話なんだけど、簡単なこと。
うちの檸檬と柚子の木の売れ行きが芳しくないので、実験を兼ねて、訪問者をテストしてみようと思うんだ。
まず、檸檬と柚子の木の横に小さなイーゼルを置いて、そこにスケッチブックとクレヨン。大量の紙袋を置いた。
スケッチブックにはこうある。
『ご自由にお取り下さい』
いや、訪問者は言われなくても勝手に取っていってしまうけど、この実験の目的はそこじゃない!
同じ言葉を知る限りの言語で記す、まず日本語、英語、広東語で記した。
どれかを読める人が来たら、その言語は使える。
そうしたらまた別の三つを試してみるつもりだ。
魔法を使ったロレンスは完全に異世界の人だと思うから、どこまで出来るかわからないけど、もし使った文字に同じものがあれば文字でコミュニケーションができる!
クレヨンを置いておけば一石二鳥、何か書いてもらえるかも!
・・・・・・と、思っていたことが私にもありました。はぁ。
引きこもりで社会性が底辺に満たない私に、この類の企画立案を任せるのは間違いだ。
檸檬の木が見える台所付近に陣取って一日中本を読んでみたけど誰も来ない。そりゃそうだ。人気がないから実が売れ残っているんであって、「持って行け」と言われても、そもそも人が来ないんだよ。それに。
私は訪問者が一日何人来るか知らなかったし、興味がなかったから調べてもいない。
『いつ?』それは夜中かもしれないし、頬が切れそうなくらい寒い早朝かも知れなかった。
誤魔化しているけど、バランスを崩している自覚はあった。
私は人間が嫌いだし、一人でいる時が一番安定する。
脳内会議をしてみた。
『彼らが何処から来て、誰で、何してた人なのか知りたいか』
間髪入れず、ノー。
『森をどろっどろに疲弊して抜けて来た人達を慰労してあげたい?』
どちらかと言えば、イエス。
“厳正なる審議の結果、満場一致で可決されました、以上。解散”やれやれ。
そもそも、私が本当に彼らとコンタクトを取りたかったら、文通なんてまだるっこしいことはやめて、さっさと話しかけたらいい。――話せるのは分かっているのだから。
・・・・・・私の答えは、「そんなの嫌。知らない人こわい、お外はこわい」だ。駄目だこりゃ。
で、別の方法に切り替えた。
まず檸檬の木と柚子の木から、熟れた実の大半を収穫して加工することにした。
『試供品です。持って行って下さい』作戦だ。
檸檬と柚子の欠点は生食できないからだし、すぐ持っていける状態なら持って帰ってくれるんじゃないかな、と。
日持ちするように加工すれば、自分で食べてもいいしね。
ところで、柑橘類って幸せの香りがすると思う。元気がなくても、ショックなことがあっても元気になるし、悩みごとも大したことじゃないと思えるようになる。
その香りを久しぶりに感じて気分が良くなった私は勢いよく作業した。
果皮は包丁で剥き、残しておく。
半分は摩り下ろして、これも残した。レモンピールはお菓子の牛皮に練り込んだりできて使い勝手が良いし、一番栄養があるのだ。
レモンスライスを大量に作り、柚子もスライスして、砂糖と蜂蜜に漬け込む。
煮込んだり、剥いだりしてマーマレードも作った。
お酒も作った。
昔はこういうこともしていたから方法に苦労はない。
思いついて、同じように売れ行きの良くない花梨の実(苦いから生食は絶対出来ない)や、熟れすぎた無花果も漬けた。そこまでして、果物酒用のホワイト-リカーが切れてしまったから、また買おう。
さすがに作りすぎた。はちみつ漬けと砂糖漬けなんて全部で五十瓶くらい出来てる。
うーん、おかしいなって思ってはいたよ。
家の木はどれも樹齢が高いからレモンも柚子もたくさん実る。その大半ってどれだけか計り切れてなかった。
昔取った杵柄とやら、私はこういう単純作業に酔う性質で、やればやるほど没頭するから、いつも消費しきれないぐらい作ってしまう。迷惑がられるくらい。
これはいよいよ誰かに貰って貰わなきゃいけないなぁと山のような瓶を見て思った。
鋭い人ならここで、いくらなんでも行動的過ぎるって思って自制するんだろうけど、私はこういう時、自重できない性質だ。
だから、要領悪く人生を踏み違えて、こんな所に逸れてしまったとも言える。
多分そのことをよく考えておくべきだったんだろうなぁ。私の暴走体質を。
机を一つ運び出した。
お湯を保温ポットに入れて、お盆に伏せた耐熱グラスを置く。
冷たいお茶も準備して、埃避けの白い布を掛けておく。
檸檬の砂糖漬けやはちみつ漬けの瓶を山積みにし、そのまんまのレモンと柚子も袋と一緒に置いて、考えてからやっぱり小さなイーゼルにスケッチブックとクレヨンを置いた。
内容は、『ご自由にお取り下さい』を以前考えたやり方で。
晴れているし、これでいいかな。
それにしても、久しぶりに働いたから疲れちゃった。
そして、後は訪問者に任せることにして、暫くそのことは忘れることにした。
それで、『あれ?そういえば』って思い出したのは三日くらい経ってからだと思うけど、よくわからない。
窓の外に胸がオレンジ色した綺麗な鳥がいた。
彼は桐の木の梢で首を傾げたり、しばらくの間囀ったりしていたけど、やがて鳥の気まぐれさで人間の小娘になんて見向きもせずに飛んでいった。何処かへ。
綺麗な彼の名は多分ジョウビタキと言う。故郷が寒いからバカンスに来ている。
・・・・・・要はそれでやっと外のことを思い出したって訳なんだけど。
いや、始めは意識して忘れた。そのうち本当に忘れた。色々酷い。
でも、柿泥棒の少年やロレンスを見つけたのは私にしてみたら奇跡なんだ。
うん、私がどんな生活しているか察してもらえたと思う。
私は玄関を出て、小道の方まで歩いた。
雨は降らなかったから大丈夫だと思うけど、風で埃避けは飛んでいったかもしれない。机とか倒れてるかもなぁ。
お茶腐らなかったかなぁ、おなか壊した人がいたらどうしよう、とか。
のほほんと考えていた訳なんだけど。
で、見たのが。
砂糖漬けとはちみつ漬けは全部なくなってる。
置いておいたレモンと柚子の実も減っている。
お茶はびっくり、全部飲んである。保温ポットの中身も空だった。
で、いくつかグラスが使ってあって、その中にね。
お金?だと思うんだけど・・・・・・が、入っていてね。
うん、うん。えーと・・・・・・。何でだろう。
読んでくださって有難うございます。
ちなみに主人公が見た鳥はジョウビタキではなく、クロジョウビタキかイソヒヨドリです。全部胸がオレンジなので主人公も私も区別がつきません。全部綺麗な子達ですので、よかったら検索かけてみてください。